学習通信050823
◎多才と博識の巨人……
■━━━━━
ダ・ヴィンチのノート
科学者ダ・ヴンチ
レオナルド・ダ・ヴィンチ(一四五二〜一五一九)の残した五〇〇〇枚にのぼるノート、最近一九六五年)スペインのマドリッド図書館で発見された七〇〇枚のノートをみると、かれが「万能の巨人」だということがよくわかります。たしかにかれは「モナ・リザ」や「最後の晩餐」など一二枚の絵画をのこしたすぐれた画家であり彫刻家ですが、それだけでなく、さまざまな分野にわたる科学や建築、土木、水利、兵器に通じた技術者・科学者でもありました。
しかも、私たちはこれらのノートが、左から右へではなく右から左へ、たとえばレオナルドの頭文字LはJというように鏡文字で書かれていることを、たんにかれが左ききだったということだけで見すごすわけにはいかないでしょう。ある学者がいうように、自分の自然研究を迫害からまもるために、わざと見ずらい鏡文字で書いたのかもしれません。それほど当時はなお『聖書』に反することや人体を解剖してその秘密をあばくことには強い圧迫と重い刑罰が加えられたのでした。ルネサンスをすすめた人たちは、ダ・ヴィンチにかぎらず人間のなしうるすべての能力を生かして古い勢力とたたかい、そのなかで「万能の巨人」となったのでした。
芸術・科学・技術
では、ダ・ヴィンチは、こうした芸術の仕事と科学・技術の仕事とをどう統一していたのでしょうか。かれの仕事ぶりは、芸術活動をしながら科学活動をおこない、同時にその応用を考え、そしてふたたび芸術へとかえるというふうです。画家組合にはいって一人前となったかれは、当時フィレンツエを支配していた大商人・高利貸しのメジチ家につかえました。そこで寺院などからの注文で「受胎告知」や「三王礼拝図」を描きますが、その後ミラノで依頼された「岩窟の聖母」と同様に下絵にたいへん手間どり、なかなか完成しませんてした。かれは一本の草木もおろそかにせず観察し、色彩の濃淡による遠近法の研究から、乳児の解剖まで手がけ、いつまでも絵にとりかかれなかったのでした。こうして「岩窟の聖母」が完成したのは九年後のことでした。
同時に、かれがすでにすぐれた技術者であったことは、三一歳のころ、ミラノのスフォルツァ家に差し出した「就職願い」でよくわかります。この傭兵隊長あがりの王様の気にいられようと、かれはまっさきに軍事技術にたくみなことを書き、攻城川道具、散弾砲、音をたてずにトンネルを掘る法、戦車、大砲、機関銃の製作ができるといい、平和時には変温・給水設備の設計など、そしてさいごに絵も描き彫刻もできると書き、やとっていただければスフォルツァ将軍の青銅騎馬像をつくりましょうと抜け目なく約束してもいます。
ところがこの騎馬像にかれは二八年もかかりました。あらゆる姿勢の馬のスケッチと馬の解剖、銅をとかす炉から、フイゴ、そこから蒸気や熱・光の研究、そして遂に熱を利用した水の汲み上げ機、対流を利用した肉あぶり機械にいたるまでを考案して、これらを丹念にノートに記しました。
自然を相手として
では、ダ・ヴィンチの芸術と科学はどこでつながっていたのでしょうか。かれは絵画についてのノートで、「画家は自然を相手に論争し喧嘩する」「画家は『自然』を師としなければならぬ」と書き、だから「絵画を軽蔑するものは、哲学(ここでは自然研究のこと)をも、また自然をも愛していない」といっています。そして自然研究をもとにして、そのうえに絵画はうまれるのだから、絵画は「自然の孫」にあたるともいっています。つまり、絵画も科学も、ともに自然を相手としそれを観察ししらべるという点で結びついているというのです。かれは観察や経験をたいせつにして、「経験にょって確証されない理論を避けよ」と記しました。
化石論争
ところが、こうしたこと自体、当時はたたかいでした。当時は教会の学説や『聖書』だけを正しいと考える風潮が盛んだったからです。
