学習通信050822
◎おへんな……。
■━━━━━
下町ことば
昔の下町ことばに「とったかみたか」というのがある。
私の母など、台所口で照れくさそうに頭をかいている若い役者に幾らかのお小づかいを渡しながら、よく言っていた。
「お前さんもそろそろ世帯を持つ年ごろなんだからね、いつまでもとったかみたかじゃいけないよ」
つまり、せっかく稼いだお金を、受けとったトタンにパッとつかい果たしてしまう、ということである。
「宵越しの銭はもたない」などと粋がっていた江戸っ子は、たしかにつかい方が荒っぽかった。しみったれた真似をするくらいなら、豆腐の角に頭をぶつけて死んだほうがましだ、などと生意気な口をきく若い衆を、町の人たちは笑いながら許していた。
ただ──それは身軽なひとり身のうちのことである。いつまでも調子に乗って女房子に泣きを見せたりすると、目上の人から、
「甘ったれるな、分を知れ、このスットコドッコイ」
などときびしく意見をされた。
この場合の分は、自分の稼ぎ──とり分のことである。役人とか職人とかの身分にはまったく関係はなかった。
そのころの下町の人たちの計算は簡単だった。毎月五十円だけ稼ぐものが八十円もつかえば、不足の三十円分だけ、まわりの人に迷惑をかけるというわけである。借金は返すもの、質草はうけ出すものと決まっていたから、質屋のご主人も、世帯道具までかつぎこむ常連たちに、
「そりゃあまあ、あと五円欲しいんなら貸しもするけれど、それじゃあお前さん、うけ出すときに苦しくはないかい」
などと言っていた。どんな暮らし方をしようと、それはめいめい勝手だけれど、とにかく自分の稼ぎの中でキチンと帳尻をあわせること──それが江戸っ子の常識だった。
このあいだ、月収十万円の青年が毎月六万円の自動車の払いに困って強盗をしたという新聞記事をみた。私の父が生きていたら、きっと目をまわしてブツブツ言うだろう。
「冗談じゃないぜ、そんな……とったかみたかどころか、とらないみないで分不相応なものを買うなんて──世の中いったいどうなっちゃったんだい」
月賦のことをラムネなどといって恥ずかしがった昔人間にとって、クレジットカードで何でも買える現代の仕組みがわからないのは当たり前だと思う。もしかしたら、私にソッと聞くかもしれない。
「切符で買えるって言ったって、あとで金は払うんだろう? それじゃあ誰でも何でも買えるってわけにゃあゆかないんじゃないのかねえ」
福分(ふくぶん)という言葉もあった。人間がそれぞれ持って生まれた幸せの分量である。父はしがない芝居ものだったけれど、食べるに困らないだけの稼ぎはしてくれたし、働きものの優しい母もいた。ほどほどの貧乏のおかげで小さいときから働く楽しさもおぼえたから、私はけっこう幸せだった。まあ「日向の雑草」というところだろうか。それ以上、指輪が欲しい、お屋敷に住みたい、などと望んでは、私の福分をはみ出すことになってしまう。
「一升桝に一升五合ははいらない」
という言葉も、わかりやすくて面白かった。それを聞くたびに、自分の能力以上の無理はするまい、と子供心に思っていた。
いまだに私の耳に残っているのは、母が相手をたしなめるときの、
「それがどうしたい」
というキリッとした口調である。
風呂敷包みを背負ってあちこちの家をまわる呉服屋さんがいた。気はいい人だけれど、金棒ひきだった。いつも茶の間に座りこんではいろんな家の噂をする。あすこのご先祖さまは金の茶釜を三つも持っていたらしいな、などという他愛もないことから始まって、だんだん、どこの何さんがあすこまで出世したのはこんなひどいことをしたからだ……あすこの娘が縁遠いのは、実は……など、見てきたようなことを言い出す。
そのトタンに繕いものをしていた母がスッと顔をあげて、
「それがどうしたい」
怒るでもなく責めるでもない。フンワリとやわらかいくせに、妙にキリッとしたその声音に相手は一瞬ポカンとし、やがてコソコソと帰ってしまう。言われてみれば、はしたないことだ、と気がつくらしい。母はあとで笑っていた。
「くだらない噂を封じるのはこれに限るよ」
世の中はめまぐるしく変わってゆく。古い下町ことばが消えてゆくのも当たり前のことだろう。ただ、あの荒っぽい表現の中に合まれていた心意気だけは──やっぱり懐かしい。
(沢村貞子著「私の茶の間」光文社 p236-238)
■━━━━━
