学習通信050406
◎「未知への恐怖と好奇心とは、しかし、紙一重の関係」……。

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科学への素朴な信頼

 科学はそれ自体で価値である、などというと、「あまりにも素朴な……」と肩をすくめる人がいるかもしれません。確かにそれは、いかにも素朴な信念です。しかしこの素朴さは、健康さと一体のものでもある、と思います。
 たとえば今世紀のはじめ、内村鑑三が述べた次のようなことば──その素朴さのもつ健康さを感じとれない人は、たぶん、あるまいと思うのです。

「私は世界の歴史は細大漏らす事なく知りたく存じます。私は宇宙の事は、恒星の事も、鉱物の事も、動物の事も、植物の事も、何もかも皆な知りつくしとうございます」

 内村は宗教者であるとともに、もともと自然科学者としてスタートした人であり、そのことを終生誇りとしていた人です。右のことばは、内村が一九〇〇年(明治三三年)に出した『宗教座談』と題するパンフレットの「天国の事」と題する章に出てくるもの。

──ちなみに、そのころ内村は、堺利彦や幸徳秋水らの社会主義者とともに「理想団」という結社をつくり、いわば一種の統一戦線を組んでいて、このパンフレットにはそのような彼の立場も色濃く投影されているのがじつに面白く、「天国の事」の章はとりわけてそうなのですが、それはともかく、「天国で人は何をするのか」と内村はここで問いかけます。讃美歌を歌ってばかりいるのか。そうではあるまい。休息ばかりしているのか。そうではあるまい。「元来我らは休むために働くのではなくして、働くために休むのでございます。」だから「思うに天国には天国相応の労働があるに相違ありません」──その天国での労働の第一として、彼は知的研究労働をあげたのでした。

 あるいはまた、私たちは、アリストテレスの有名なことばを思い浮かべてもいいでしょう。「すべての人間は、生まれつき、知ることを欲する」と彼はその『形而上学』を書きだしていました。知への愛が驚異の念に発する、ということもそこに記されていました。

 アリストテレスのこれらのことばは、非実践的な観照生活の讃美につながる要素をもうちに秘めており、無条件で評価することはできないとしても、そこに確かな真理がふくまれていることは疑いない、と思います。
 すなわち、科学が人間の知的好奇心、知的探求心の発露であること、そして人間のもつ知的好奇心、探求心が人間の生き方の本質に根ざすものであること──これは疑う余地のない真理であり、だからこそ、科学がそれ自体において価値でありうるのだ、と思うのです。

 もう少しくわしくいえば、次のようになるでしょう。
 本能によって閉ざされた環境のなかで、生物としての生存をたもつことにとどまらず、労働を通じて開かれた世界に進み出ること──人間の自己形成はそこにはじまったわけです。未知の世界に進み出ることは、恐怖とのたたかいをともなっていたことでしょう。未知への恐怖と好奇心とは、しかし、紙一重の関係にあります。人間の先祖から人間への歩みは、この紙一重をつき破ることでもあっただろうと思います。

 こうして、労働によって開かれた世界を生きる人間には、知的好奇心、探求心が本質的なものとしてそなわることになったのだ、と思うのです。
 もちろん、開かれた世界に足をふみだしたとはいえ、ながくつづいた人類史の初期においては、人間が開きえた範囲はまだあまりにも狭いものでした。ほんの小さく開かれただけで、その彼方にはぼう大な未知の領域が横たわり、威圧的に人間をとりまいていました。その威圧的な力の前で、その未知なるものにたいする原始人の知的好奇心と恐怖心とは、その間の紙一重を通じてたえず相互に滲透しあったことでしょう。

彼らの知的いとなみにおいて、科学のめばえと宗教のめばえとが混然一体となっていたゆえんです。そこにふくまれていた科学のめばえが、本格的な科学にむかって成長をはじめるには、自然にたいする人間の力の一定の前進が必要でした。

 念のため、三つのことをここで注記しておきます。

@人間の知的好奇心・探求心の発露がすべてそのまま科学であるのではない、ということ。科学の科学たるゆえんは、実証に訴える、ということにあります。実証に訴える知的いとなみ、それが科学だということです。

