学習通信050801
◎金を持つだけで──考え方も高みに……

■━━━━━

人の心はお金で買える

 日本人はお金のことをわかっているようでわかっていません。
 その根本的な原因は教育にあると思います。日本史や世界史の教科書を開いてみればわかるように、経済史にはほとんどページが割かれていないのです。

 その背景には、お金を儲けることがなにか後ろめたいことのように認識されていたことがあります。そして相変わらず、そのような間違った認識によって教育がなされているわけです。

 商人はいつの時代も差別されてきました。ご存知のように、江戸時代は士農工商の制度によって商人は社会の一番下の階層に位置づけられ、おとしめられていたわけです。外国でも商売上手なユダヤ人は世界中から憎まれていました。

 資本主義社会においては経済が中心的な役割を占めており、商人がいなければ社会は回転しないのにもかかわらず、「金を稼ぐのは汚いことだ」という考えが蔓延していたわけです。「御用商人」や「政商」などといった言葉を見れば明らかです。

 しかし、その一方で士農工商という制度は、武士の下に農民を置くことで、農民を満足させ一揆や反乱を防ぐという政治的な目的もありました。

 商人は「金を持っているやつが一番強い」ということを肌で知っているので、実は身分制度なんてどうでもよかったわけです。商人が世の中を裏で操っているという話は世界中にたくさんあります。貨幣経済ができて以来、金を持っている商人が間接的に世の中を支配していたはずです。

 そういった支配の仕組みを農民に気づかれたくなかったのでしょう。農民が気づいたら革命が起きてしまうわけです。商人は金を持っているので、社会的には日陰の存在でも力を持ちつづけていた。これはユダヤ人でも同じことです。

 「金を持っているやつが偉い」
 これは当たり前の話です。
 しかし、農民や貧しい人の妬みや恨みが積もり積もって、「商売人は汚い」とねじまげられてしまったわけです。
 間題なのは、そんな教育が現在も行われていることです。
 その倒錯が行きつくところまで行ってしまうと「貧しい人は心がきれいだ」みたいになってしまいます。
 もちろんそんなことはありません。経済的に貧しくなると人間は狂気に走ります。

 記憶に新しいところでは、名古屋で軽急便の社員が給料の未払いに怒り、事務所にガソリンをまいて火をつけた事件がありました。もし彼が金持ちでしたらあんなことをしたでしょうか。せいぜい二、三ヶ月分の給料で人間というのは変わってしまうのです。

 「人の心は金では買えない」というのも同様です。誤解を恐れずに言えば、人の心はお金で買えるのです。

 女はお金についてきます。僕がこういうと、「そうなんだよね」という人でも本当に理解しているかは疑問です。

 たとえばビジネスで成功して大金を手に入れた瞬間に、「とうてい口説けないだろうな」と思っていたネエちゃんを口説くことができたりする。その後は芋づる式です。要するに、ネエちゃんの話を聞いた女の子たちが集まってくるわけです。

 金を持つだけで、自分の精神的な考え方も高みに上がります。実質はなにも変わっていないのですが、お金を持っているという現実が一種のゆとりになるのかもしれません。以前から目の前に精神の高みに上る階段はあったのだけれど気づかなかったわけです。お金を持っているとその階段に気づくことができる。上ると「あっ、そういうことか」とわかるわけです。

 最近はあえて、自分の立場を隠して相手の反応を観察しているのです。「ああ、なるほど。この人たちはこういう反応をするんだ」と。

 人間はお金を見ると豹変します。豹変する瞬間が面白いのです。皆ゲンキンなものです。善いか悪いかは抜きとしてそれが事実です。金を持っている人間が一番強いのなら、金持ちになればいいということなのです。
 人間を動かすのはお金です。
(堀江貴文著「稼ぐが勝ち」光文社 p72-75)

