学習通信050803
◎子どもたちの生活態度のなかに……
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科学する心
子どものころ、といってもまだ幼稚園にはいっていなかったから、四歳か五歳だったと思う。私は、親から「液体」という言葉を引き出すことができず、悲しい思いをしたことがあった。
母親が台所で天ぷらを揚げるのを見ていた。私の見ていたのは天ぷらではなく油だった。天ぷら鍋にいっぱいに広がっていた油が、漏斗の小さな口を通り抜けて、油保存用のカンに移されるのを、胸が痛くなるほどの驚きで眺めていた。玩具やテーブルや茶碗や箸などの、身のまわりのすべてのものと違うことがわかった。
油と似たものとして知っているのは水だけだった。油と水に共通の性質、すなわち容器の形に合わせて形を変え、こぼしでもしたらもう拾い集められないもの──そういう属性をもつ物質すべてを総称する言葉があるはずだ。それを知りたかった。しかし、日常会話に必要な単語すら十分修得していない年齢だったから、「そういう属性を記述する言葉は?」などという質問の仕方ができたわけではもちろんなかった。舌たらずな言葉で、もたもたと、それでも一生懸命たずねたけれど、残念ながら私の知りたいことを親に理解してもらうことはできなかった。
ふだんから、好奇心も強く知識欲も旺盛だったのか、「なぜ?」、「どうして?」を朝から晩まで連発していたから、親のほうもたいてい辟易していたに違いない。それでも、水と油はいかに相容れない性質をもっているかを説明してくれた。油が水に溶けないことから、比喩として一般に「水と油」という表現の使われることまで幼い私に聞かせてくれた。それはわかっている。もちろん異なる性質は沢山もっているだろう。それでもなお、油と水は仲間のはずだ。固有の形がない。流れていってしまう。──もう泣き出しそうになりながら、しつこく親にまつわりついたけれど不成功に終わった。それから幾晩かは、口惜しさに眠れなかった。自分の表現力の乏しさが情けなかった。今でも鮮明に覚えているのだから、よほど口惜しかったのだろう。
子どものころの口惜しい思いは、小学校の教師との間でも何度となく経験した。地球が自転していることを習ったとき、それではなぜ空気が風にならないのかと質問した。電車の窓から手を出せば、手いっばいの風を感じる。地球がまわっているなら、われわれは地球と共に新幹線の一〇倍くらいの速さで動いていることになる。空気が止まっているなら、相対速度からいってこれはもう想像を絶する突風が起こるはずである。風船にぶらさがって半日待てばアメリカにたどり着くはずだ。
油の事件からは成長していたとはいえ、小学校も低学年だったから、表現力はさほど進歩していなかった。理路整然とした表現で質問できたわけではなかったから、私はもう涙ぐみそうになりながら疑問を口にしたのだけど、教師のほうも困惑していた。
この程度の疑間は、子どものころには誰もが経験することである。わが娘が小学三年生の時、同じことを聞いた。彼女の場合は、動いているバスの中で思い切り飛び上がったけど同じ場所に落ちたというのだった。バスは動いていた。私は宙に浮いていた。それなのにどうして私は飛び上がった場所より後のほうに着地しなかったのか、というのである。地動説への反論に答えるためにガリレイの考えた思考実験を説明してみた。動いている船のマストから重い石を落としたら、マストの真下に落ちるだろう。船は間違いなく動いているのに、娘を納得させることに成功したかどうかは自信がない。
幼い心には先人観がない。素朴でういういしい見方ができる。空はなぜ青いの? 虹はどうしてあんなにたくさん色が並んでいるの? 星はなぜ降ってこないの? りんごはなぜ落ちるの? 何もかもが新しく、不思議に見える。そういう目は大人になるにつれて曇ってくるようだ。人間はきわめて高い順応性をもっている。どんな環境に置かれても、最終的にはその中で活路を見出すことができるのもそのおかげてある。
反面それは慣れることにほかならない。何もかもが当たり前に見えてしまって、不思議ともなんとも感じなくなる。私は今、油が形を変えていくのを、遠い昔のあの日のように新鮮な驚きと疑問で眺められるだろうか?
