学習通信050423
◎「今まで自分が如何に真実を知らなかったかを知り」……。
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伊藤千代子最後の手紙公開にあたって
畠山忠弘・前苫小牧市議会議員
戦前の暗黒時代に平和と民衆の幸せのためにたたかい、逮捕され、獄死同然で逝った伊藤千代子最後の手紙四通が北海道苫小牧市立中央図書館で一日から、公開されています。
長野県諏訪市出身の伊藤干代子の手紙が、なぜ、苫小牧市立中央図書館にあるのか。なぜ、今公開なのかについて簡単にふれてみたいと思います。
私が、東京の伊藤干代子研究室、藤田広登氏から、「伊藤千代子獄中最後の手紙四通は、千代子の最期をたどる上で貴重な手紙で、苫小牧市立中央図書館にあるかもしれない、ぜひ、探して欲しい」との手紙をいただいたのは、二〇〇二年一月のことでした。
伊藤干代子の夫であった浅野晃が、自分の持っている著書や書籍、書簡類を、苫小牧市立中央図書館に寄贈しており、伊藤千代子の四通の手紙も、それまで預けていた、長野市の伊藤千代子研究家・東栄蔵氏に手紙を出し、取り戻したということまでは明らかだが、その後がわからないとのことでした。
夫であった浅野晃は、千代子が一九二八年三月十五日に逮捕されたあと、二十日ほど遅れて逮捕されましたが、水野成夫らに同調して、獄中で変節し、その変節文書を使って思想検事は、千代子にも変節を強く迫りました。しかし、千代子はきぜんとして拒否し最期までたたかったことはよく知られています。だが、官憲による厳しい拷問や脅迫に加え、最愛の夫である晃の変節に直面し、拘禁精神病を発言し、一九二九年九月二十四日、肺炎で、誰にもみとられることなくこの世を去ります。
公開された手紙四通は、浅野晃の母親と妹にあてた手紙で、一九二九年五月八日から、七月二十九日までに書かれたものです。このうち、最後の手紙は、亡くなる二ヵ月ほど前に書かれたもので、千代子の最期を知る上で、極めて重要な意味を持つものでした。
※公開された手紙のーつから
「朝露にぬれた麦畑や大根畑のひろびろとつづいた野方町からあの岡から谷の辺りはどんなに気持ちいいだろうと私も時々思い出していました。ここではね今地しぼりの花ざかりです。高い煉瓦の塀に沿ってまるい黄色な頭を春風にユラユラゆすぶっています、淑ちゃんは地しぼりを御存じですか、強情な大変力のある面白い花ですよ。ダリアの畑へでも菊へでもおかまいなしにずんずん押し込んでいって肥料を横収りにしてしまいます。
田舎では野菜や桑を荒らすのでお百姓は眼の仇にしていぢめています。命あるものはみんなあらん限りに生きようとしているのですね。生きようとするからこそ、その大切な命をも投げ出すのですね。(略)」(五月八日 浅野淑子あて)(しんぶん赤旗 20050407)
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「知は力」の活動と結婚
進学と塩沢富美子との出会い
千代子は、代用教員時代に貯えた資金で仙台の尚桐学校高等科に入ったが、田舎の祖母たちも千代子の固い決意にほだされて、かわいそうな孫のためにと、やがて援助するようになっていった。
開校は入試に当っても、英語の学力が重視されていたので、千代子はしだいに自信を深め、次の飛躍をめざしたのであろう。それが一九二五(大正一四)年四月に、かねてから心に期していた東京女子大学英語専攻部への進学となった。
東京女子大学は、一九一ハ(大正七)年に青山女学院と女子学院専門部が合体し、キリスト教主義に基づいて創立され、初代学長が新渡戸稲造であって比較的新しい校であった。その新渡戸学長が国際連盟に派遣されることになった後は、安井哲子が新たに学長になり、校舎は西荻窪の武蔵野の林の中にあった。
大学時代の千代子は、いつも地味な着物に紺の袴をつけ、髪は後に巻いて、すらりとした長身で、面長な色白の顔に黒い瞳は大きく、信州人特有の赤い頬をしていたという。それに口数の少ない人で、話をするときは低い静かな声で説得力があり、やさしくて目立たない人柄が、みんなから好感をもたれ、学生間の彼女に対する信頼感も大きなものがあったようである。
そんな彼女が、ひとたび動き出すと彼女のまわりには、多くの学生たちが集まってくる。「社会諸科学研究会」は、すでに学校公認で公然と活動していたが、この研究会と並行して「マルクス主義学習会」をひそかにつくり、その講師になっていたのが、伊藤千代子であり、知は力なり≠かかげて学習を広げた。
千代子は、「資本主義のからくり」という初歩的なものから、マルクスの『賃労働と資本』や『共産党宣言』、それにレーニンの『国家と革命』や『唯物弁証法』、さらにエンゲルスの『家族・私有財産および国家の起源』、マルクスの『資本論』など、政治・哲学・経済学に関する入手できる本を紹介し、これらをテキストにして毎週一〜二回の学習会を、放課後に寄宿舎の部屋へ集まって勉強会を開いていた。