まだまだ私は魅力的な京都弁を話す京の男性方をたくさん知っている。ある人は、別にまるまるの京都弁ではないのだが、全体が何とも優雅な京都調とでも言いたいものをもっている。その人は、蜷川知事時代にその裏方として、縦横の活躍を遂げ、その手腕の故にしばしばマスコミを賑わした。一地方公務員の身として、このように派手派手しく何回も話題になった人はいないと思われるような人物であるが、その人は、あたかも大切な能力の一つであるように、まったく京都の男性しか話さないような表現をする。部分的には、たとえば「そうですやろ」と言い収めて、少しその「ろ」のところを上げる。私は何回もその人の発言を聞いて、何と京都的なことば遣いだろうと、いつも感心をするのであった。
語彙の点などではさして京都的ではなく、まして、江戸っ子ことば。ぺらぺらの蜷川氏と話をするときにはなまなまとした京都ことばでは絶対なく、いわゆる共通語を話すに違いない。あるいは府政の重要担当者として、議会答弁に立つとき、まさか「そんなことはおへんやろ」というようではない。だが、どういうわけか、その人の発言は京都ことばになってしまうのであった。もちろんアクセント、イントネーション(語尾の調子とでもいうもの)などはまがいもなく京都風であるが、しかし、そういう京都語の構造を使いながらも、共通語風に感じさせる人と、いちおう共通語風に語っていながら、絶対に京都風な雰囲気を聞く側に感じさせる人と、二手あるということをわからせる話者であった。
ではその京都らしさとは何であるのか。周到でしかもものやわらかな発想。せきこんだり、とちったりしない完璧さ。それは時には野党をいらいらさせるほど悠長で、しかも間違いがない。失言がなく、従って揚げ足のとりようがない。せきこみも激しもしない。しなやかで強靭な京都弁の体質が、この人にはよく似合うと言ったところである。その人のことばを聞いていると、京都弁というのは、まず言語学の方でいうさまざまの言語的な要件以外に、発想とかリズムとかが大そうかかわってくるなということがよくわかる。
この人と個人的に電話で話したりするときには、いっそう男の京都弁について考えさせられる。波がゆっくりと穏やかに平和に波打ち際に寄せるように話されることば。「そうですやろ」というような語尾もたっぷりと交えられるから、それはもう完璧な京都弁になる。とりわけ、その人の「すンません」ということばにはえも言われぬとろりとした艶がある。語尾が上がって、ほほえむことばという趣に満ちている。それはたのしく耳に快い一種の風景である。
また私は、かなり濃厚な京都弁をそうとう公的な場合でも堂々と話す一人の医師を知っている。私はいろいろな場面をその人と共に運動してきた。その人は医師としての優れた力量に加えて、社会的関心を実にまっすぐに行動にあらわす人である。京都におけるさまざまの選挙では、市民団体のまっさきかけて活動する人である。一九七八年の京都府知事選挙ではそれこそ火の玉集団の町衆選挙の中核となった。私も何かにつけて行動を共にすることが多くて、とくとその人の言語表現を観察することができた。
京都生まれの京都育ち、先に述べた公務員の男性よりは温かに要素的にも京都らしいことばを遣う人である。すなわち、会議などでも「おへん(ありません)」「どないです(どうです)」「ちょっとけったいどすなあ」などを連発しながらの話で、中身は実に切迫した話であっても、何となく聞き手はにっこりしてしまう雰囲気の持主である。私は男の、標準語でない京都ことばの魅力をこの人から知ったと言ってもよい。
ある夏の日のことであった。京都・清水寺に、某市民団体のメンバーが集まっていた。ある大問題、つまり革新の統一についての重苦しい課題を抱えていて、参会者の気持は一様に暗かった。寺の庭には涼やかな夏の風が通り、緑の色はさわやかであった。自然はあくまでも私たちの心をなごめるような気持よいものであったが、どうにもやりきれない情況で、人の気持はさっぱり晴れないのである。私はかなり早く座敷に入って、ぼんやりと美しい京の寺の庭に目を放っていた。平安朝流に言えば、これをしも「ながめる」(もの思いにふけりながら外に目をやる)とでもいうのかと、頭の片隅で思いながら、人の集まるのを持っていた。