子どもの心をもって、新鮮な「なぜ?」、「どうして?」が浮かばなくなったとき、科学者は科学者たる資格を失ってしまっている。科学者であり続けるためには、年齢とともにまるくなったり、物事を達観することは許されない。現象には必ず原因がある。けっして下手に大人にならない部分を残していて、目に映るものを不思議だと感じ、「なぜ?」を解決するために大人の常識では想像できない可能性を想像する──これはやはりひとつの才能であろう。独創性などというものはそういうものではないだろうか。
常識にとらわれない可能性を思いつくためには、才能に加えて訓練も要求されよう。多角的な物の見方は、広い知識が助けになる。自然は容易なことでは正体を見せてくれない。とても一筋縄でいくものではない。多角的で反常識的な視点から、あの手この手を尽しても、失敗に続く失敗もある。それでいいのだ。消去法なのだから。
エジソンは、電球に使う材料としてタングステンを見出すまで、数年かけて、実に四千種類以上の物質を試みたという。数学者のアンリ・ポアンカレは言っている。
「アインシュタインがすべての方面にわたって研究したように、人間は自分の関った道の大半が袋小路であることを覚悟すべきである。しかし同時に、自分がめざした方向、の一つが正しいことをも期待すべきである」
科学者は、子どもの心と無限の想像力をもち、忍耐強くあると同時に、楽天的であることも必要である。
(米沢富美子著「人生は夢へのチャレンジ」新日本出版社 p15-20)
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「うちの子どもは理科が弱いから少し練習させたいのだけど、なにかいい本はないかしら?」
こんな質問にあうのはけっしてめずらしいことではありません。通信簿でいつも2か3ばかり、せめて一度くらいは4をとらせてみたい、こういうおかあさんの気持もわからなくはありません。しかし、5段階評価の数字だけついた通信簿の点数で、その子どもが理科につよいかどうか判断することができるでしょうか。
もしこのおかあさんが「理科のドリル」を買って、子どもに毎日学習させてみたところで、ほんとうの意味で理科につよい子どもになるでしょうか。むしろ問題集によってこま切れの知識をつめこまされ、やがておとなになればみんな忘れてしまうだけになるのではないでしょうか。今のような受験体制があらためられないかぎり、受験技術をきそうためにはやむをえないといえばそれまでですが、しかし、やむなくこうした勉強をしいられていても、それだけですませたくありません。
子どもの生活のなかで自然にたいする興味や関心がつちかわれていくこと、自然にたいする科学的な見方や考えかたがたくましく育っていくこと、そして子どもたちの生活態度のなかに自然科学を通じてやしなわれた力が生きていくこと、このようなことこそ、ほんとうの意味で理科につよくなるということではないでしょうか。今日の高度に発達をとげた科学や文化は、先人たちのそのような態度や能力のなかからこそ生みだされたといってよいと思います。
未来をになう子どもたちに、そのような態度や能力を豊かにはぐくむことは、わたしたちおとなの大きな責任ではないでしょうか。その意味では、近ごろの学校の理科教育にみられがちな、実験や観察をせまく考える傾向を反省してみることもたいせつなことと思います。日常生活と科学との関係、科学と社会や歴史とのつながりなど、そういう視野からも子どもたちに実験や観察をとらえなおさせてみることがたいせつです。
自然にたいする興味と関心、科学的な見方、科学にたいする広い視野など自然科学にたいする総合的な力をやしなううえで、すぐれた科学読みもののはたす役割は大きいといえます。
たとえば、『人間の歴史』(イリーン・岩波少年文庫他)をとりあげてみましょう。そこでは、人類の発展の歴史が壮大にくりひろげられ、子どもたちを人類史の何十万年という単位のなかにひきこんでいきます。そこでえた知識や見方は、博物館で実物の石おのや矢じりを見たときにも、子どもたちの想像力を刺激して、人間の歴史を科学的にたどる態度をとらせることでしょう。
また、『生きている地球──その誕生から死まで──』(松本英ニ・偕成社)は、太陽のまわりをめぐる小さな惑星にすぎない地球が、どのように生成・変化してきたかを、子どもたちに深いおどろきと知的な感動をあたえながら物語っています。
それから、いわゆる理科の時間ではなかなかとりあげられない科学者の伝記にも注目したいと思います。
『杉田玄白』(小川鼎三・国土社)や『細菌とたたかった人びと』(秋元寿恵夫 さ・え・ら書房)『キューリー夫人伝』(エーヴーキューリー・白水社)などでは、すぐれた科学者の人間像が当時の社会との関係のなかで生きいきと描かれています。科学の発展は、無数の人びとの協力・工夫と科学者の努力の結晶ですが、代表的な科学者の研究にとりくむ姿や考えかたをとおして、科学とその発展にたいする理解と興味をのばすことができます。
こうしたすぐれた科学読みものをとおして、子どもの成長の程度におうじた自然への関心・興味を育て、人間と自然との関係、科学の発達と人間生活・社会とのかかわりをはあくする態度や習慣、観察力、理解力をつけさせていきたいものです。そのことはひいては、子どもの成長と知識の量におうじて、ものごとの正しい判断力をもやしなうことになるでしょう。(S)
(代田昇著「こどもと読書」新日本新書 p129-131)
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◎「子どもの心をもって、新鮮な「なぜ?」、「どうして?」が浮かばなくなったとき、科学者は科学者たる資格を失ってしまっている」と。