ダ・ヴィンチは、ロンバルジア地方の高地のふもとで、多数の二枚貝をふくむ地層をみつけましたが、かれは自分のノートに「なぜこんなところに貝があるのか」をめぐって論争がおこなわれたことを記しています。当時の有力な説は「ノアの大洪水が貝をここに取り残した」というのでしたが、かれはこれがいかに不合理であるかを極力説明しました。たとえば、「この貝はノアの洪水のおり海の水かさが増すにつれて山の上にはこばれたのだ」といういい分にたいして、「アドリア海からここまで一五〇キロもあるのに、かたつむりよりのろい二枚貝が、ノアの洪水のあった四〇日間に、どうしてここまで歩いてこられょうか」といって計算までして、その不可能なことを説明しています。
また、「波にのればこられるかもしれない」という説にたいしても、かれは「生きている貝は、海底の砂のなかにいるからそういうことはない」と、地層にふくまれたとじた二枚貝をみせています。とじた二枚貝はそれが生きたままうまったことを示すからです。こうしてかれは、『聖書』よりもみずからの観察をだいじにし、このあたりは昔、川の近くに海があって、川の流しこむ堆積に貝がふくまれたにちがいないと、その二枚貝が「化石」であることを結論づけたのでした。
自然法則
さて自然界は、たえず運動してやむところがありません。かれはそれをそのまま観察します。かれは人体を解剖しますが、それはどの腱や筋肉が手足の運動をひきおこすかをみるためです。そして、「おお、このわれわれ人間機械の探究者よ」と書いています。かれは鳥の飛び方を観察して、グライダーの発明へとむかうと同時に、力学の研究へとすすみます。かれは自然をありのままに観察して、そこに力学的法則を見いだそうとするのです。「自然は自己の法則を破らない」──こうかれはノートに記しています。
かれは、たんに自然を重視した哲学者ではなくて、その自然が力学的・機械的に、法則をもって運動していることを探究する科学者でした。そしてこうした自然のしくみへの洞察は、かれの機械技術にたいする関心を通してつくられたのでした。スヶッチをみると、かれがしばしばフィレンツエの織物工場やミラノの鉄工場、大砲鋳造所、寺院の時計仕掛けを見にでかけたことがわかります。そこから、紡糸機、織機の改良、機械の動力や要素・伝達装置(ねじ、歯車、接ぎ手、軸受けなど)の考察や、てこ・斜面など、単一器械の研究などをひきだしたのです。かれのこうした機械のはたらきについての研究が、自然界(生物をふくめ)の力学的法則の洞察へとつながっていったのです。「機械学は……他の一切の科学を超えて有用である。なぜならその力はすべての生物体の営みをなすのだから」とさえいっています。
ダ・ヴィンチは、解剖学についても力学についても鳥の飛翔についても目次まであげ、これを書物にしようとしました、が、ついに体系化できませんでした。しかし、ダ・ヴィンチは、教会の権威に屈しないで自然観察と自然法則探究をおこなったという点で、近代科学の種をまいた人といえるでしょう。
(大沼正則著「科学の歴史」青木教養選書 p64-68)
■━━━━━
自然の弁証法
序論
近代の自然研究、それは古代人の天才的な自然哲学的直観や、最高度に有意義ではあっても、ばらばらで大部分は結論にまでいたらずに消えさったアラビア人たちの諸発見とは反対に、科学としての体系的で全面的な発展をなしとげた唯一の自然研究であったが──、この近代の自然研究は、近代史全体がそうであるように、あの偉大な時代に端を発している。
それは、われわれドイツ人が当時その身にふりかかっていた国民的災厄にちなんで宗教改革とよび、フランス人は復興(ルネサンス)、イタリア人は一五〇〇年代とよぶ時代であるが、しかもこれらのよび名はどれーつとしてこの時代をあますところなく表現しつくしてはいない。
それは一五世紀の後半に始まる時代である。王権は都市市民の支持をえて封建貴族の権力を打破し、本質的に民族性を基盤とする大君主国を打ちたてたが、それらの君主国の内部から近代のヨーロッパ諸国と近代の市民社会が発展していった。
そして市民と貴族とがなお激しく格闘していたあいだに、ドイツ農民戦争は反逆した農民を舞台に登場させたばかりでなく──それはもはや新しいことではなかった──、彼ら農民の背後に、赤旗を手に財産の共有を口にしていた、今日のプロレタリアートの前身たるべきものを登場させることにより、きたるべき階級闘争を予習的に示唆していた。
