学習通信050828
◎人類の経験の大河では……
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言語が労働のなかから、また労働とともに生まれたのだとするこの説明が唯一の正しい説明であることは、動物との比較によって証明される。
動物では、最も進化した動物にあってさえも、たがいに伝えあわなければならないことはごくわずかで、音節をもつ言語がなくとも彼らはこれを伝えあうことができる。
自然のままの状態では、どんな動物も、自分が話せないとか人間の言語が理解できないことを欠点だとは感じない。
人間に飼いならされると、事情は一変する。
犬や馬は、人間の仲間にはいっているうちに、音節のある言語にたいしてすばらしくよい耳をもつようになり、そのため彼らは、彼らの考えの及ぶかぎりでなら、どんなことばをも容易に理解するようになる。
彼らはさらに人間への愛着とか感謝の念などといった、それまで彼らにはなかった感覚能力をも獲得した。
そしてだれでもこうした動物たちをしょっちゅう取り扱っていると、話す能力を欠いていることを動物たち自身がいまでは欠点と感じとっている場合もたしかにあるのだという確信が生じてくるのをおさええないであろうが、ただしあまりにも特定の方向にだけ特殊化してしまった彼らの発声器官では、残念ながらもうこの欠点から逃がれだす助けにはなりえないのである。
しかし発声器官があれば、この話せないということもある程度までは解消する。
鳥の口腔器官はたしかに人間のそれとはこのうえなく異なっているが、それでも鳥は話すことをおぼえる唯一の動物である。
そしていちばんいやな声の持主であるオウムがいちばんよくしやべる。オウムには自分のしやべっていることがわからない、などといってはいけない。もちろん、オウムはしやべるたのしみや人間のお仲間になるというたのしみだけから、何時間でも自分の語彙のありったけをペチャペチャと繰りかえしているということはあるだろう。
しかしオウムはオウムの考えの及ぶかぎりで、自分がなにをしやべっているかを理解することをも習得できるのである。オウムに悪口を教えこんで、オウム自身にその意味の見当がつけられるようにしこんでみたまえ(これは熱帯地方から帰航してくる船員たちのなによりのたのしみなのである)。
そしてオウムをからかえば、オウムは自分の知っている悪口をベルリンの野菜売り女と同じくらい正しく使うすべを知っていることがすぐにわかるだろう。好物をねだるような場合も同様である。
(エンゲルス著「猿が人間化するにあたっての労働の役割」M・E8巻選集 大月書店 p299-300)
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舌と手が交替したわけ
道具も経験も少なかったころには、経験を伝えるにもごく簡単な身ぶりでよかった。
しかし、仕事が複雑になるにつれて、だんだん身ぶりも複雑になった。一つ一つの品物に一つ一つの身ぶりがいり、しかも正確にえがきだす身ぶりが必要になった。
そこで、身ぶりで絵をかくようになった。空中に、動物や武器や木をかいて示すようになった。
たとえば、ヤマアラシをかいて見せるには、ただかくだけでなく、かきながら自分もヤマアラシになりきるのだ。ヤマアラシが耳をたて、土を掘り、足で土をはねのけ、からだの針をさかだてるようすをしてみせる。
こういう無言の物語を演ずるには、現代では真の芸術家しかもっていないような、しっかりした観察力が必要である。
「水を飲む」と言っても、ことばだけでは、どういうふうに飲むのかわからない。コップからか、びんからか、それとも、手のひらにすくって飲むのか、わからない。
手まねで話すことを忘れきっていない人なら、別のあらわし方をするだろう。
手のひらを口につけ、いかにも水を飲んでいるように舌を鳴らし、見えない水を飲むふりをする。さもうまい冷たい水で、のどのかわきがすっかりいえたようである。
わたしたちは、狩猟については、猟をする≠ニか「狩りをする」とか言うだけである。しかし、古代人は、狩猟のすべてのありさまを、身ぶりでえがきだすことができた。
身ぶりことばは貧弱ともいえるが、同時に、豊富ともいえる。
品物や事件を生き生きとはっきりえがきだす点では豊富だったが、同時に、貧弱な点もあった。、
左の目、右の目なら、身ぶりで示せる。しかし、ただ「目」というときはなかなかむずかしい。
