学習通信050810
◎正義の尺度は異なる……

■━━━━━

法の精神

法と正義

 法とは何かを考えるうえで最も大切なことは、法の精神とは何か、ということである。

 大学で法律学を学びはじめた学生や、人生の中ではじめて法律問題にぶつかった市民は、法律のかた苦しい条文や、そのむずかしい理屈に圧倒され、しばしばとほうにくれるであろう。このような法の技術的なしくみは、もちろん重要ではあるが、第二義的なことにすぎない。私たちはその技術に迷わされることなく、技術の背後にある法の精神を見ぬかなければならない。いくら法の技術を学んでも、その精神がわからなければ、法がわかったとは到底いえない。

 法の精神とは、一言でいえば、正義である。それゆえ、法とは何かという問いは、正義とは何か、という問いに置きかえられる。芸術は「美」を探究する、科学は「真理」を探究する、という例にたとえるなら、法学は「正義」を探究するということになろう。だから、法を学ぶ者は、正義を求め、正義を実現する精神を身につけなければならない。

 この原点を忘れた者は、法について語る資格はない。このような人が、法を学び、使うことは、むしろ有害でさえある。「悪しき法律家は悪しき隣人」というのは、昔から有名な言葉である。そしてまた、法律知識を独占し、その知識を、正義のために使わない職業的法律家が多ければ多いほど、その国は国民にとって不幸な国であるといわざるをえない。

正義の普遍性・公共性

 正義は、個人的なものであると同時に、その社会において普遍的なものである。いいかえれば、それは私的なものであると同時に公的なものである。たとえば、ある人間が、みずからの権利を主張するということは、出発点において、その人の個人的な問題である。しかし、その主張が道理に合わず、普遍性をもたない場合には、それは単なるエゴイズム、私利私欲であって、正義とは無縁である。かくて、正義は、普遍性をになった個人、あるいは公共性をになった私人の利益の主張とむすびついている。

 ごく常識的な例をあげてみよう。悪い品物を高く買わされた場合、買主が代金を支払ってくれない場合、暴力団から暴行を受けた場合、女性が強姦された場合など、被害者が権利を主張することは正義に合致している。反対に、被害者が泣き寝人りすれば、どういうことになるか。被害者が救われないという個人的問題にとどまらず、社会的不正義が、大手をふって世間にまかりとおることになろう。それゆえ、権利の主張は社会的不正義との闘いにほかならない。

 私的正義と公的正義との表裏一体性を典型的に示しているのが、原爆、公害、薬害などにおける、政府や企業の責任を追及する運動である。原爆被害や、かつての四大公害裁判、カネミやスモン裁判から、近時のエイズ薬害にいたる数多い裁判において、原告被害者が立ちあがり、権利を主張したのはなぜか。患者個人にとっては、たとえ裁判に勝っても、失われた生命はもどらず、身体の障害もなおらない。悲惨な一生は死ぬまで回復しない。それにもかかわらず、病躯にむちうち、命をかけて頑張ってきたのは、もちろん、やむにやまれぬ個人の心の痛みの訴えが根底にあるからである。が、同時に、これらの患者たちがだまっていたら、同様の被害は、もっと果てしなく広がったことであろう。あるいは今後も起こりうる。

 彼らが権利を主張したことによって、原爆被害、公害、薬害などの深刻さが広く世間に知れわたった。そして、このような苦しみを二度と多くの人が味わうことのないようにと願う患者たちの未来に向けてのメッセージが、広く人びとの普遍的共感を呼びおこし、正義の輪を広げてゆく。ノーモア広島・長崎、ノーモア水俣、ノーモアエイズ等々。

正義の尺度の複数性

 さて、これまでのところ、正義について、あまり意見の分かれない問題をえらんだ。しかし、正義とは何か、という問いは、実はそう簡単ではなく、一筋なわでかたづけられない厄介な問題である。というのは、正義(精神)は、人の心の中、あるいは頭の中の動きであり、これは価値判断の問題であるからである。正義の普遍性とは、自然科学・数学や社会科学における客観的事実の普遍性とは異なる。後者においては、人びとの価値判断から独立し、それに左右されない客観的事実が問題であり、そこでは、何が真理かが争われる。ここには、解答は一つしかない。つまり尺度(物指し)は同じである。一メートルの物指しが、人によって三メートルになっては大変である。北極星が、日本では南にあるといえば、笑われる。

 もちろん、自然科学や医学でも、専門家の意見は、いくらでも分かれている。地震や火山爆発などの自然変動、地球環境、異常気象などの予測、あるいはガンその他の病気の診断と治療など。しかし、これらの争いは、客観的事実をめぐる争いであり、どちらが真理かは事実そのものできまる。社会科学でも、歴史学の争いは、資料そのものを基準として争われる。第二次大戦中、日本が勝つと予測した人と、負けると予測した人との判断の差異は、日本の降伏という歴史的事実によって決着がついた。景気がよくなると予測した人は、現実に景気が悪ければ負けである。

 ところが、憲法のもとで、自衛隊は合憲か違憲か、という争いは、価値判断をめぐる争いであるから、もともと物詣しがちがう。なるほど、憲法の条文の存在そのものは、頭の中で変えることのできない客観的事実である。ところが、合憲論者が「頭の中で考える憲法」と、違憲論者が「頭の中で考える憲法」とでは、すでに中味がちがうのである。要するに、何が正しいのかという尺度は「頭の中の尺度」だから、複数あることになる。物指しはたくさんある、ということがわからないと、法はわからない。

 正解は一つしかないと考える市民も多い。法律相談でも、要するに結論はどうなるかだけを聞きたがる。この種の「正解主義」「結論主義」の頭を棄てなければ、「法」はわからない。

