学習通信050808
◎京都ことばのごく一面に過ぎ……
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郷土について
櫨多き国──私の九州
わが国は 築紫の国や 白日別 母います国 櫨(はぜ)多き国
こうした歌に接すると、私のなかの九州が声をあげはじめ、動きだす。そこをはなれてからのほうがもう長くなってしまったが、私はまぎれない九州人である。
もっとも、九州といっても一つではない。右の歌は「わたつみのいろこの宮」などの作品を遺して二十九歳で死んだ画家、青木繁のもので、いま石に刻まれて、福岡県久留米市の近郊、兜山=通称ケシケシ山の頂に立っている。そこからは、古く白日別の名で呼ばれた築紫平野が見わたせる。邪馬台国論争に口を出す資格はないものの、それこそは女王卑弥呼をいただいていた三世紀の邪馬台国──より正確には邪馬台国圈──の故地であったと勝手に私は思っている。それが青木の郷上であった。しかし、そこに私の郷土は重ならない。
女王国の南には、女王国と敵対関係にある狗奴(くな)国があった、と魏志東夷伝倭人条(ぎしとういでんわじんのじょう)は伝える。いまの熊本県がその狗奴国の地だ、というのが、これまた私の勝手な認定で、「私の九州」の核はそこにある。
しかし、そこだけが「私の九州」であるのでもない。熊本もまた広義の築紫、すなわち築紫島、すなわち九州島にぞくし、狭義の築紫国同様、やはり「櫨多き国」である。青木の歌によって声をあげだすのは、そういう「私の九州」なのだ。
燃ゆる、眺むる、たんぎゃく
塚本邦雄氏のものを読んでいて、次のような一節に出あった。
「目常会話に突然韻文体の動詞が飛込むのは九州弁の特徴で、九州出身作家の散文作品に頻出する。たとえば燃ゆる∞見ゆる∞眺むる≠フように、必ずといってもいいくらい、口語形を避ける」(『国語精粋記』講談社)
「燃える」「見える」「眺める」といわずに「燃ゆる」「見ゆる」「眺むる」等々というのは、確かに九州弁の日常会話の特徴で、それを「韻文体」と評されるのは悪い気はしないが、ということはそれこそが九州人にとっての生きた「口語形」だということで、それがそのまま「九州出身作家の作品に頻出する」ということは「口語形を避ける」どころか、むしろその反対、というべきだろ。
「谷ぐくのさ渡る極み……」という句が、祝詞や万葉集に出てくる。「たにぐく=ヒキガエルの大形」と広辞苑にある。「天雲の向伏す極み、谷ぐくのさ渡る極み」──天上から雲が垂れこめる地平のはて、ヒキガエルがはい渡っていく地のはてまでも──等々というのは、天皇家の支配をたたえる文脈のかかに出てきてはいるのだが、このことばはそういったことをはなれて、不思議な魅カをもって私に迫る。
じつは、この「谷ぐく」ということばは、つい一世代前まで「たんぎやく」という形で熊本になお生きていた。
郷土──日本──世界
私の子どものころには「たんぎゃく」はもう使わなかったように思うが、「わくど」ということばは生きていた。これも、「わくどう=ヒキガエル」という形で切支丹の宜教師たちがつくった日葡辞書に収められている、少なくとも安土桃山時代にさかのぼることのできるものである。
中西進氏の『谷蟆考(たにぐく)』(小沢書店)を読んで、私はさらに一つの発見をした。カナダ・インディアンの間では、カエルが大地の精霊とされていたらしい、と記されていた。
「私の日本」は「見ゆる」「眺むる」「たんぎゃく」「わくど」などを核としている。そして、そういうものとして、それは日本列島の枠を越えて、世界につながってゆく。
高田宏氏の作品『言葉の海へ』(新潮社)は、わが国はじめての本格的な日本語の辞書『言海』『大言海』をほとんど独力でっくりあげた大槻文彦の生涯をあつかったものだった。本格的な日本語辞書への文彦の情熱は、それによって「日本」を確立しようとする情熱であったこと、そしてその文彦の「日本」は、彼の祖父以来の「洋学」を通じて世界に聞かれた目を土壌とし、仙台という郷土の発見を核として育てられていったものであることが、生きいきと描きだされていた。
