学習通信050420
◎「マ元帥の「入力」は天皇制存続を決定的にする「引き金」」……。
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天皇制と国民主権
天皇絶対の専制政治──絶対主義的天皇制から国民主権の政治制度への転換も、日本が占頷下にあったという情勢との関連を見ないと、よくつかめない問題です。
私は、七中総の提案報告で、現在の日本の政治制度は、君主制ではなく、天皇制が「形を変えて存続」したもとで、「国民主権の原則を日本独特の形で政治制度に具体化した」ものだと特徴づけました。これにたいして、七中総後の討論のなかで、君主制なのか共和制なのか、どちらかはっきりさせてくれという意見や質問がかなり寄せられましたが、君主制でなければ共和制か、と単純に言えないところに、日本の独特の間題があります。
こういう独特の政治制度が生まれたのは、その変化が占領体制のもとで進行したという事情と、深い関係があります。
──略──
「国民主権」の原則は、占領軍総司令部が日本政府に渡した「総司令部案」には、明記されていました。しかし、政府側は、「総司令部案」にあった「人民ノ意思ノ主権ヲ宣言シ」という文章を、「国民の総意が至高なものであることを宣言し」と書き換えました。これは、翻訳の問題ではなく、国民主権の原則を回避する政治的意図からやったことでした。
この書き換えによる国民主権条項の骨抜きについては、日本政府案を受け取った占領軍の側も認めてしまいました。主権の所在という重大間題について、自分たちの案には、疑問の余地のない言葉で書き込んでいたものを、日本側が事実上取り消したわけですから、普通なら再検討を求めて当然のところですが、それを簡単に認めたということは、理解に苦しむところです。これは、この間題での占領当局の熱意の薄さを示していたのかもしれません。
ともかく、憲法制定議会には、国民主権の原則規定のない「憲法改正案」が提出されたのです。
これにたいしては、二つの方面から、異論が提起されました。
一つは、国内からです。日本共産党は、憲法制定議会の召集にあわせて、独自の憲法草案を発表し(一九四六年六月二八日)、「主権在民」の原則をあらためて明記しましたが、憲法制定議会でも「修正案」を提出し(七月二五日)、そのなかで、「主権在民」の原則を明記することを要求しました。
もう一つの異論は、極東委員会から提起されました。極東委員会は、連合国を代表する対日政策の最高機関(十一カ国が参加)としてワシントンに設けられ、一九四六年二月から活動をはじめていました。最高機関といっても、占領行政そのものはアメリカがにぎっていましたから、実際の機能は限られていましたが、憲法問題では、ここに最終的な権限があるとされていました。その極東委員会が、七月二日、「日本の新憲法についての基本原則」を決定したのです。
この決定は、第一項に、「日本国憲法は、主権が国民に存することを認めなければならない」とうたっていました。これは、主権在民の原則を明記することが、日本の憲法が国際的な承認を受ける絶対的な条件となることを、その権限をもった国際機関の決定として、明らかにしたものでした。
民主主義の原則の問題について、この決定に合致する立場に立っていたのは、日本の政党では、日本共産党だけでした。
事態のこういう展開のなかで、総司令部と日本政府とのあいだで再び会談が重ねられ、憲法制定議会では、政府提出の「憲法改正案」を「国民主権」を明確にする方向で修正する検討が始まりました。その結果、一九四六年八月二四日の衆議院本会議で、「主権が国民に存する」(前文)、「主権の存する日本国民」(第一条)と、「国民主権」の原則を前文と本文に明記した「日本国憲法」が採択されることになったのです。
これが、憲法に「国民主権」の原則がうたわれるにいたった主な経過です。
そこには、日本の民主化を求める国際的な世論が、主権の間題では中途半端な妥協を許さない形で強く働くと同時に、国内的には、日本共産党が、戦前から天皇制に立ち向かった政党として、「国民主権」を保障する本当の民主的な政治制度を求めて一貫してがんばったことの反映があったのです。それが、アメリカの押しつけ≠ネどの言葉に解消できるものでなかったことは、いま見た歴史のいきさつからも明らかでしょう。
この歴史はまた、日本の支配層があれだけ執拗に「国体護持」に固執しながら、新憲法のもとでの天皇が、なぜ、「国政上の権能」をもたない象徴%Iな地位にとどまり、君主制の実態を失わざるをえなかったのか、の根拠をも、よく示していると思います。
ポツダム宣言という国際的な根本条件があり、日本の民主化を求める世界の強い要求がある、そして侵略戦争の開始と拡大で天皇制が果たしたあまりにも明白な役割がある、こういうなかでは、日本の支配層が考えたような、「大日本帝国憲法」の焼直しが絶対不可能であったことはもちろん、天皇が国政に関与できる立憲君主劇的な解決の可能性も、存在しなかったのです。
