学習通信050415
◎「隣国だからといって特別の考慮をはらう必要はない」……。
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朝鮮はなぜ眠りつづけたのか
近代日本史は東アジアの国際情勢と密接不可分な関係にあった。以下に述べる三つのポイントを前提として踏まえなければ、歴史はそもそも叙述できない。
まず第一は、近代日本の出発点にはイギリス、ロシア、フランス、オランダ、アメリカ、ドイツなど列強の迫りくる具体的な武力脅威があったことだ。アジアでは当時、国境は名ばかりで、塀も柵もない荒れた原野を野盗の群れが走り回っていたに等しい。すなわち欧米列強の植民地支配は、列強の相互牽制以外は無制約で、支配圏の確定は明治維新以前に完了していたのではなく、近代国家としての日本の独立維持の長い努力のプロセスにおいて進行中であった。
イギリスのインド支配の完成は明治維新の十年前だが、ビルマのそれは明治十九年、マレー半島の完全な植民地化は明治四十二年である。フランスが清仏戦争で清からベトナムを奪うのが明治二十年。インドネシアが正式にオランダ領となるのは明治三十七年である。そして南太平洋からはアメリカが北上してくる。アメリカによるハワイの併合が明治三十一年、フィリピン奪取も同じ年であった。他方、北からは不凍港を求めて南下してくる最大の脅威ロシアがあった。
明治の日本人はどんなにか心細かったであろう。そもそもこの心細さが歴史のすべての話の基本でなくてはならない。
日本の自助努力
ついでそのように不安なときに、頼りになるべき中国(清)が自国の領土保全もままならない官僚的老廃国で、朝鮮はその属国にすぎなかった。これが第二のポイントである。
朝鮮半島は北からの脅威のいわば吹き抜けの通路であった。明治日本は自衛のためにも朝鮮の清からの独立と近代化を願い、事実そのために手を貸したが、朝鮮半島の人々はいつまでたっても目が覚めない。自国さえ維持できない清に、朝鮮半島を牛耳ったままにさせ、放置しておけば、半島はロシアのものになるか、欧米諸国の草刈り場になるだけであったろう。つぎに起こるのは日本の独立喪失と分割統治である。
日本は黙って座視すべきだったろうか。近代日本の選んだ道以外のどんな可能性が他にあったであろう。江戸時代を通じ武家社会であった当時の日本人は、中韓両国人に比べ、危機意識に格段の差があった。今日日本のあるのはそのおかげである。
第三のポイントは、中国と韓国は無力であったにもかかわらず、日本に理由なき優越感を示し、扱いにくい、面倒で、手に負えない存在であったことである。両国はともに古色蒼然たる東夷思想・中華思想に閉ざされていたために、「小癪なる東夷・日本」という侮日感情を最初から抱いていた。彼らとの今日に及ぶ感情的もつれの原点である。両国は欧米の進出には比較的寛大に振る舞いながら、わが国の進出にだけは新参者・日本は小癪な、許しがたいという感情を抱いていた。
日清戦争の原因は、清が日本の台頭を近代化の成果、文明への努力とは見ずに、自らの中華秩序を乱すものとだけとらえたことにある。
幕末から明治期に日本を襲ったこの三つの危機のポイントとそれに対する日本人の苦心惨憺の思いを、叙述の前提としてきちんと押さえておかなかったら、日本の近現代史は叙述できないのではなかろうか。そこを踏まえておかないと、大正・昭和と時代が先へ行けば行くほど話の辻褄が合わなくなって、おかしくなるのは目に見えている。ところが、最近では教科書だけでなく、一般の研究書や歴史書にもこの自明の前提が必ずしもきちんと書かれていないケースが多い。
お手近の歴史書のどれかひとつを手に取ってみていただきたい。
第一に、日本は欧米列強から身を守ろうとした弱い国ではなく、最初から欧米列強と一緒になってアジアを侵略した悪い強国として扱われていないだろうか。
第二に、当時の中国と朝鮮の官僚主義的退嬰ぶり、その欠点や短所には一言の言及もないのではないか。
第三に、もともと優越感を抱いていたのは日本人のほうだとされていないか。すべて話が逆になっていないか。