「幕末の青年たちが、多くは藩意識からの脱却を歴史によって強制されてゆき、そのための内心の軋りを耐えたのと逆に、文彦はむしろ、洋学によって先行する国家意識を土壌に、仙台帰住の間に故里を発見して行った。そこから育つ文彦のナショナリズムは、故里を抹殺していったナショナリズムとも、勝者のエゴである藩閥意識を枷とするナショナリズムとも、自然違ってゆくだろう」
こうしたことばを私はそこから書きぬいた。
新たな祭りを、新しい宇宙へ
その仙台は、宮沢賢治の作品では「センダード」としてあらわれる。賢治の郷土はそのさらに北の岩手県。それを彼はイーハトーブと呼び、銀河系宇宙への彼の始発駅とした。
郷土は与えられるだけのものではない。つくられるもの、つくっていくべきものでもある。
倉敷市医療生協水島歯科診療所の『五年史』のなかで、次のようなくだりに出あった──
水島は新興都市である。
そこは、流れ者の集まってきた町、
地域的に何かにとりくんでいくことに非常にうすい土地、
語り伝えられてきた人間の知恵がとぎれた町。
そこに必要なのは
単に生きている、ということでなく
新たな町づくりと
新たな町づくりのために必要な文化が
求められている。
文化の原点は、祭りから始まる。
民衆の知恵と力が、祭りを創る。
コンビナート地帯の子どもたちはむし歯がひどかった。ロ中、重症のむし歯で、あちこちからうみを流している、といった子どもがいくらもいた。スタッフは夏期学童集中治療にとりくみ、夜間治療や往診にもとりくんだ。そういうなかから「歯の健康まつり」が企画され、発展してきた。新しい「日本」への道、が、そして新しい銀河系への道が、このようにしてひらかれつつあるのだと思う。
(高田求著「新人生論ノート PART U」新日本出版社 p127-132)
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男と京ことば
全国のさまざまの方言には、それぞれの味わいがある。私は仙台で三年間の学生生活を送っている。その間、もちろん片鱗には違いないが、仙台のことばのあれこれに接して大変たのしかった。方言の魅力に憑かれたのは、この頃であったのではないだろうか。靴を修繕してもらおうと、小さな靴屋さんへ出かけると、その店のおじさんが、靴の裏をひっくりかえして、「カネコサぶつべか」という。
関西から出てきたての私は、知識としてあったヽ東北地方では、思いがけないものにまで一種の愛称としての接尾語の「こ」をつけるということはすぐには思い浮かばなかった。しばらく間をおいて、私はどうぞどうぞと答えたのであったが、瞬間きびしい戦時下で何もかも不安な、遠いはじめての地域での下宿暮らしが、一瞬あたたかな色あいに染められた気がした。靴の裏のかねにまで「こ」をつけるとは、なんというかわいらしい言語習慣だろうとうれしくなった。
以後、新聞でも雑巾でも「こ」がつくということを知るに及んで、ますますその感は深くなったのであるが、どこのことばでもそういう具合に、人の心を魅了するに足る特色をもっている。その点では、どこの方言が一番いいというようなことは言えないのではないか。それよりはむしろ、母語としての方言こそ、その使い手にとって一番いいことばだという捉え方をするのがよいのではなかろうか。
世界中のさまざまのことばは、それぞれの使い手の意識においては、きわめて充足した存在である。主体的意識においては、世界のどのことばも同じ価値を有している。フランス語も南太平洋の一孤島のことばも、同価値であると言わねばならない。もちろん観察者の発言としては、あのことばこのことばと比べて、いろいろ機能的な比較も出来よう。しかし何と言っても、そのことばで育った人にとっては、そのことばが一番いいのである。
そうした意味でいうとき、京都ことばはいささか不当な価値づけをこれまでに得ていると言わねばならない。この故か、京都弁の名声はさまざまの方言の中でも、まことに独自な地位を獲得している。特に昨今、一種の京都ブームと言われる時代においては、その傾向はますます濃厚になっている。