(不破哲三著「新・日本共産党綱領を読む」新日本出版社 p115-124)
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ところがこの頃になると、米国内の世論も国際世論(とくに中国、ソ連、オーストラリア、フィリピンなど)も天皇戦犯論が強まり、また日本の国内でも、敗戦直後の一、ニヵ月の虚脱感から漸く脱した民衆のある部分は、天皇の戦争責任について考えはじめていた。そこで占領当局者は日本国内の世論操作を、米政府は、米国内世論と国際世論の操作をせざるを得なくなるのである。
にもかかわらず『ニューョーク・タイムズ』(一九四五年一〇月二九日)や、一月七日付、米駐英大使ウィナントの国務長官宛電報(とくにオーストラリア代表ライト卿によるロンドン国連戦争犯罪委員会への天皇告発など)にみられるように、米国内でも国外でも天皇戦犯論は高まるばかりであった。
しかし、現実に占領行政を担当するGHQは慎重にこれに対処しなければならなかった。ワシントン政府から天皇戦犯問題についてのコメントを求められたGHQ当局はどのように考えていたか。
一九四六年一月四日付G・アチソン(政治顧問代理)からトルーマン大統領宛の書簡によると、「アメリカ占領軍が日本人に治安上、経済上の保障が与えられるほど強力であれば天皇を戦犯として裁き、天皇制を廃止すべきであると信じている。しかし、占領軍にそれだけの力量がない以上、早く「民主化」改革を完了して引揚げるべきであろう。
「民主化」改革を有効に進めるには天皇を含む日本政府機関、なかんずく天皇を利用するのが最も有効である。今後引き続き天皇を利用するなら天皇は戦犯から免除され、降伏条項実施のために在位することが必要であることを告げられるべきである」といった要旨が、天皇戦犯問題についてはのべられている。このようなアチソンの考えは、さらに一月二五日付マッカーサー元帥からアイゼンハワー陸軍参謀総長宛の電報によって一層増幅されている。
日く「指令を受けて以来、天皇の犯罪行為について秘密裡に可能なあらゆる調査をした。過去一〇年間日本の政治決定に天皇が参加したという特別かつ明白な証拠は発見されなかった。可能な限り完全な調査から、私は終戦までの天皇の国事関連行為はほとんど大臣、および天皇側近者たちの進言に機械的に応じてなされたものであったとの強い印象をうけた。もし天皇を戦犯として裁くなら占領計画の重要な変更が必要となり、そのための準備が必要となる。
天皇告発は日本人に大きな衝撃を与え、その影響は測りしれないものがある。天皇は日本国民統合の象徴であり、彼を破壊すれば日本国は瓦解するであろう。事実すべての日本人は天皇を国家元首として崇拝しており、正否は別としてポツダム宣言は天皇を存続させることを企図していると信じている。だからもし連合国が天皇を裁けば日本人はこの行為を史上最大の裏切りと受けとり、長期間、連合国に対して怒りと憎悪を抱きつづけるだろう。
その結果、数世紀にわたる相互復讐の連鎖反応が起こるであろう。私の意見では、すべての日本人が消極的ないし半ば積極的に抵抗し、行政活動のストップ、地下活動やゲリラ戦による混乱が引き起こされるであろう。近代的民主的方法の導入は消滅し、軍事コントロールが最終的に停止されたとき共産主義的組織活動が、分断された民衆の間から発生するだろう。
このような状態に対処する占領問題は今までのそれとは全く異なるものである。これには少なくとも百万人の軍隊と数十万人の行政官と戦時補給体制の確立を必要とするであろう。もし天皇を戦犯裁判にかけるとすれば前記のような準備が不可欠であることを勧告する」と。
このワシントンヘのマ元帥の勧告は天皇を戦犯から免除するのに決定的「入力」となる。勿論、この時期以前からすでに、ワシントンのSFE、SWNCCでは、SFE五二回会議(一九四五年一一月二三日)におけるボンスチール大佐の発言にみられるように、天皇の占領政策遂行における偉大な協力と効果を高く評価していたことから、戦犯免除と天皇制温存にほぼ意見が固まっていたと推測される。
そういう意味で、マ元帥の「入力」は天皇制存続を決定的にする「引き金」となったといえよう。天皇戦犯問題の終結宣(宣言は一九四六年六月の「SWNCCー五五/七」においてであった。このような決定に、一九四五年九月二七日の天皇によるマッカーサー訪問と会談がかなり影響を与えたのではないかと推測される。
(竹前栄治著「占領戦後史」岩波現代文庫 p76-79)
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◎「国民主権の政治制度への転換も、日本が占頷下にあったという情勢との関連を見ないと」と。
◎「共産主義的組織活動が、分断された民衆の間から発生する」
◎「主権の所在という重大間題について、自分たちの案には、疑問の余地のない言葉で書き込んでいたものを、日本側が事実上取り消したわけですから、普通なら再検討を求めて当然のところですが、それを簡単に認めたということは、理解に苦しむ」と。