学習通信050805
◎「食うべき詩」……
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人生における詩と散文
車で走ることと足で歩くこと
私は、自転車を別にすれば、いわゆる車(つまり自動車)の運転ができない。でも、人の車に乗せられて走るのは好きだ。無知の強みで、免許とりたての人の車にも平気で乗っかる。
初めての土地を走るのもいいが、知った町まちをつらねて走るのがとくにいい。私の場合、見知りの町と町とが一里(四キロ)以上はなれている場合には、それをつなぐのはへいぜい、もっぱら電鉄の線路である。電鉄の線路はおおくの場合、生活空間からは相対的に隔離されている。そこで、駅のあるAの町並みと、次の駅のあるBの町並みとが、バラバラに存在しているかのような錯覚が生じる。
ところが、車(自動車)に乗せられて走ると、そのAとBとが生活的につながっていることが実感される。そこで、よく知っているつもりでいながら、じつはそのAをもBをもともによく知ってはいなかったのだということ、その知らなかったことをいまは知りえたということを味わうよろこびを与えられる。車なしに現代のゲリラ戦を構想することはできない──と、そんな妄想にひたることもある。
しかし他方、私は自分の足で歩くことが好きだ。一里以内だったら、できるだけ歩く。歩くことをタテマエとしている。車では、下町の狭い路地裏に入りこむことはできない。それではやはり「ゲリラ戦」は不可能だ。
もちろん、私が「一里以内だったらできるだけ歩く」ことをタテマエとしているのは、「ゲリラ戦」にそなえるためというつもりなわけではない。まずは歩くことが好きだというだけのことである。もっとも、最近はじっさいに一里歩くとさすがに疲れて閉口することがおおくなった。つまり・じっさいに一里歩くことは、あまり好きではなくなった。それでも「一里以内だったら歩く」ことをタテマエにしているというのは、ヨリ正確にいえば「一里以内だったら歩く方が好き」ということを無理してタテマエにかかげているということらしいが。
「散文的精神」の意義について
「汽車汽船はもちろん、人力車さえ工夫する手段を知らないで、どこまでも親ゆずりの二本足でのそのそ歩いてゆく文章」、それが散文だ、と夏目漱石が書いている。(『文学評論』)「散文とは、車へも乗らず、馬へも乗らず、なんらの才覚がなくって、ただ地道にお拾いでお出になる文章をいうのである」とも。そして、さらにつづけて「これは決して悪口ではない。歩行は人間常体の運動である。軽業よりもよほど人間らしくって心持がいい」と書いている。
人生には、この「散文精神」を欠かすことができない、と私は思う。
「牛になる事はどうしても必要です。吾々はとかく馬になりたがるが、牛にはなかなかなり切れないです。……あせってはいけません。頭を悪くしてはいけません。根気づくでお出でなさい。世の中は根気の前に頭を下げる事を知っていますが、火花の前には一瞬の記憶しか与えてくれません。うんうん死ぬまで押すのです。それだけです。……相手はいくらでも後から後からと出てきます。そうして吾々を悩ませます。牛は超然として押して行くのです」という一節が、夏目漱石から芥川龍之助・久米正雄への手紙のなかに出てくるが、これなどまさに人生における散文精神の意義そのものについて語ったものといえるだろう。
大正十三年、広津和郎が「散文芸術の位置」という文章を書いた。そして「散文精神」の意義を強調した。「近代の散文芸術というものは、自己の生活とその周囲とに関心を持たずには生きられないところから生まれたものであり、それ故に我々に呼びかけるところの価値をもっているものである」「散文芸術は、すぐ人生の隣りにいるものである」というのであった。
すぐに佐藤春夫が、これに共感する文章(「散文精神の意義」)を書いた。そして「散文芸術の精神は、詩的精神とはまったく別個の独立した人生観にまで根を下ろしたものである」といいきった。
これにたいして生田長江が「認識不足の美学者二人」という反論を書いた。そしてまた広津和郎が「再び散文芸術の位置について」という反批判を公表した。──「散文芸術論争」と呼ばれる文芸評論史の一コマである。
