学習通信050802
◎反共風土の特別な根深さ……。

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共産主義に先立つわが国の反共主義

 近代資本主義社会の必然的な産物としての社会主義・共産主義がわが国にはじめて紹介されたのは、いつ頃、誰によって、どんなぐあいにであったかを、しらべることからはじめましょう。

 こんなとき、『日本共産党の六十年』『六十五年』付録の「党史年表」はたいへん便利です。「党史年表」ですけれども、党が創立された一九二二年からではなく、一八四八年──『共産党宣言』があらわれた年──からはじめられていますし、また、たとえば一八八一(明治一四)年の項に、「『六合(ろくごう)雑誌』四月号、小崎弘道近世社会党の原因を論ず<Jール・マルクスをわが国で最初に紹介」と記されている、というぐあいに、そういうこともきちんとしらべて書きこんである、そんな年表です。

 その年表の一八七〇(明治三)年のところに「加藤弘之『真政大意』で、コムミュニスメ∞ソシアリスメ≠フ二つの経済学を紹介(反対者として)」と記されています。「コムミュニスメ」は共産主義、「ソシアリスメ」は社会主義のことで、どうやらこれが、社会主義・共産主義のわが国への最初の紹介であるようです。
 では、それは、どのような紹介であったか、『真政大意』にあたってみると──

「元来世の中の貧富を均しゅうしようと申すことがもってのほかの心得違いで、はなはだもって安民〔民を安んじること〕に害のあることでござる。なぜと申すに……不羈(ふき)自立の情と権利のニつは、なるたけ伸ばさせるようにいたさねばならぬもので、誰しの人もこの情があればこそおのおのわれ負けじ劣らじと競い合うもので、……しかるに貧富を均しゅうしようなどという論は、ちょっと聞いたところではしごく仁政のように聞こゆることなれども、右申す不羈の情と権利を束縛羈びする〔しばりつける〕ことゆえ、いかほど才力のあるものもその才力を伸ばすことができぬことになり、また愚妹なものや懶惰(らんだ)な者……はついに愚昧懶惰にとどまることになり、ついてはますますその貧困を 増す道理で、とうてい国家の困窮、風俗の頽廃を生ずる根本となるでござる」

 このように述べたうえで──
「すでに欧州にも往古ギリシャの盛んな時分、これに類した制度もあり、またその後にいたりてはコムミュニスメじゃのあるいはソシアリスメなど申す二派の経済学が起こりて、二派少々異なるところはあれどもまずは大同小異で、今日天下億兆の相生養する上において、衣食住をはじめすべて今日のことを何事によらず一様にしようという論で……その制度の厳酷なること実に堪ゆべきにあらず。例のいわゆる不羈の情と権利とを束縛羈びすること、この上もなくはなはだしいことでござるから、実に治安の上におい(原文のママ)てもっとも害ある制度と申すべきのでござる」

 「反対者として」の紹介、とあるゆえんです。やかましいことをいえば、ここで加藤が「コムミュニスメ」「ソシアリスメ」と呼んでいるものが歴史的には何を具体的にさしているのか、少々疑問の余地もありそうですが、いまは立ちいらないことにします。
 紹介者の加藤弘之(一八三六〜一九一六)についてしらべてみましょう。

「官僚的啓蒙思想家。但馬(兵庫県)で代々兵学甲州流師範をつとめる家に生まれ、西洋哲学、蘭学を修め、のち、ドイツ学に転ずる。明治政府のもとで、初代東大総長となったのをはじめ、教育上の要職を歴任する。維新直後には、開明主義的官僚として〈非人穢多御廃止〉を建議、立憲政体や天賦人権の考えを紹介し、復古主義を痛撃するが、明治十年代にはいると従来の所説を〈謬見妄説〉として放棄して旧著を絶版にし、新たに〈適者生存〉〈優勝劣敗〉の社会ダーウィニズムの主張をとなえ、自由民権運動に敵対するようになる。その後も明治憲法を歓迎し、日清・日露の戦勝に狂喜するなど、天皇制絶対主義の強化とその対外膨脹政策を支持、大逆事件(一九一〇)後の弾圧支配の〈冬の時代〉には、社会ダーウィニズムに自然科学的唯物論の衣を着せたエセ進化論によって、戦争や天皇の至上性を承認しない良心的なキリスト教徒とキリスト教にも攻撃を加え、国家権力が国民の思想・信条の自由を弾圧するのに手をかした」(青木書店 『哲学辞典』)