何かに遠慮して、事実に反するおかしな前提から近現代史が展開している例が多い。そのため必然的に、日本にとって自主独立を賭けた日清・日露戦争までがたんに日本の朝鮮侵略史として位置づけられることになりかねないのである。歴史全体を日本悪者論に仕立て上げているモチーフのいっさいは、出発点において書かれるべき三つの前提が書かれていないこの一事に由来するのだと私は見ている。
(西尾幹二著「国民の歴史」産経新聞社 p508-510)
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「西欧型国際秩序」への「参入」
──近代日本アジア外交の出発
「脱亜」の主張
一八八五(明治一八)年三月一六日、福沢諭吉は、その主宰する『時事新報』に「脱亜論」という題の論説を書いた。彼はそのなかでおおよそつぎのように論じている。
わが日本はアジアの東の端にあるけれども、その国民の精神はすでにアジアの古い考え方やあり方を脱して西洋の文明に移った。ところが不幸なことに、隣に「支那」と「朝鮮」とがある。この二つの国の人民もずっと昔からアジア流の政治・教育や風俗のなかで成長してきたことは、わが日本国民とことならないのだが、(中略)この二国の老たちは自分のことや自国のことについて「改進の道」を知らない。交通がたいそう便利になった世界のなかで、文明の事物を見たり聞いたりしないわけではないのだが、それらが心を動かすまでにはいたらず、古い習慣や風俗を恋い慕う思いは百千年の昔と変わっていない。
教育を論ずれは「儒教主義」をいい、学校の教えの基本には「仁義礼智」を唱え、万事「外見の虚飾」だけを重んじ、実際面では「真理原則の知見」がないだけでなく、道徳さえすたれきって、しかもなお思い上がって他を見下し、みずから反省する心もない。
(中略)いまの「支那朝鮮」は、わが日本国のために少しも助けとならないばかりか、西洋文明人の眼から見れば、三つの国が隣りあっているために、時には同一視されて、「支那」や「朝鮮」と同じようにわが日本もみなされる。(中略)そのため、わが外交上に不都合なことが少なくない。わが日本国の「一大不幸」といわねばならない。だから今日の政策をたてるために、わが国はこの二つの隣国の「開明」を待ち、共同でアジアを「興す」余裕はない。むしろその仲間から脱け出して西洋の文明国と「進退」を共にし、「支那」や「朝鮮」に接する方法も隣国だからといって特別の考慮をはらう必要はない。「西洋人が之に接するの風」と同じようにふるまうべきである。
福沢によれは、近代の国際政治の現実は、「力の政治」の世界であった。「万国公法」といわれる国際法もただ「外面の儀式名目」にすぎず、「万国交際の実」は「権威を争ひ利益を貪る」もので、「百巻の万国公法は数門の大砲に若かず」「大砲弾薬は、(中略)無き道理を造る器械」である。彼らが「万国公法」や「万国普通の権利」という場合の「万国」も、世界万国のことではなく、ただ「西洋文明国」をさすだけである。それ以外のところでは、いままで「万国公法」がおこなわれたのを見たことがない。
この「力の政治」の世界のなかで、時には「権力の平均(バランス・ヲフ・パワ)」によって小国が独立をようやく維持していることもないわけではないが、これもまた西洋文明国のなかでのことで、東洋諸国で西洋人がどんなに暴力をふるっても、たがいに傍観して口をださない。だから、近代日本にとって重要なことは、いちはやくこの「西洋文明国」の国際秩序の一員に加わることであり、いまなおその枠の外にある朝鮮や中国などアジアの世界から一日も早く脱出すること、そして日本も「西洋」諸国と同じようなやり方でアジア諸国に接することが課題だというのである(福沢諭吉『通俗国権論』・『時事小言』など)。
この考え方は、近代日本の現実の対アジア外交の基本路線そのものだった。
朝鮮への国書
生まれたばかりの明治政府は、まず朝鮮に新政権の成立を知らせ、両国の外交関係を新しい形式に変えようとした。