■━━━━━

 だが、住宅問題にかえろう。わがブルドン主義者は、いまや彼の「法理念」を思うさま駆使して、次のような感動的な熱弁をふるまってくれる。

「われわれはためらうことなく主張する。大都市の住民の九〇%以上が自分のものとよべる場所をもっていないという事実ほどに、ほめそやされた今世紀の全文化にたいする恐るべき嘲笑はない、と。道徳生活と家族生活の真の中心点である家と炉辺は、社会の渦巻にまきこま れつつある。……この点では、われわれは野蛮人にはるかに劣っている。穴居民は洞窟をもち、オーストラリア人は土小屋をもち、インディアンは自分の炉辺をもっている、──現代のプロレタリアは事実上宙に浮いている」うんぬん。

 この哀歌のうちに、プルドン主義の反動性があますところなく現われている。現代の革命的なプロレタリアートの階級をつくりだすためには、昔の労働者をまだ土地に結びつけていた臍の緒が断ち切られることが、絶対に必要であった。

自分の織機のほかに自分の小家屋、小菜園、小畑地をもっていた手職工は、どんなに窮乏し、どんなに政治的に圧迫されていても、おとなしい、分に甘んじた、「ごく信心ぶかく、律気な」人間であって、金持や司祭や国の役人の前にでると帽子を脱いだし、心底からの奴隷であった。

土地に縛られた労働者を、完全に無所有の、いっさいの伝来の鎖からすっかり解きはなされた、空とぶ鳥のように自由なブロレタリアに変えたほかならぬ近代的大工業、ほかならぬこの経済革命こそが、労働する階級の搾取、その最後の形態つまり資本主義的生産の形態をとったこの搾取をくつがえすことのできる唯一の諸条件をつくりだしたのである。

ところが、そこへ、この涙もろいプルドン主義者がやってきて、まさに労働者の精神的解放の第一条件であった家と炉辺からの労働者の駆逐を、まるで大きな退歩でもあるかのように嘆くのである。

 いまから二七年前、私は(『イギリスにおける労働者階級の状態』)、まさに家と炉辺から労働者を駆逐するこの過程が一八世紀のイギリスでどんなふうにおこなわれたかを、おおまかに略述した。

そのさいに地主や工場主がおかした非道な行為や、この駆逐がその犠牲となった労働者にさしあたって及ぼさざるをえなかった物質的な打撃や道徳上の有害な形容をも、私はやはり同言のなかでそれ相当に述べておいた。

だが、当時の状況のもとではまったく必然的であったこの歴史的発展過程を、「野蛮人に劣る」状態への退歩とみなそうなどと、そんなことを私が考えつくことができただろうか? とうていできなかった。一八七二年のイギリスのプロレタリアは、一七七二年の「家と炉辺」をもった農村の職工よりは、はるかに高い水準にある。また、洞窟に住む穴居民、土小屋をもつオーストラリア人、自分の炉辺をもつインディアンが、六月蜂起やパリ・コミューンをいつかなしとげることがあるだろうか?

 資本主義的生産が大規模に実施されて以来、労働者の物質的状態が全体として悪化したことを疑うものは、ブルジョアだけである。

だが、だからといってわれわれは、エジプトの(おまけにはなはだ貧弱な)肉鍋や、奴隷精神をやしなうだけであった農村の小工業や、「野蛮人」を、あこがれの目で回顧すべきであろうか? その反対である。

近代的大工業によってつくりだされたプロレタリアート、彼らを土地に縛りつけていた鎖をもふくめて、いっさいの伝来の鎖から解放され、大都市に駆り集められたプロレタリアートがはじめて、いっさいの階級搾取といっさいの階級支配をなくす社会的大改造をなしとげることができるのである。

家と炉辺をもった昔の農村の手織工は、けっしてそれをなしとげることができなかったであろう。彼らがそんな考えをいだくことはまったくありえなかったし、ましてそれを実行しようとすることはなおさらありえなかった。
(エンゲルス著「住宅問題」M・E八巻選集 大月書店 p79-80)

〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓
◎「近代的大工業によってつくりだされたプロレタリアート、彼らを土地に縛りつけていた鎖をもふくめて、いっさいの伝来の鎖から解放され、大都市に駆り集められたプロレタリアートがはじめて、いっさいの階級搾取といっさいの階級支配をなくす社会的大改造をなしとげることができるのである」と。