のちに千代子の遺志を継ぐことになる塩沢富美子(旧姓下田、野呂栄太郎夫人)は、当時を回想して、次のように書き残している。
「私たちはそれに吸いこまれるように……勉強しました。そして私たちは今更のように、今まで自分が如何に真実を知らなかったかを知り、目からうろこが落ちるような思いで、新しい社会と国家を考えるようになりました」。
英語専攻科の四年生になっていた千代子が、寄宿舎の東寮から西寮に移って、下級生の塩沢富美子と同じ寮生活になり、食事も同じテーブルでするようになると、副寮長は何となく、千代子と富美子の接近を警戒の目で見ている様子があったという。
それから間もなく、秋も深まるころに突然、千代子が寮を去り、空いたその部屋に移った富美子は、びっくりして更に次のように述懐している。
「窓ぎわの作りつけの机の引出しをあけてみると、そこにおびただしいローソクの燃えたれが残っておりました。その頃、寮は十時の消燈でしたから、そしてマルクスやレーニンの本を読むことは大っぴらにできませんでしたので、夜、ローソクをともして勉強していて、それを私たちはローベン≠ニ称していましたが、千代子さんがいかに勉強していたかということを思いました」。
下級生で、しかも学習活動の仲間でもあった富美子は、どうして千代子が寮を去ったのか、そして学校にくることがまれになったかの事情を、あまり細かく聞くことはいけないとさとり、何か外での仕事をはじめたためだろうぐらいに思っていた。たまに現われては、一年生の富美子の教室に濃紺の袴をつけて静々と千代子が入ってきて「どう? 元気? 勉強している?」などといわれると、富美子は胸がドキドキして、何もしやべれなくなるが、それでも一生懸命に話をしてくれたという。
千代子の燃えるような情熱と勉強ぶりに深く感動していた塩沢富美子は、その後の生涯にわたる導きの星として、千代子を敬愛しつづけ、その心に残された足跡に励まされ、彼女は幾多の試練をのり越えていくのである。
──略──
千代子の発病と最期
千代子は、諏訪高女時代に軽い胸膜炎(乾性)を病んだことがあって、もともとそう丈夫ではなかった。それが三・一五の弾圧で投獄されてからのひどい拷問と虐待に、よく耐えて一年六ヵ月も獄中にあった。
逮捕されてから市ケ谷刑務所に送られるまでの間に、相当にひどい拷問と虐待を受けて千代子の体はボロボロ、高熱を出して一〇日も寝たままの状態で独房に放り込まれていた。
ようやく元気を取りもどした千代子は、薄暗い独房の中では、外も眺められず、あっても見上げるような高いところに小さな窓がひとつ、そこでトイレのふたをおこして、それを踏み台にし、うるさい看守の足音が聞えるまで、トイレの小窓から外の僅かな自然を眺めて喜んでいたという。
こうして千代子は、自分のことは後回しにしても、獄中の同志を励まし続け、看守に改善や処置することを要求する先頭に立っていた。
同じ獄中にあって、奥に隔離される千代子の独房の近くへ肋膜炎で移された原菊枝は、「千代子さんの監房での生活ぶりは、実に輝けるものだった」、また、「いつも真面目に党のことを考え、外で働いている多くの同志のこと、そして中に同じく入っていて金銭にも、衣服にも困っている多くの同志のことを考えて、決して自分だけの生活の満足を計るようなことはしなかった」と述懐している。
千代子の体がめっきり衰弱してきたのを心配した原菊枝は、千代子に「あなたは体が弱いのだから、少しは栄養をとらなければ」といっても、千代子は「それはそうですけれども、……」といって、獄中の同志のことを考え、励ますことで不屈にがんばっていた。
それがその年の暮れころから足の裏に黒い斑点が出るようになり、千代子は座ると痛いといって、医者に診察してもらったが、リューマチだから仕方がないといって放っておかれた。
それから年が明けて一ヵ年が過ぎたころ、千代子の頚部のリンパ腺が四ヵ所も五ヵ所も大きくはれ上ってきた。そこでまた例の医者に診てもらうと水銀軟膏を少しくれたという。当時は水銀軟膏を用いるのに、シラミの炎症に殺菌用として塗ったことはあるが、リンパ腺に効くわけはなかった。
千代子が獄中に入れられた年の夏から冬にかけての千代子の月経は、ニヵ月に一回くらいしかなかったと自分でいっているが、このころになると全くなくなって、「私は、とうとう中性になった。中性って、ちっとも気持のいいものではないね」と笑っていたという。
しかし、このころから、千代子は物忘れはするし、語学の方も一日休むとすぐやり直し、差し入れされたカントの本をよく読んでもわからないことが多く、「どうも頭が悪くなって仕方がない」といっていたという。
原菊枝は後に千代子の病気について「あの最後の病気が、この当時から徐々に頭へ食い込んでいたのではないだろうかと、私は後になって思い合わせている」と書いている。
刑務所の中の医者は、決してどこが悪いかの病名やどの程度に悪いかの病気の進行状況は教えなかった。