江戸時代から正式の国交があり、その窓口の役割をになっていたこともあって、明治新政府から朝鮮との新たな関係をむすぶことを命じられた対馬藩主宗義達は、家老樋口鉄四郎を朝鮮の釜山に派遣して、新政権の成立を告げ、新しい国交を求める「国書」をとどけさせた(一八六九年一月)。ところがその「国書」には「我皇上豊穣し、綱紀を更張し、万機を親裁す、大いに隣好を修めんと欲」という一句があったり、対馬藩主が国書にそえた書簡には「勅」の字がつかわれていた。
文章の意味は、明治天皇が即位して国家の大法を大きくあらため、天皇親政の政治体制をとることになったので、新しく隣国同士の友好関係を開きたいというようなことなのだが、朝鮮側の窓口である釜山では、その受けとりを拒否した。理由は、この文書の形式(例えば、朝鮮へ送る文書に押すこれまでの図書=印鑑を一方的に新しい印に変えた)や宛先と送り主との名がこれまでのものとまったく変えられているうえに、本来、清国の皇帝しか使わない「皇」や「勅」の文字があることなどから、日本が朝鮮の「上国」となろうとしているにちがいないということにあった。
一方、明治政府はこうなることを予測しながらも、この新形式をあくまでおしとおそうとした。そのため朝鮮との外交関係づくりは最初からゆきづまり、難航した。
もともと江戸時代の日朝関係は独特なかたちをとっていた。
江戸時代の対外関係は「大君外交」体制とよばれる独自の原理をもっていた。すなわち室町時代以前のように形式的には中国の王朝を宗主国とあおぎ、これに日本の政権が「朝貢」するという型から、江戸時代の日本はすでに脱け出ており、「大君」(将軍)の「武威」(軍事力)を基礎にして周辺の朝鮮・琉球・蝦夷地などと通交関係をつくりだしていた。
このなかでは中心にある日本がいわば「小中華」であり、まわりの国ぐにや民族がこれに「朝貢」するような形式をとらせようとしていた。そのため江戸時代の日本は朝鮮を「戎国(西の蛮国)」とみていた。ところが朝鮮の側は、中国の王朝を中心にした伝統的な「宗属関係」のなかにあり、その上で日本を「東夷(東の蛮人)」とみていた。双方がたがいに相手を見下すこの関係は、かなり微妙なバランスのなかでつづいていた(朝尾直弘編『日本の近世』1)。
これに対して「西欧型国際秩序」の原理は、主権をもつ国家が「万国公法」とよばれる国際法によってたがいの外交関係をきずくことを原理とするが、その実際の関係は「力の政治」によるというものである(F・L・シューマン著、長井信一訳『国際政治』)。また、ここで主権をもつ一人前の「国家」と認められるためには、「西欧型」の「近代法」の体系がその国にできているということが前提とされている。そうでない国の場合はまだ「野蛮」な国だから、「領事裁判権」などを認めさせた不平等な条約をおしつけるのが当然であるというしくみだった。
明治政府はみずからが組みこまれていたこの「西欧型国際秩序」の関係に、これまでの朝鮮との外交関係を一方的に変更しようとしたのである。
そこで明治政府としては、国内的にはこれまでのように朝鮮外交の窓口を対馬藩にするなどということはやめて、他の外国との外交関係と同じように中央政府のもとで統括しなければならない。また、近代的な国内法をととのえて、江戸幕府がむすんでいた不平等条約の改正をはやくすすめなければならない。他方、朝鮮とは「西欧型」の条約にもとづく外交関係にすることである。しかも、それをもし欧米諸国が日本より先におこなってしまうと、朝鮮の植民地化がすすんで日本に大きな脅威となるという「危機感」もあり、このような対朝鮮外交政策をとったのである(荒野泰典『近世日本と東アジア』)。
こうして最初から難航した日朝関係は、結局、日本の武力による威圧で日朝修好条規の調印を強行するかたちですすめられた。
(井口和起著「朝鮮・中国と帝国日本」岩波ブックレット p6-10)
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◎「何かに遠慮して、事実に反するおかしな前提から近現代史が展開している例が多い。そのため必然的に、日本にとって自主独立を賭けた日清・日露戦争までがたんに日本の朝鮮侵略史として位置づけられることになりかねないのである」と。
西尾幹二氏……新しい歴史教科書をつくる会会長。