身ぶりは品物を正確にえがきだせるが、抽象的な観念はどんな身ぶりでもうまくあらわせない。
また別の欠点もあった。それは、夜は話せないということである。暗闇のなかでいくら手を振り回しても、だれにも見えない。
また、日が照っていても、身ぶりだけで話せるとはかぎらない。
見通しのいい草原でなら、身ぶりで話し合うのは簡単である。しかし、森のなかで、木の壁が猟師のあいだに立ちふさ、がっている場合には、とても身ぶりでは話せない。
そこで、人間は、声を出して話し合わねばならなくなった。
はじめは、舌ものどもなかなか思うように動かなかった。声に区別をつけることもむずかしかった。互いに離れて呼び合う声は、ただ絶叫となり、怒号となり、金切り声にしかならなかった。人間が自分の声を支配し、はっきり発音できるようになるまでには、かなりの年月が費やされた。
前には、舌は手を補助するだけだったが、いまや、はっきりとくぎって声が出せるようになると、舌の役割はオーケストラの第一ヴァイオリンのようなものになった。
今まで、声のことばは、身ぶりことばの助手にすぎなかったが、今度は、いちばん重要な役を占めるようになったのである。
口の中の舌の動きは、身ぶりのうちでもいちばん目だたないが、耳で聞かれるというすぐれた特長がある。
はじめのうちは、声のことばも身ぶりことばに非常によく似ていた。声のことばも、一つ一つの品物や動作を、絵のようにはっきりと生き生きとえがきだしていた。
アフリカのエヴェ族のことばには、ただ「歩く」というだけのことばはない。たとえば、「しっかりした足どりで歩く」──「ゾォ・ドゼエ・ドゼェ、「ふとった人のようにのしのしと歩く」──「ゾォ・ボホ・ボホ」、「どんな道でもかまわずひたすらに急いで歩く」──「ゾォ・ブラ・ブラ」、「小きざみに歩く」──「ゾォ・ビア・ビア」、「うなだれて少しびっこを引きながら歩く」──「ゾォ・ゴヴオ・ゴヴオ」という言い方をしている。
こういう表現はすべて、いろいろの歩き方を非常に精密に正確にかいた声の絵である。この表現法では、「普通のしっかりした歩き方」や、「足を曲げないで歩く人のしっかりした歩き方」の区別まである。
いろいろの歩き方と同じ数だけの表現法があるのである。
かいて見せる身ぶりことばは、ことばでかく絵に変わった。
このように、人間は、はじめは身ぶりことばで、のちには声のことばで、互いに話し合うことをおぼえたのである。
河とその水源
わたしたちは、過去への旅をして、何を見つけ出しただろうか?
旅行者が河に沿ってさかのぼり、その源流を見つけ出すように、わたしたちも、人類の経験の大河のみなもとである小さな流れに到達したのである。
わたしたちは、その源流の近くに、社会の始まり、ことばの始まり、思考の始まりを発見した。
河が流れ入る支流を合わせるたびに、しだいに豊かに水量を増していくように、人類の経験の何もますます深く、広くなっていく。世代ごとにその経験が集められ、河へ運び込まれるからである。
時は、次々に人間の世代を過去の世界へ連れ去り、人も種族もあとかたもなく消え、町や村も何一つ残さずに滅びた。時の破壊力に刃向かえるものは何もないように思えた。しかし、人類の経験だけは消えなかった。それは、時の力にもうち勝ち、ことばのなかに、技術のなかに生きつづけた。言語のなかの一つ一つのことば、仕事のなかの一つ一つの動作、学問のなかの一つ一つの概念、──それは、各世代の経験が集積され、統合されたものにほかならない。
河に注ぎ入る支流の一滴の水さえむだでないように、各世代の仕事はむだではなかった。人類の経験の大河では、過去の人間の仕事と現在の人間の仕事とが合流し、一つになるのである。
こうして、わたしたちは、何の上流──すべての事業の水源に行き着いた。人間──働き、話し、考えるものは、こうして誕生した。
人間がサルから離れて行った何万年という長い年月をふりかえるとき、労働が人間をつくった≠ニ言ったフリードリヒ・エンゲルスのことばを、思い起こさずにはいられない。
(イリン「人間の歴史」角川文庫 p117-121)
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◎「話す能力を欠いていることを動物たち自身がいまでは欠点と感じとっている場合もたしかにあるのだという確信が生じてくるのをおさええないであろう」と。