五、六月ころになると、千代子は今度こそ保釈運動を外の人に頼んで出られるようにするといって、自分の布団をみんな宅下げにして、刑務所のセンベイ布団に包まれ、この方がみんなと同じだから気持がいいといって、愉快そうに笑っていたという。千代子は原菊枝にも「私が出たら、きっとあなたを出してあげるから待っていらっしゃい」と話していたという。
保釈は裁判所の職権であって、事件の審判のほかは、決して各自の思想・信条には立ち入らないことになってはいたが、その人間の考え方の如何によって保釈にもするし、死んでも出さないという悪法の乱用をしていた。千代子はこのことを十分に承知していたはずであり、保釈運動は必要なたたかいではあったが、容易なことではなかった。千代子は、この時点で相当に身心がまいった状態になっていて、ときに妄想がはじまっていたのではなかろうか。
そんな千代子に、思いがけない大衝撃を与える事件がおそってきて、彼女の神経をズタズタにしてしまうのである。
それは、千代子の共産党入党の推薦者であり、党指導部の大幹部であった水野成夫が、天皇制権力に屈服して日本共産党の解体を主張する「日本共産党労働者派」と称する運動に転落したことである。このいわゆる「解党派」は党を破壊していく役割をもっていたから、党はかれらを除名した。
ところが、権力の側はこれをテコに、獄中にあった同志たちへの転向をすすめる攻撃を強めてくる。千代子たちにも、当然、およんできたが、獄中の彼女らは結束して、断固、反対していた。
それが、こともあろうに、千代子にとって最も身近で信頼していた夫であり、同志でもあった浅野晃が、天皇制権力に屈服した解党派グループの一員であることを知らされた千代子はがく然とする。しかも、衝撃と悲嘆にくれる千代子に毎日、検事局から呼び出しがかけられ、解党派への同意と転向を執拗にせまられ、強要される。それに対して千代子は、一人で最後の力を振りしぼって、きっばりと拒絶し、たたかった。それにしても千代子にとって、最も信頼し、愛する同志であった夫の裏切りと転向への悲しみ、怒りは、どんなであったであろう。
担当した亀山慎一検事は、千代子には絶対に見せないという浅野との約束の上中書を見せ、千代子を解党派に落す意図で読ませた。心身ともに弱って極限にあった千代子は、ついにそのショックと苦痛に押しつぶされ、激しく発狂した。
同じ獄中にいた原菊枝の記憶では、投獄された女性一六人のうち四人が発狂したといわれ、「人間の脳髄はいつどうなるか信じられないものだ。まさか自分は気狂いになりたいとか、なってもいいと考えたのでもあるまいに、不可抗力的に脳髄が狂ってしまうのだ」と脳の破壊されていく恐ろしさを記している。
千代子が発狂して、かなりひどくなってからも、同志を思う心からか、看守を呼びつけて何やら同志の病気のことで、せき込むように熱心に訴えている千代子の姿に、獄中の同志たちも、みんな涙を流したという。
千代子の病状がさらに悪化して、ようやく東京荏原(えんばら)の松沢病院に移されたのは、八月中旬ころであったと見られる。一会した人たちの後日談を総合してみると、発狂したといっても一時的なもので、精神異常の拘禁性ノイローゼを克服して正常化に向かっていたという。
しかし、千代子は、満足な治療も与えられないまま、九月二四日の午前零時四〇分、急性肺炎により、誰にも看とられることもなく、生涯を終えた。
千代子がこの世に生きて二四歳ニヵ月という若さで命を奪われ、囚われの身になって、わずかに一年六ヵ月後にむかえた死であった。
千代子の死は、まさに天皇制権力と、それに屈服して解党派に走った裏切りものたちへの憤りの中の無念の死であったのである。
(藤森 明著「こころざし いまに生きて」学習の友社 p26-53)
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それは千代子の死後六年を経過した一九三五(昭和一〇)年のことで、歌誌『アララギ』第二十八巻の十一号に「某日某学園にて」と題して、千代子の死を惜しむ哀悼の思いを六首の歌に詠んで発表した。
語らへば眼かがやく処女等に思ひいづ
諏訪女学校にありし頃のこと
清き世をこひねがひつつひたすらなる
処女等の中に今日はもの言ふ
芝生あり林あり白き校舎あり
清き世ねがふ少女あれこそ
まをとめのただ素直にて行きにしを
囚へられ獄に死にき五年がほどに
こころざしっったふれし少女よ
新しき光の中におきて思はむ
高き世をただめざす少女等ここにみれば
伊藤千代子がことぞかなしき
特高警察の目が光っている前で、土屋文明は、かの千代子がこころざしつつ倒れた生涯を思い、その千代子のここるざしを新しい光の中に歩ませたかったと公然と歌って、国家権力への抵抗の姿勢をにじませながら、同時に時代をここまで来させてしまった無力な思いを詠まずにいられなかったのであろう。
(藤森明著「こころざし いまに生きて」学習の友社 p77-78)
◎
続こうじゃないか
21世紀に闘う我らが
幾倍もになって。