広津和郎の問題提起の歴史的な意義を疑う文芸評論家は、今日一人もいないだろう。
「食うべき詩」の意義について
広津和郎が「散文精神」の独自の意義を強調したことは、しかし「詩的精神」の独自の意義をまったく否定するものでは必ずしもなかった、と私は思う。「詩」にもいろいろある。まったく生活からかけはなれて、ただ「蝶よ花よ」というだけの詩もある。しかし、石川啄木が「食うべき詩」ということを強調したとき、啄木が意味していたのは「すぐ人生の隣りにいるもの」としての詩、というよりは「人生そのものとしての詩」であったはずである。
「散文的」という語を辞書で引いてみると、「平凡で、おもしろみの感じられない様子」という説明が出てくる。(三省堂『新明解国語辞典』)確かに生活にはそういう面があり、そしてそれは、それなしには生活がなりたちえない大切な側面でさえあるだろう。しかし、それが生活のすべてでもない。そういうなかから、それに甘んじていてはならない──それではそのことのもつ大切な意味もすりきれてしまうということが自覚されてくる、したがってそういう生活に内在しながら同時にそれを超えるあるものを求めようとする、それも生活の大切な一面である。「食うべき詩」がそこに成りたつ。「私の詩≠ニいうのはありのままでは決して満足しない精神をいうのである」と別のところで佐藤春夫が書いていたことも、これに通じるものをもっているだろう。
人生における「散文的精神」
「けれども、年がら年中足をすりこぎにして、火事見舞に行くんでも葬式の供に立つんでも、同じ了見でてくてくやっているのは、本人の勝手とはいいながら、あまり器量のない話である」と夏目漱石も、先に引いた文章のすぐあとにつづけて書いていた。
「詩って、小説にない小説の息みたいなものなのね」という言葉が、室生犀星の小説『杏っ子』に出てくる。室生犀星は詩人であり、かつ小説家(つまり散文芸術家)であった人である。
というわけで、人生には散文も詩も、詩も散文も、ともに必要なのだと思う。人生における「詩的精神」の意義を強調する場合には、同時に「散文的精神」の意義を忘れまい。「散文的精神」の意義を強調する場合には、同時に「詩的精神」の意義を忘れまい。
車に乗っけられて走ること──もちろん飛行機に乗って空中から地表を俯瞰することをふくめて──も、他方、「親ゆずりの二本足でのそのそ歩いてゆく」ことも、どちらも好きでありつづけたい──と、あらためて私は思い、かつ考える。
(高田求著「新人生論ノート PART U」新日本出版社 p122-126)
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白いものが
私の家では空が少い
両手をひろげたらはいってしまいそうなほど狭い
けれど深く、商い空に
幸い今日も晴天で私の干した洗濯物が竿に三本、
ここ六軒の長屋の裏手が
一つの共同井戸をまん中に向き合っている
そのしきりのように立っている六組の物干場
その西側の一番隅に
キラリ、チラリ、しずくを飛ばしてひるがえる
あれは私の日曜の旗、白い旗。
この旗が白くひるがえる日のしあわせ
白い布地が白く干上るよろこび
これはながい戦争のあとに
やっとかかげ得たもの
今後ふたたびおかすものに私は抵抗する。
手に残る小さな石鹸は今でこそ二十円だが
お金で買えない日があった
石鹸のない日にはお米もなかった
お米のないロには
お義母さんの情も私の椀に乏しくて
人中で気取っていても心は餓鬼となり果てた
その思い出を落すのにも
こころのよごれを落すのにも
やはり要るものがある
生活をゆたかにする、生活を明るくする
日常になくてならぬものが、ある。
日常になくてならぬものがないと
あるはずのものまで消えてしまう
たとえば優しい情愛や礼節
そんなものまで乏しくなる。
私は石鹸のある喜びを深く思う
これのない日があった
その時
白いものが白くこの世に在ることは出来なかった、
忘れられないことである。
(「石垣りん詩集」思潮社 p22-23)
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◎「それなしには生活がなりたちえない」と。