もともと現在は、必ずしも京都に限らず、方言がやや珍重がられる時代ではある。京都だけではない。九州弁なども随分力を出してきているようだ。流行歌、ドラマ、そんなものに耳を傾けていると、よく「せからしか」、「ああた」、「なにすっとか」などということばが電波にのっている。あるいは、朝のNHKドラマはヽ日本各地の方言風のことばをまんべんなく日本中にばらまいて、それぞれのことばを話す人びとに、誇りと喜びを与えている。いずれももちろん完璧な方言ではなく、標準語と折れ合った方言風のことばであるに過ぎないが、それだからこそよけいに、方言もどきとでも言いたいこの種のことばは耳に快く、第二のことばという趣で、一種のたしかな市民権を得ている。
だが、何と言っても、方言の王者は大阪弁と並んで京都弁ではなかろうか。適当に大阪弁と任務を分担しつつ、京都のことばと言われるものは、一種の雰囲気をもって君臨している。それはさながら方言の女王という感じである。大阪弁はダイナミックな生産的用語という感じ、難波のどしょっ骨というようなテーマの中に、しばしば全国的な位置づけで紹介される。あるいはしっかり者のおかみさんというようなパタンづくりのためには、船場ことばというような言語が紹介される。そして大阪ことばのエッセンスはなんと言っても、上方落語や漫才の世界であろう。それはたんに一地方のおもしろい芸能というに留まらず、日本全体の関心の対象になっているに違いない。
京都のことばとは、それは人にとってなんだろうか。それは実体とは無関係に、やや片寄ったイメージが人びとの間に形成されているのではないだろうか。それはもはやひとり歩きさえ始めて、どんどんふくらんでいるかもしれない。京都弁と言われてどんなことを人は連想するだろうか。おそらくは次のような心象ではなかろうか。いわく、ものやわらかさ、着物、だらりの帯、女、格子戸、漬物、やさしさ、名所、寺、東山、祇園、八瀬、大原、大原女……きりもないことであるが、そんなイメージが繰り出されるのではないだろうか。もう少しこみいったところで、あるいは本音と建前、意地悪、煮ても焼いても食えぬ、裏腹などという人もあるかもしれぬ。それらはすべてほんとうであるが、私が特に言いたいのは、それらは京都ことばのごく一面に過ぎないのであるということである。
京都弁というと、なよなよとし、はげしさやいらだちや、せわしさなどとは無縁であるかのごとき錯覚をもっている人が随分多いように思う。その錯覚の代表的発言は、次のようなものであろう。男の人が京都弁を話しているのは何だかなよなよしていやらしい、あるいは、殊に背広を着てネクタイを締めた人が「そんなことあらしまへん」などと言っているのは願い下げというような批評である。
こういうものの見方に支えられた方言の理解は、京都弁にとって迷惑なだけではない。そういうものの見方でどの方言にしろ理解するのは、ことばのあり方について無責任きわまる、浅薄な印象主義とでも言いたいもので、いわばちゃちな、どこかで大量につくられた安手の土産物にやたら感激しているのとよく似ている発想である。その伝でゆけば、鹿児島のことばは男のことば、東北弁は純朴な人のことば、江戸っ子のはさっぱりしたいなせなあんちゃんことばで、おっとりした奥さんのことばにはふさわしくないというような一方的な発言になるのではなかろうか。
考えてみるのに、京都弁ほど男にしやべらせたくないことばはないのかもしれない。他の方言で京都のことばほど性別に条件がついているのはないのではなかろうか。しかし、どこの地方にも男と女とがいる。京都にもまがいもなく男は半分いる。京都の名誉のために声を大きくして言いたいが、京都にもたくさんのまことに立派な男がいる。そんな人が京都弁を話していけないのなら、彼らはいったいどんなことばを話したらいいのか。共通語を話せとでもいうのだろうか。女が京都弁を話し、男が共通語を話している図柄など、考えるだけでも滑稽である。その滑稽さがわからないという人は、京都弁の何たるかについてきわめて皮相な瞥見しかもっていない人である。私はそんな目で京都のことばを、あるいは京都弁をしやべる人をながめてほしくない。
