学習通信050426
◎「JRは国営事業の民営化のモデルとされる」……。
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春秋
朝のラッシュ時を過ぎて車内の乗客にはゆとりも漂っていただろう。線路に接した九階建てのマンションでは大型連休を控えて主婦や幼子の元気な声が響いている時間である。のどかな日常がこんな形で崩れるのを誰が想像しただろう。
▼脱線して故り出された車両がアメのようにひしゃげてマンションの建物に食い込んでいる。時間を追うごとに死傷者の数が増えていく。兵庫県尼崎市のJR福知山線で起きた脱線事故は、戦後の高度成長期の途上に相次いだ鉄道惨事を思わせる規模で被害を広げた。自動化と安全技術が進む鉄道に何があったのか。
▼民営化によって国鉄が生まれ変わって十八年になる。乗客サービスと利便が向上し、年中行事だったストも姿を消した。世界に誇る新幹線技術を含めてJRは国営事業の民営化のモデルとされるが、一方で収益重視のせいか、ホームなどに人が減って安全や案内などで不安を覚えた経験を持つ人も少なくあるまい。
▼惨事の原因は未解明の部分が多いが、前の停車駅でのオーバーランで出した遅れを取り戻そうとした運転士が事故現場のカーブで大幅に速度を上げたという乗客の証言がある。効率を重視したステンレスの軽量車両と脱線の関係を指摘する声もある。日本が誇ってきたシステムと人材への信頼が問われている。
(日経新聞 20050426)@日本国有鉄道とは
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「公共企業体」である国鉄は、全国ネット・ワークとしての公共交通機関の中心柱なのに、これを解体しようとしています。法律ではどのようになっているのですか。
汽笛一声、新橋を……から二二年の歴史をもつ国鉄は、今日まで幾度かの変せんを経てきました。
一九四九年に、それまでの「国営」から電電公社や専売公社と同様に「公共企業体」制度に切りかえられました。これには、当時、アメリカ占領軍の指揮のもとに大資本をたて直すための行政機構の大改革(「行政機関職員定員法」等)、そして、労働運動の封じ込め政策(スト権はく奪、団交権の制限等)の側面が重視された背景
があります。
ところで本来の「公共企業体」は、「公共性」と「企業性」の調和をはかり政治介入から独立しておこなう径営体です。だが、その後の国鉄の経営は、政府・自民党の不当な介入によってこれが大きく歪められてきました。また、国鉄の事業運営そのものが旧国営の思想がそのまま貫かれた国鉄当局の官僚的発想による経営姿勢が維持されてきたところにも問題がありました。
日本国有鉄道法第一条は、「……鉄道事業その他一切の事業を経営し、能率的な運営により、これを発展せしめ、もって公共の福祉を増進することを目的として……」とその設立目的を明らかにしています。いいかえれば、国民の福祉、生活優先という「公共の原則」の使命を国鉄は法律によって負っているのです。
今日、国鉄の危機を招いた原因が、あたかも「公共性」を強調しすぎたからだとか、輸送手段としての「独占性」を失いソロバン勘定≠ノ合わなくなったことにあるかのようにいわれていますが、そうではありません。「公共企業体」だからこそ私企業ではやれない公共サービスの提供が可能なのです。
「安くて、便利で、安全で」、「いつでも、どこでも、誰にも」利用できる大量輸送機関として充実し、発展させていくところにこそ公共事業としての国鉄の存在意義があるのです。
(『学習の友』1984年11月号 p37-38)
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国鉄の人員整理と「分割・民営」化
政府・財界のねらい
政府・財界が八〇年代の臨調「行革」路線の最重点課題としていた「国鉄改革」のねらいは、膨大な国有財産の財界への供与と大量の人員整理、闘う労働組合つぶしにあった。「改革」の発端は、七九年一月、経団連が八〇年代戦略として策定した『日本経済の現状と中間的課題』にもとづいて、政府に対し、「行政機構の効率化」「食管制度、健保、国鉄……の抜本的見直し」を要求したことに始まる。
その後臨調答申によって設置された国鉄管理委員会(委員長・亀井正夫住友電工社長)は、八四年八月、「分割・民営化」を求める第二次緊急提言を提出した。その理由として、国鉄危機の原因は、@公社制度で巨大組織の一元的運営、A経営の自由の制約、B親方日の丸意識などを強調した。
しかし「赤字」の主な原因は、政府・財界が国鉄に押しつけてきた過大な設備投資と大企業優遇の貨物運賃にあることは明白である。提言はこれを公社制度と意識の問題にすりかえ、「国民の福祉増進が目的」(日本国有鉄道公社法弟一条)の国鉄を解体して民営の営利企業とし、時価二〇〇兆円以上と推定される国有財産を簿価で新会社に譲渡または捨て値で大企業に売り渡し、一方では大量首切りを行なうというものである。その「分割・民営」の新会社設立委員長には斎藤英四郎経団連会長がおさまり、委員には中央・地方の財界代表がずらりと並んだ。まさに財界による「国鉄強奪」というべきものである。