ビザンティンの陥落から救いだされた写本のうちに、ローマの廃墟から発掘された古代の彫像のうちに、一つの新しい世界、ギリシア古代が、驚倒した西欧人の眼前に出現した。輝くばかりのその姿の前に中世の亡霊どもは消えうせた。
イタリアは時ならぬ芸術の開花期をむかえたが、それはさながら古典的古代の照り返しのように現われ、二度とふたたび達成されることはなかった。イタリア、フランス、ドイツでは新しい文学、最初の近代文学が成立した。ついでまもなくイギリスとスペインもそれぞれの古典文学時代を体験することになった。
古い世界の限界は突き破られ、地球はここにはじめてその本来の姿で発見され、後世の世界貿易の基盤と、手工業からマニュフアクチアヘの移行のための基盤とがすえられ、後者はまたのちの近代の大工業への出発点となった。
教会の精神的独裁は打ち破られた。ゲルマン諸民族はその大多数が直接にこれを地に投げすててプロテスタンティズムをとりいれたし、他方ラテン諸民族のあいだでは、アラビア人から伝えられ、新たに発見されたギリシアの哲学にはぐくまれた明るい自由な思考態度がますます根を張るようになり、一八世紀の唯物論を準備したのである。
それは人類がそれまでに体験したこともなかった最大の進歩的変革であり、巨人を必要とし、巨人を生みだした時代であった、──思考力と情熱と性格の、多才と博識の巨人を。ブルジョアジーの近代的支配の基礎を築いた人々は、たとえ他のなんであれ、ブルジョア的制約だけは受けていなかった。
遂に、その時代の性格である冒険者の息吹きを、彼らは多かれ少なかれ吸っていた。その時代に生きた主要な人物で、長途の旅行もせず、四、五ヵ国語をも自由にせず、いくつかの専門分野で光彩をはなたなかったようなものはほとんどない。
レオナルド・ダ・ヴィンチは偉大な画家だったばかりでなく、偉大な数学者、機械学者、技術者でもあったし、また自然学のきわめて多種多様な部門が重要な諸発見を彼に負うている。
アルブレヒト・デューラーは画家であり、銅版彫刻家であり、彫像家であり、建築家でもあった。そのうえ彼は築城術の一体系を案出したが、それはずっと後世になってモンタランベールやドイツの近代築城学によってとりいれられることになる着想をすでにたくさんふくんでいた。
マキアヴェリは政治家、歴史家、詩人であり、同時に近代では最初の特筆さるべき軍事著述家でもあった。ルターはただに教会のアウギアスの畜舎〔山積する汚物〕を一掃しただけではない。彼はドイツ語のそれをも一掃して近代のドイツ語散文の創始者となり、また一六世紀のマルセイエーズともいうべきものになったあの勝利の確信にみちた賛美歌の歌詞と旋律とをつくりあげた。
この時代の英雄たちは、まだすこしも分業の奴隷になどはなっていなかった。人を制約し一面的にするそのもろもろの作用をあれほどしばしば見せつけられるのは彼らの後継者たちにおいてである。
そしてとりわけ彼ら英雄たちに特有なことはといえば、彼らのほとんどすべてが時流のさなか、実践的闘争のなかに明けくれし、党派を組んではともにたたかい、あるものはことばと筆を、あるものは剣を、そして多くはその双方をたたかいの手段としているということである。
彼らを全き人間たらしめているあの性格の豊かさと力づよさはまさにここからきているのである。書斎学者は例外的存在である。そういう人間は二流三流の人物であるか、あるいは指さきの火傷さえしたくない用心ぶかい俗物である。
(エンゲルス著「自然の弁証法」M・E八巻選集D 大月書店 p278-280)
〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓
◎「とりわけ彼ら英雄たちに特有なことはといえば、彼らのほとんどすべてが時流のさなか、実践的闘争のなかに明けくれし、党派を組んではともにたたかい、あるものはことばと筆を、あるものは剣を、そして多くはその双方をたたかいの手段としているということである」「彼らを全き人間たらしめているあの性格の豊かさと力づよさはまさにここからきているのである」と。