学習通信050817
◎どうしてだろうか……

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青は藍より出でて藍より青し

 今のわたしたちにはなじみがうすくなっているが、藍玉というもの、たしかに青くない。青みはあるが、むしろ黒い。それをくだいて藍がめの水に入れ、しばらくねかしておく。やがて頃合いの日がくる。棒で藍がめの水をまるく、しだいに早くかきまわす。やがてこまかな泡が浮きあがり、さーっと水面をおおいはじめ、表面をあざやかに輝かせなから、無数の泡の山になってもりあがる。藍花がたったのだ。まっ白な糸や布を、その中にとっぷりつける。ひきあげる。そのとたんは緑がかった色だが、みるまに青くなる。次のもっと濃いかめにつける。ひきだす。繰りかえすうちに、白い糸も布も、みるみる深く、あざやかな青に染まっていく。

 藍玉にふくまれる数パーセントのインジゴの化学変化、といってみたところで、これが素朴な驚きをよぶことに変りはない。その昔は、なおのことそうであったろう。だから、中国の儒家蜀況(じゅんきょう)も、その言葉としてこう伝えているのだ。

 「学は、もって巳(や)むべからず。青は藍より出でて藍より青く、氷は水これを為して、水よりも寒し。」(「荀子」勧学篇)

 (学問はいつまでも止まるということはないし、たゆんではならない。青がもとの藍よりも青いように、氷がもとの水よりも冷徹なように、師をしのぐ学の深さをもった弟子もあらわれるものだ……)
 ここから、弟子が師よりもまさることを、この言葉であらわすようになった。「出藍」とか、「出藍のほまれ」というのも、ここからでている。
(後藤・駒田・常石編「中国故事物語」河出書房新社 p3)

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私と仕事、そして……

 子どものころから数学が好きで大学は理学部へ進んだが、専攻は数学にしようか物理にしようかと迷った。そのころの京大は湯川秀樹先生がいらして物理学科の雰囲気がとても活発だった。物理を勉強し出してみると、とくに理論物理では数学がとても大事で、いわば「武器」にもなることが理解できるようになった。別に数学を捨てることにはならないとわかって物理を選んだ。

 女性は理科系の学問が弱いといわれる。世の中から「女はこうあるべきだ」と何十年、何百年もかけて条件づけられてきた結果、女性自身が理科系の学問は不得手だと思い込んでしまうのが大きなネックになっている。女性も機会さえ与えられれば必ず何でもできると私は信じている。

 一般に物理はむつかしいものだという固定観念のようなものがあるようだが、けっしてそうではない。空はなぜ青いのか、虹はどうしてあんな色をしているのか、水はなぜ器に合わせて形を変えるのか──。ふだんは当たり前のように思っているが、よく考えてみれば不思議なことが身の回りにはいっばいある。簡単にいえば、物理はこのような身の回り、自然、宇宙の不思議なことを、どうしてだろうかと解いていく学問なのである。

 現在、私がとりくんでいる研究の一つは、アモルファス(非結晶物質)の理論である。アモルファスは物質を構成している原子が規則的に並んでいないために、その理論的研究は困難とされてきた。その発端がなんとか見えてきたと考えている。

 アモルファスにはいろいろ役に立つ物性があることがわかり、今では太陽電池などに使われている。さらに研究をすすめて、アモルファスを夢の素材として人類への置きみやげとすることに貢献できたら、こんなにうれしいことはない。

 よくいわれることだが、理論物理は紙と鉛筆さえあればどこででもできる。実験室にこもる必要もなく、台所でお湯をわかす間、食卓の上でちょっと計算して、また料理にとりかかるというように。ときには熱中しすぎて、おなべをこがしたこともあるが……。女性の場合は、とくに時間が限られているから、この切りかえと集中をうまくこなすことが要求される。

 私自身は、三人の子どもの育児を通して人間として成長でき、心が豊かになったと感じられた。心の豊かさは仕事にも反映されたと思う。

 学生に教えるのも大好きだ。一生懸命準備して、ものの面白さをわかってもらえるようにと熱心にのぞめば、それだけの反応や効果がある。よい教育をするためにも、研究者として世界の先端を維持していくことが大切だと考えている。

 自分自身がいい仕事を残すことと、いい弟子を育てることの両方が同じくらいのウエートでできてこそ立派な学者といえるのではないだろうか。
(米沢富美子著「人生は夢へのチャレンジ」新日本出版社 p32-34)

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◎「学問はいつまでも止まるということはないし、たゆんではならない。青がもとの藍よりも青いように、氷がもとの水よりも冷徹なように、師をしのぐ学の深さをもった弟子もあらわれるものだ……」と。