 どんな人物であったか、およその見当がつきますね。もう少しくわしく経歴を知るために、別の辞書を見ると──

「明治時代の啓蒙的官僚学者。……藩校弘道館、佐久間象山塾、大木仲益塾に学ぶ。一八六〇(万延一)年、幕府の藩書調所の教官となり、ドイツ学にとりくむ。六一(文久一)年、わが国初の立憲思想の紹介書『隣草』を著述し、幕府の開化路線に洋学者として奉仕。維新後、天皇の侍講を兼ね、左院議官二見老院議官などを歴任、七七(明治一○)年、東大初代綜理に就任、官僚学者の出世階段を登りつめ、晩年には男爵となり、枢密顧問官、帝国学士院院長などに任ぜられる。明治初期には『真政大意』『国体新論』で天賦人権をかかげ立憲政治の啓蒙に努め、明六社員として活躍したが、七五年、民選議院論争で尚早論を唱え政府を擁護、八一年、転向を宜し、旧著を絶版、八二年『人権新説』などで優勝劣敗の社会ダーウィニズムを説き、天賦人権否定論・キリスト教排撃論などを展開した」(三省堂『コンサイス人名辞典・日本編』)

「維新後、天皇の侍講を兼ね」とあるところ、しらべてみると、それは一八七〇(明治三年から一八七五(明治八)年までの五年間で、使用されたテキストはブルンチュリの『国法汎論』でした。

 ブルンチュリの名は、エンゲルスが二十三歳のときに書いた「大陸における社会改革の進展」という論文のなかにも出てきます。『マルクス・エンゲルス全集』の注で見ると「スイスの法学者、反動的政治家」と説明されていますが、マルクス、エンゲルスと同時代人です。

 その論文のなかでエンゲルスは、次のように報告しています。──つい先だって、スイスで、ドイツの共産主義的労働者が(じつは、これは、Uでふれたヴァイトリングであったのですが)逮捕され、書類を押収された。スイス政府は特別の委員会を任命して、議会あてに報告書を作成させた。その委員長がブルンチュリで、発表された報告書を見ると、客観性をもつ報告というよりは党派的な非難といった方がいい性質のもので、すなわち、共産主義はすべての既存秩序を破壊し、社会のあらゆる神聖なきずなをほろぼす危険きわまる教義である、等々と述べたてている……。

 そのブルンチュリの著書を、あの加藤弘之から、明治三年から八年まで、すなわち満一八歳から二三歳にかけて、明治天皇はみっちりたたきこまれたわけです。「侍読ははじめは毎月五、六回にして毎回およそ一時間ほど講義申し上ぐることなりしが、後には毎日となり、二時間ずつも申し上げたり。しかれどもまた御政務の御都合により、さらに毎月五、六回となりたり。もっとも侍読には和学者も漢学者もありしかば、余はただ西洋のことについてのみ申し上げたりしが、いったん毎日となりしはただ余のみにて、和学・漢学の方は始終月五、六回なりき」と加藤は回顧しています(「経歴談」)。

 はじめは天皇自身、ドイツ語の勉強にとりかかったそうですが、これはじきに中止となり、そこで加藤の進講は、ドイツ語の原書を加藤が訳して大意を述べ、あとで天皇がくわしく復習できるよう、訳稿を天皇の手もとにさしだす、という形でおこなわれました。

 ただし、加藤の訳は厳密ではあっても難解で、そこで政府は、日本語の上手なアメリカの宣教師フルベッキを長崎から呼んで、もっとわかりよい新訳を(たぶん天皇の参考用に)依嘱(いしょく)する、ということまでやったようです。それほどに、ブルンチュリのこの本は天皇の周辺で重視されていたわけで、「伊藤博文公修正憲法稿本」にも、その朱書きの義解の部分に「ブルンチュリ氏に依る」ということが両三回見えているそうですが、その『国法汎論』では、「コムムニスムス」が国法による禁圧の対象としてあげられています。

ブルンチュリのこの本は、大学の自治権の思想をわが国にはじめて伝えたものとしても位置づけられているようですが、その場合にも、もし大学の教師が革命を説き、共産主義の正しさを説くならば、「国家ハタダニ正論ヲ以テ、此暴悪論ヲ制圧スルノミナラズ、必ズ又権カヲ以テ、之ヲ禁止スルノ権利ヲ施行スベキコト、固ヨリ当然ナリ」としているのです。

 日本の支配階級は、日本の労働運動、社会主義・共産主義の思想・運動がおこる以前から、先まわりして反共主義の学習にはげんでいた、ということになります。

 このような先まわり学習の教師役をつとめるめぐりあわせになったのは、ブルンチュリだけではありません。

 ローレンツ・フォン・シュタインという人がいました。やはり、マルクス、エンゲルスと同時代人であり、マルクスが『ライン新聞』の編集長をしていた頃、この新聞に三度寄稿してもいますが、『マルクス・エンゲルス全集』の注を見ると、「ドイツのヘーゲル主義者、キール大学の哲学および国法学教授、プロイセン政府のスパイ」と記されています。

 「スパイ」というのが、どういう意味のどの程度のものであったかはよくわかりませんが、キール大学を卒業後、法学研究のため政府の給費生としてパリに留学するにあたり、彼が内務大臣に呼ばれて、パリにおけるドイツ人共産主義者の動静をしらべるよう依頼されていることは、事実です。彼の代表作『現代フランスの社会主義・共産主義』は、このパリ留学中の作品で、社会主義・共産主義についてのブルンチュリの知識も、シュタインのこの本から仕入れたものだということですが、もしかしたらこれ(この本)が彼のスパイ活動の集大成ということになるのでしょうか。

