学習通信050421
◎「列強に日本の軍事力のもつ役割を」……。

■━━━━━

国家の存亡をかけた日露戦争

親露か親英か

 19世紀末から20世紀のはじめにかけて,日本は弱肉強食の過酷な世界の中にあった。極東の小さな島国である日本の国力では,単独で自国を防衛するのは不可能だった。力のある大国と同盟関係を結ぶ以外に,生き残る方法はなかった。三国干渉のあと,日本は,同盟をロシアと結ぶかイギリスと結ぶかの選択を迫られた。

 両国のどちらが日本の独立を確保するのに役立つかを見極めるのは,容易なことではなかった。アヘン戦争の時代をよく知ってぃる伊藤博文らの元老は,ロシアと結ぶ親露政策を,小村寿太郎らの外務省幹部や桂太郎首相は,イギリスと結ぶ親英政策を主張した。

 両者の論争の焦点は,ロシアにつぃての見方だった。ロシアは, 1900年に中国でおこった義和団事件を口実に,満州(中国東北部)に2万の兵を送り込み,そのまま居座っていた。ロシアが満州にとどまって朝鮮半島に出てこないようにロシアと話しあいがつくか,ということが最大の争点だった。論争に決着をつけたのは,小村寿太郎が提出した意見書だった。

日英同盟締結

 小村意見書は,日露条約と日英条約の利害得失を論じ,日英条約が優位であると主張したものであった。
 小村意見書は,1901年,政府の方針として採択され,それに基づいて交渉した結果,1902(明治35)年,日英同盟が締結された。当時,ロシアは実際に朝鮮半島に進出する意図をもっていたから,小村の判断は正しかった。日英同盟はこののち20年間,日本の安全と繁栄に大きく役立った。

日露条約の問題点(小村意見)

@一時的には東洋の平和を維持できるであろうが,ロシアの侵略主義は到底これに満足しないから,長期的な保障とはならない。Aシベリアは,将来は別として,現状では経済的利益は小さい。B最近清国人は,上下ともに日本に対して友好的な感情をもってきているが,ロシアと結ぶと清国人の感情を害して,清国における日本の利益を損ずることになる。C英国の海軍力に対抗しなければならなくなる。

日英条約の利点(小村意見)

@アジアにおける英国の目的は領土拡張でなく,現状維持と通商利益であり,英国と結べばロシアの野心を制して,比較的長く東洋の平和を維持できる。Aしたがって,日英条約は平和的,防衛的なものとして,国際世論からも支持される。B英国と結ぶと清国はますます日本を信頼するようになり,平和の利益を増進する。C韓国問題を解決するためには,他の強国と結んで,ロシアがやむをえず日本のいうことをきくようにするほかはない。英国は同盟を結ぶのにもっとも適当な国である。D英国と結べば,日本の経済についての国際的信用を高める。また,英国人は,同盟国の共通利益ということで,日本に財政上,経済上の便宜をはかるだろう。E大英帝国とシベリアでは,日本にとっての通商上の価値は比較にならない。Fロシアの海軍力は,英国の海軍力よりも対抗するのが容易である。
(「市販本 新しい歴史教科書」扶桑社 p220-221)

■━━━━━

 義和団鎮圧戦争

 一九〇〇年にはいると、事態はいっそう急激に展開した。
 ほかでもない、列強の中国侵略の深まりに中国民衆の大規模な抵抗運動がおこったからである。中国民衆の反侵略の運動は、前年から「義和挙」の名で民衆を組織しつつ山東省一帯ではじまっていたが、やがて清朝をたすけ西洋を滅ぼすという「扶清滅洋」をスローガンにかかげた。清国政府の山東省地方官もこれを「義和団」として認め、「洋」との戦いに利用しようとした。こうして義和団運動とよばれる中国民衆の反侵略運動は一九〇〇年には天津・北京にもひろがり、列強の公使館をとりかこむにいたった。清国政府も列強に宣戦した。

 列強は八ヵ国の連合軍を組織してこの鎮圧戦争を開始した。ただ一つアジアの国家として連合軍に加わった日本は、連合軍約二万のうち、約八〇〇〇の兵力を送って文字どおり主役を演じた。このことは列強に日本の軍事力のもつ役割をさとらせる絶好の機会となり、日本もそれを充分に意識して軍隊を送った。こうして日本は、列強との共同行動をとることでその仲間入りをはたす一方、同年八月には台湾の対岸にある厦門(あもい)でも義和団の動きで日本の本願寺が焼かれたという口実(実は日本が仕くんだ謀略であったことは関係者がのちに記している)で、台湾から出兵しようとする事件をおこし、日本の勢力範囲の拡大策をとろうとした。

しかし、これはイギリスやアメリカの強い反対にあって出兵直前に中止せざるをえなくなった。厦門出兵に失敗すると、日本はいよいよ朝鮮を足場に中国東北地方へ向かう「北進」政策を前面に押しだすようになった。

 義和団を鎮圧した列強は清国に対して「辛丑条約」をおしつけた。これには日本もふくめて出兵した八カ国(ドイツ、ロシア、アメリカ、フランス、イギリス、イタリア、オーストリア=ハンガリー、そして日本)のほかベルギー、オランダ、スペインも加わり、その内容は、清国に多額の賠償金を支払わせるほか、北京の一画(東交民巷──現在の天安門広場の東南部に接する区域で、いまでもかつての各国公使館の建物が政府機関などに利用されている)に「外国使館区」を設定して中国人の居住を禁止し、大詰から北京にいたる経路の清国の砲台を取りはらわせ、さらに一二の指定された地域に各国が軍隊を駐屯させるというものだった。

日本もこれによって軍隊を駐屯させた。天津に司令部をおく「支那駐屯」の出発であり、これが後に日中全面戦争のきっかけとなった盧溝橋事件(一九三七年)をおこすことになる。

日英同盟

 日本のこの時期の動きをその世界政策の中でたくみに利用しようとしたのがイギリスである。この時期、イギリスは南アフリカでおこったボーア戦争に手をやき、四〇万の軍隊を送って数年間かかってようやくおさえ、南アフリカ連邦として直轄植民地にするという状態にあり、加えてほぼ同じ時期からドイツの海軍を中心とした本格的な軍備拡大が開始され、それへの対抗なしにはヨーロッパ地域でのイギリスの覇権がゆらぎかねない状況にあった。さらにロシアと同盟をむすんでいるフランスともアフリカ分割をめぐってあわや戦争がおこるかもしれないという事件(ファショダ事件)までおこしていた。

そこでイギリスは、シベリア鉄道建設に着手して以来東アジアで最も大きな脅威となっていたロシアに対抗するため、日本の軍事力を利用しようとした。一方、日本も北方に進出方向を定めるかぎりロシアとの対決はさけがたい。それに日清戦争の賠償金をつぎこんで大規模な軍備拡大をすすめていたが、とりわけ海軍の増強についてはまったくイギリスに依存している状態であった。こうした双方のそれぞれの事情から一九〇二(明治三五)年、第一回の日英同盟、が成立した。これは日本が欧米列強とむすんだ最初の軍事同盟だった。
(井口和起著「朝鮮・中国と帝国日本」岩波ブックレット p26-28)

〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓
◎帝国日本のあゆみ