 そこで、このような正義の複数性を前提として、人は、そのいずれかを自分の頭で考えて選ばなければならないのである。それぞれの時代、それぞれの国や社会において、さらには一国内部でも、正義の尺度は異なる。具体的に、どのような価値が、法的正義といえるほどに普遍性を持ちうるかは、時代とともに変化し、歴史的に発展する。社会の変化・発展の中で、不断に人びとの価値判断も変化する。そして社会内部の対立するさまざまな価値判断が、普遍性の獲得をめざして闘っている。それは、法的正義をめぐる闘争といってもよい。その不断の闘争をつうじて、法的正義の具体的内容は、多くの場合には徐々にまた部分的に、ときには急速かつ全面的に変化する。一〇〇年まえと現在とではもちろん、一〇年まえ、五年まえと現在とを比較しても、正義についての考え方は変化している。

 それは、前述の二つの法、つまり「国家の法」と「社会の法」との間の、協力と反発との相関関係あるいは函数関係として、とらえることができるであろう。
(渡辺洋三著「法とは何か」岩波新書 p8-10)

■━━━━━

 社会のある発展段階、きわめて初期の発展段階で、日々にくりかえされる生産物の生息、分配および交換の行為を、ひとつの共通の規則のもとにまとめて、個々人を生産および交換の共通の諸条件に服従させるようにとりはからう必要が生まれてくる。

この規則は、はじめは慣習だが、やがて法律となる。法律が成立するとともに、必然的に、法律の維持を委託された諸機関──公権力、国家──が成立する。

社会がさらに発展するにつれて、法律は発達して、多少とも包括的な立法をかたちづくる。この立証が複雑になればなるほど、立法の表現の仕方は、社会の通常の経済的な生活諸条件の現われる仕方からますますかけはなれていく。立法は自立的な要素のように見えてくる。

つまり、みずからの存在理由とそれがひきつづき発展していく基礎づけとを、経済関係のなかから得てくるのではなく、それ自身の内的な根拠のなかから、たとえば「意思概念」のなかから得てくる要素のように見えてくる。

人間は、自分の起原が動物界にあることを忘れてしまったのと同様に、彼らの法の起原が彼らの経済的生活諸条件にあることを忘れてしまう。

立法が発達して、ひとつの複雑な、包括的な全体をかたちづくるとともに、新しい社会的分業の必要が現われてくる。

職業的な法学者の身分が形成され、それとともに法学が成立する。法学は、さらに発展するなかで、さまざまな国民とさまざまな時代との法体系を、そのときどきの経済関係の模写としてではなく、それ自身のなかに基礎づけをもつ諸体系として、互いに比較する。比較はある共通なものの存在を前提する。

この共通なものは、法律家がこれらすべての法体系にそなわる多少とも共通なものを集めて、自然法にまとめることによって見いだされる。しかし、なにが自然法であり、なにが自然法でないかをはかる尺度は、まさに法そのものの最も抽象的な表現である正義なのである。

だから、このとき以後、法の発展は、法律家と法律家のことばをそのまま信じる人間とにとっては、人類の状態──それが法律に表現されるかぎりで──を正義、永遠の正義の理想にますます近づけていく努力にほかならない。

ところが、この正義というのは、いつでも、あるいは保守的な側面から、あるいは革命的な側面からイデオロギー化され神聖化された、現存の経済関係の表現にすぎない。

ギリシア人とローマ人の正義は、奴隷制を公正なものと認めた。一七八九年の〔フランスの〕ブルジョアの正義は、不正なものという理由で、封建制の廃止を要求した。プロイセンのユンカーにとっては、あのやくざな郡条令でさえ、永遠の王政の侵害である。

だから、永遠の正義の観念は、時と場所によって変わるだけでなく、人によってさえ変わるのであって、ミュールベルガーが正しく言っているように「各人がそれぞれ違った理解をもっている」事物の一つである。

日常の生活では、そこで評価の対象となる関係が単純なので、正、不正、正義、正義感のような表現は、社会的な事物にかんする場合でも誤解をまねくことなしにうけとられるが、経済関係についての科学的研究では、これらの表現は、われわれが見てきたように、救いがたい混乱をひきおこすのであって、それは、たとえば現代の化学で燃素説の用語法をそのまま使おうとするのと同じである。

もしプルドンのように、この社会的燃素、つまり「正義」を信じたり、またはミュールベルガーのように、燃素説も酸素説におとらず完全に正当だと断言するときには、混乱はますますひどいものとなろう。

燃素説……
 酸素が発見される以前には、化学者たちは、燃焼のさいには特殊の可燃物質である燃素が逃げるのだと仮定することで、大気中での物体の燃焼を説明していた。燃焼した単体の燃焼後の重量が燃焼前よりも大きいことがわかったので、化学者たちは、燃素は負の重量をもっているから、燃素を失った物体は燃素を含有するときよりも大きな重量をもつのだ、と説明した。こうして、酸素の主要な特性がしだいに燃素のものとされていったが、これはすべて逆立ちさせられていたのである。燃焼とは、燃焼する物体と他の一物体つまり酸素との化合だということが発見され、そしてこの酸素が析出されたとき、この仮定に──ただし、旧派の化学者が長いあいだ反抗したあとでようやく──とどめが剌されたのであった。
(エンゲルス著「住宅問題」M・E八巻選集D 大月書店 p141-142)

〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓
◎「正義というのは、いつでも、あるいは保守的な側面から、あるいは革命的な側面からイデオロギー化され神聖化された、現存の経済関係の表現にすぎない」と。