不法不当な首切りとその手法
一九八〇年の国鉄の定員は四一万六〇〇〇人、その後もあいつぐ「合理化」で八五年には三一万五〇〇〇人となった。これを「分割・民営」後は合計二一万五〇〇〇人に削減する。残余の人員は過員≠ニして整理するが、八七年四月以降も残る過員≠ヘ、三年間を限って「清算事業団」にいれ、再就職か退職を待つという。そのため当局は、「改革」法案の国会提出のはるか以前から、あらゆる手段を弄して「人員整理」を画策した。
第一は。過員≠テくりである。それは公共交通機関の基本的任務である「安全」「利便」「サービス」を徹底的に切り捨てて創出された。地方交通線の廃止、ダイヤ改悪、貨物の大幅縮小、無人駅化、車両検査や保線の簡略・手抜き、大都市ホーム要員の削減、他方では労働時間の延長等々。第二は、組合活動のしめつけと職場の専制支配づくりである。労働慣行や労働条件も一方的に破棄・改悪、現場協議制も労働協約も無視、職制の指示命令による専制支配体制がおしすすめられた。
「分割・民営」化に反対する組合員を差別・選別して出向、配転、希望退職などが強要された。八六年七月には「人材活用センター」(全国で千四百数十か所)を設け、主として国労・全動労の支部、分会の役員・活動家を指名配転して収容、草むしり、施設・車両の清掃、文鎮づくりなどを監視つきで強制、その数は二万人に近い。解雇を容易にするために、「国鉄改革法案」第二三条で、国鉄をいったん全員解雇し、再採用は国鉄作成の「個人調書」にもとづいて新会社が決めた。
国家権力による公然たる思想差別、首切りである。第三は、雇用不安をあおって組合分裂攻撃をすすめた。当局は「分割・民営とこれに伴う余剰人員対策に努力せよ」と「労使共同宣言」を国鉄内各組合に要求し、これに同調した鉄労、動労などと雇用安定協約を結んで国鉄改革労使協議会を設けた。拒否した組合とは雇用協定を拒み団体交渉もすべて拒絶し、組合員には「新会社に行けぬ」と宣伝して分裂攻撃に狂奔した。政府・財界の「国鉄改革」とは、国民と国鉄労働者をいけにえとして、国民共有の国鉄をかすめとることにあるというほかない。
屈伏路線を拒否した国労、全動労
国労、全動労は、総評と社会党の政府・国鉄当局への屈伏路線を拒否した。八六年一〇月の国労臨時大会は、「労使共同宣言受託と国鉄の分割・民営化反対の旗を下ろす」という旧執行部原案を否決し、新執行部を選出した。この大会以降、当局の国労分裂攻撃は一段と激化し、八六年八月時点で約一六万人いた組合員は、八七年三月には約六万人にまで激減した。国労から脱退した旧執行部派は、八七年二月に鉄道産業労組総連合(鉄産総連)を結成した。
一方、分割・民営化やローカル線廃止に反対する各地の労働組合や地域住民、民主団体は共闘組織をつくり活動してきたが、八六年七月には全国組織として「国鉄の分割・民営化に反対し、国鉄を守る国民会議」を結成してとりくみを強めた。
八七年四月の新会社(JR)発足時点では、政府が決めた二一万五〇〇〇人の職員採用枠にたいして、合計一万四〇〇〇人余りの欠員が生じた。それにもかかわらず、北海道で四七〇〇人、九州で二七〇〇人、本州で八〇人が新会社への採用を拒否され、清算事業団に回された。その大多数は国労組合員である。他方、新会社に採用された国労活動家の多くは、本来の業務からはずされ、売店、臨時の切符販売、セールスなど人材活用センターに類似の職場に配属されている。また新会社の労働条件は、国鉄改革法にもとづいて政府が作成した素案をそのまま就業規則にしたもので私鉄以下の苛酷な労働条件である。
これに対して、国労、全動労は、雇用確保、差別・選別反対、安全確保、国民の交通権の確立、公共交通再生の方針を掲げて、産業別組織の確立をめざしている。
鉄労、動労、日鉄労(全施労、真国労、自動車協三組合の合同)、鉄道社員労組の四組合は、八七年二月に鉄道労連を結成し、一〇月までに一企業一組合とするとしている。
国鉄の「分割・民営」化は、国民生活にも重大な影響を及ぼしていくことになる。「分割・民営」化に反対する闘いは、JR各社のなかで労働者と労働組合の権利を守る闘いとともに国民のための公共交通をめざす闘いへと新しい段階を迎えている。
(「事典 日本労働組合運動史」大月事典 1987年 p198-200)
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◎「政府・財界の「国鉄改革」とは、国民と国鉄労働者をいけにえとして、国民共有の国鉄をかすめとることにあるというほかない」と。
郵政の民営の意図はなんだ。国民にとっては最悪……。