 ところで、このシュタインは、ブルンチュリ以上に日本と深いかかわりをもっています。

「一八八二(明治一五)年、旧憲法起草調査のため渡欧した伊藤博文に憲法、行政法を教え、明治政府の政策に影響を与えた」というぐあいに人名辞典に出てくるのです。

 伊藤博文の一行が、当時ウィーン大学にいたシュタインから講義をうけたのは、一八八三(明治一六)年、すなわちマルクスがロンドンで死んだ年でした。その講義は『斯丁(シュタイン)氏講義筆記』として記録されています。シュタインはそのほかにも、小松宮彰仁親王にたいして、元老院議官海江田信義にたいして、また総理大臣黒田清隆にたいして講義ないし答申をおこなっており、『スタイン師講義聞書』『須多因(シュタイン)氏講義筆記』『スタイン博士答申書』として記録されています。その『須多因氏講義筆記』の一節−

「今日ノ社会二於テ最モ甚シキ争闘ノ存スル所ハ、父子ノ間二在ルニ非ズ、治者被治者ノ間二在ルニ非ズ、労働者ト資本家ノ間二在リ」

 さすが、といわねばなりません。
 伊藤博文は、このシュタインに心酔し、帝国大学初代綜理に彼を迎えたかった模様です。老齢の放をもってシュタインがこの申し出をことわったため、結局、加藤弘之がその席についたわけですが、わが国の反共風土の特別な根深さは、こうしたこととも深くつながっているだろうと思うのです。
(高田求著「学習のある生活」学習の友社 p164-173)

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 諸商品の交換価値とは、実は、同質で一般的な労働としての個々人の労働相互の関連にほかならず、労働の特殊社会的な形態の対象的表現にほかならないのだから、労働は、交換価値の、したがってまた、富が交換価値からなりたつかぎりその富の唯一の源泉であるということは同義反復である。

自然素材そのものは、労働をふくまないから交換価値をふくんでいないということも、また、交換価値そのものはすこしも自然素材をふくんでいないということも、おなじく同義反復である。

しかしウィリアム・ペティが「労働は富の父であり、土地はその母である」といい、あるいはバークレー僧正が「この四原素〔地水火風〕と、それにふくまれる人間労働とが富の真の源泉ではないのか?」と問うたとき、あるいはまたアメリカ人トマス・クーパーが「こころみに一塊のパンからそのうえについやされた労働、つまりパン屋、粉ひき、農夫等々の労働をとりさってみよ、あとにははたしてなにが残るか? どんな人間にとってもなんの役にもたたない野草のひとつかみだけだ」(注E)と平易な説明をくわえたとき、これらすべての見解で問題にされているのは、交換価値の源泉である抽象的な労働ではなくて、素材的な富のひとつの源泉としての具体的労働、つづめていえば使用価値をつくりだすかぎりでの労働である。

商品の使用価値が前提されているのであるから、商品についやされた労働の特定の有用性、一定の合目的性が前提されているわけであるが、ぞれと同時に商品という立場からいえば、有用労働としての労働にたいするいっさいの考慮はそれでつくされている。

使用価値としてのパンにたいしてわれわれが関心をもつのは、食料品としてのそれの諸属性であって、農夫や粉ひきやパン屋等々の労働ではけっしてない。もしなにかの発明によって、これら労働の二〇分の一九がはぶかれたところで、パンはまえと同様にわれわれの役にたつであろう。

もしそのパンができあがったかたちで天からふってきたところで、その使用価値のわずかでも失われるものではあるまい。交換価値を生みだす労働が、一般的等価物としての諸商品の同質性のうちに実現されるのにたいして、合目的的な生産的活動としての労働は、諸商品の使用価値の無限の多様性のうちに実現される。

交換価値を生みだす労働は、抽象的一般的かつ同質な労働であるが、使用価値を生みだす労働は、形態と素材のことなるにしたがって無限にことなった労働様式にわかれる具体的な特定の労働である。

注E「その自然状態にありては、物質はつねに価値をもたない。」マカロック「経済学の起源等々にかんする研究」、プレヴォ訳、ジュネーヴ、一八二五年、五七頁。マカロックのよらな者でさえも、「物質」その他半ダ−スにものぼるがらくたを価値の要素なりととなえるドイツのいわゆる「思想家ども」の物神崇拝よりどれほどすぐれているかがわかる。たとえばL・シュタイン「国家学体系』、第一巻、一七〇〈一九五〉頁を参照。
(マルクス著「経済学批判」岩波文庫 p33-34)

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◎「日本の支配階級は、日本の労働運動、社会主義・共産主義の思想・運動がおこる以前から、先まわりして反共主義の学習にはげんでいた」と。