やがてリ一ダー格のその人があらわれた。驚いたことには、その人はすぐに靴下を脱いでしまった。「おやまア、せんせはだしにならはった」と私がいうと、そのお医者さまは、にこにこと、「わたし青畳大好きですねん、こんなとこではよう靴下はいてまへんわ」などと言うのであった。やがていろいろな話が弾む中で、私はその人に「もうちょっとなんか革新が手を繋ぐええ方法がありませんやろか」と問うたとき、その人はまさしく文字通り立ち所に、「おへんな」と言った。その語気の強さに私はうたれた。話の内容は絶望的でも、私は京都ことばの強さとでも言いたいものを知ったのである。
ややこしくない決然たる判断。それは巷間伝えられる、人が信じがちな、ものやわらかな京都弁というタイトルとは相反する。もちろん京都弁はものやわらかには違いない。しかし、いつまでもものやわらかでいはしない。その人はその京都弁で悩み、決意し、怒り、敵陣営の攻撃をする。その人にとって京都ことばはすべてをまかない得ることばなのである。
しかも、その人は京都弁を実によくおのずと利用しているらしい。保険医協会の中心人物でもあるその人は、しばしば上京し、他府県の医師たちに話しかけ、まとめ、熱心に立ち働くのであるが、聞けば、その折のことばも、京都で発言するときと同じことばつきであるようだ。「何で東京やゆうて気イつこた話せんならんね」というのが、その人の本音であろう。「東京の医師会行かはってもおんなじ調子でしやべらはるのですか」とうかがうと、「そうです。東京の連中、よう考えたらあいつきついこと言うて帰りよった言うてるらしいですわ」と大笑いであった。
私はその話を聞いて、東京の人の気持がよくわかる気がした。ものやわらかそうに聞こえる京都弁でごまかされてにやにやとしているうちに、特にそのやんわりした言い回し……たとえば、そうと違いますやろかというような表現を、東京ことばに比べれば、遙かにおっとりしたイントネーションでやられては、そうした言いあらわしの特性がまず印象に残って、ことばの内容に思いを致すことは、あと回しになるのであろう。やわらかな調子と同一歩調の内容のようにふと錯覚してしまって、あとでアレッということになるらしい。だとすれば、京都ことばは、ある意味では、外交のことばとしてはなかなか利点をもっていることになる。
(寿岳章子著「暮らしの京ことば」朝日選書 p29-33)
■━━━━━
生きていることば
旅行先で、あるいはテレビ、ラジオで、方言で話されることばを聞くと、私はいつも心が新鮮な驚きで満たされるのを感じる。大げさにいうと、生きている人間に出会ったというほどの気持になる。なぜだろうか。
多分私は、このところ少々標準語にあきているのだろうと思う。というよりも、標準語を支えているステレオタイプの文化に食傷して、方言と、その背後にあっていまだ十分に活性を残しているはずの、個性的な文化に心惹かれるということかもしれない。もっともこんなことをいえるのは、私が何十年も標準語の世界で暮らしてきたからで、若いころは響きのきれいな標準語とその背後に予想される文化にあこがれ、自分が使う、重苦しく濁って響く地元のことばをうとましく思ったものである。
だが考えてみれば、東京の中流家庭のことばを起源にもつ標準語は、歴史も浅く多分に人工の匂いがすることばである。私は標準語がもつ意志伝達の機能と、洗練された響きを認めるのにやぶさかではないが、ただそれだけのことだと思うことがある。標準語は人間の生活を映さない。ことばは生活の上をすべって通り過ぎていく。
だからたとえば標準語で、「君を愛している」といっても、それはテレビからもラジオからも聞こえてくるので、ことばはコピーのように衰弱している。しかし方言を話す若者が、押し出すように「おめどご、好きだ」(わが東北弁)といえば、まだかなりの迫力を生むだろう。方言生活ではそう簡単には使わないことばだからだ。
かくのごとく方言は、生活が生み出したことばである。方言の後ろには気候と風土、その土地の暮らしがぎっしりと詰まっている。方言がときとして人を感動させるのは、それが背後の文化を表出しながら今も生きていることばだからである。地元の人は力強く方言を話そう。わからない人には標準語で翻訳してやればいいのである。
(藤沢周平著「小説の周辺」文春文庫 p34-35)
〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓
◎「京都弁というのは、まず言語学の方でいうさまざまの言語的な要件以外に、発想とかリズムとかが大そうかかわってくる」と。
◎「京都ことばはすべてをまかない得ることばなのである」と。