京都ことばの語り手は、京都に住んで、暮らして、ことばを使っている人びとすべてに与えられる称号であってほしい。私は何も女に限らず、どんな人もそれぞれにたのしく個性ある京ことばを話す力をもっているとしんから信じているし、実際にそうなのだ。私が毎日ことばを交わすさまざまな人……タクシーの運転手さん、漬物屋のおじいさん、お医者さん、郵便局の窓口さん、金物屋のおかみさん、どんな人も一節ある京都ことばを話す。着物を着ていようと、ネクタイを締めていようと、関係のないことである。しっとりした着物を着て、しおらしげにおっとりした動作をしている人だけが京都弁を話すのではさらさらないということを、私は長い京都暮らしでしみじみ確信するに至っている。
京都弁とは、さように限定された存在ではない。すべての人に開かれたことばである。限定された存在と考えるのは所詮偏見なのである。そしてそれはよくよく考えてみれば、二重の偏見である。一つは女性論的レベルつまり、女は常にものやわらかに優雅に下手にいてほしいという要求のあらわれだという点において。そしてもう一つは今いささか述べてきたように京都及び京ことばに対して。
どんなに心にとげを生やしていようと、胸底にすさまじい炎を燃やしていようと、たおやかな京都ことばを話してさえいれば、人は、とりわけ男は、安心してしまう要素がかなりあるらしい。その意味で京都ことばは、便利な隠れ蓑である。このことばさえおっとりしやべっていれば、魔法の国へでもゆけそうだ。「いやァそうどすか。うちどないしょう」などとのたもうていれば、もう人は庇護本能を掻きたてられるらしい。案外その女性はおなかで舌でも出していように。練りに練ったポーズをつくるのにはたしかに京都弁は便利なことばではある。私とて、ちょっと京都ことばらしきものを口走って、座の雰囲気をやわらげたりすることはないではない。それはさきに言った錯覚を利用するという面が多分にある。しかし、私はそれが歪曲による幻影に過ぎないことをよく知っている。
とりわけ女は、しとやかでやさしいのが身上などというお決まりの押しつけ的女性観の持主には、京都ことばを話す女性はその理想の条件を備えているかに思えるらしい。それは、一面では女を狭い枠に閉じ込める差別思想とでも言っていいのであるが、そんな考えの故に、女にもいろいろあって、京都弁をしやべっていることなど何の保証にもならないことを失念するのであるから、いささか自業自得的ではある。
正直言って、着物を着て風呂敷包みなどを品よく抱えて、ごめんやすなどという女の姿が女性のあるべき唯一の姿であるならば、私はむしろそんな概念をつくり出す引き金となった京都弁を憎みさえしたい。京都弁はもっともっとさまざまの女を表現するに足る豊かなことばなのであるが、人はそれをわざわざ狭い一方的なものに固めてしまいがちである。そんな偏見による京都ことばもいやなら、ましてそんなものの見方の上に構築された女のイメージなどまったく願い下げにしたい。
いわゆる狭い枠内のカッコつきの女らしさと結びつく京都弁などは、灰色の神話にしてしまいたい。もちろん京都弁はたくましいことばであるから、そのエネルギーの一つの表れとして、そのような女を演出するのもいと簡単なことではあるが、ほんとうは、そんな一種の呪縛から京都弁を解き放ち、その赴くところに赴かしめよと心から思わずにはいられない。
(寿岳章子著「暮らしの京ことば」朝日選書 p18-24)
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◎「そういうものの見方でどの方言にしろ理解するのは、ことばのあり方について無責任きわまる、浅薄な印象主義とでも言いたいもので、いわばちゃちな、どこかで大量につくられた安手の土産物にやたら感激しているのとよく似ている発想である」と。