Aその場合、実証に訴えるということは、実証がすべてだということではなく、また、実証されたものだけが科学だということでもない、ということ。想像力をはばたかせること、大胆に仮説を提示すること、それも科学の生きたいとなみの不可欠の要素です。ただ、想像力のはばたきと同時に、それを実証の手綱によってひきしめること、大胆な仮説の提示とともに、実証の裏づけをそれに求めていくこと、こうして未知の領域にたえずいどみつつ、確かな知の領域をたえず拡大していくこと、そこに科学の面目がある、ということです。

B実証では悟性の力が──すなわち論理の筋道を時間をかけて各駅停車でたどることが──大きくものをいいます。しかし、悟性だけがそこではたらくわけではありません。まして、実証の過程だけが科学のいとなみではありません。科学としてあらわれる人間の知的いとなみは、悟性的思考につきるものではなく、知的直観をもふくんでいます。そして、両者はともにゆたかな感性を裾野とし、この裾野のうえになりたつものです。

 注記は以上です。──このような知的いとなみとして、科学はそれ自体で価値でありうる、というのです。「それ自体で」というのは、それが人間の物質生活のゆたかさに貢献するということを一応はなれても、ということです。そうしたことを一応はなれても、科学の進歩は、人間の精神的ゆたかさの増大を意味するものとして、それ自体で価値でありうるはず、と思うのです。
(高田求著「学習のある生活」学習の友社 p112-116)

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 第一章

 すべての人間は、生まれつき、知ることを欲する。その証拠としては感官知覚〔感覚〕への愛好があげられる。というのは、感覚は、その効用をぬきにしても、すでに感覚することそれ自らのゆえにさえ愛好されるものだからである、しかし、ことにそのうちでも最も愛好されるのは、眼によるそれ〔すなわち視覚〕である。

けだし我々は、ただたんに行為しようとしてだけでなく全くなにごとを行為しようともしていない場合にも、見ることを、言わば他のすべての感覚にまさって選び好むものである。その理由は、この見ることが、他のいずれの感覚よりも最もよく我々に物事を認知させ、その種々の差別相を明らかにしてくれるからである。

 ところで、動物は、@自然的に感覚を有するものとして生まれついている。Aこの感覚から記憶力が、或る種の動物には生じないが、或る他の種の動物には生じてくる。そしてこのゆえに、これらの動物の方が、あの記憶する能のない動物よりもいっそう多く利口でありいっそう多く教わり学ぶに適している。

ただし、これらのうちでも、音を聴く能のない動物は、利口ではあるが教わり学ぶことはできない、──たとえば蜂のごときが、またはその他なにかそのような類の動物があればそれが、そうである、──しかし、記憶力のほかにさらにこの聴の感覚をもあわせ有する動物は、教わり学ぶこともできる。

 さて、このように、他の諸動物は、表象や記憶で生きているが、経験を具有するものはきわめてまれである。しかるに、人間という類の動物は、さらに技術や推理力で生きている。ところで、B経験が人間に生じるのは記憶からである。というのは、同じ事柄についての多くの記憶がやがて一つの経験たるの力をもたらすからである。ところで、経験は、学問や技術とほとんど同様のものであるかのようにも思われているが、しかし実は、C学問や技術は経験を介して人間にもたらされるのである。

けだし、「経験は技術を作ったが、無経験は偶運を」とポロスの言っている通りである。さて、技術の生じるのは、経験の与える多くの心象から幾つかの同様の事柄について一つの普遍的な判断が作られたときにである。というのは、カリアスがこれこれの病気にかかった場合にはしかじかの処方がきいたし、ソクラテスの場合にもその他の多くの個々の場合にもそれぞれその通りであった、というような判断をすることは、経験のすることである、しかるに、同じ一つの型の体質を有する人々がこれこれの病気にかかった場合には──たとえば粘液質のまたは胆汁質の人々が熱病にかかった場合には──そうした体質の患者のすべてに対して常にしかじかの処方がきく、というような普遍的な判断をすることは、技術のすることである。
(アリストテレス「形而上学 -上-」岩波文庫 p21-22)

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1 電気は伝わる

 古代ギリシャ時代に芽生えた多くの事柄と同じように、琥珀が物を引きつけるという現象もマグネシアの石が鉄を引きつけるという現象も、さらにはすべての物がアトムからできているという考えも、中世に至るまでわれわれの歴史に本格的に登場することはなかった。もちろん、その間に断片的にはいろいろな進展があったとは思われるが、歴史に残る形でこれらが登場して来るのは中世に入ってからであった。

 中世に入って、琥珀などの示す引力現象を科学の対象として最初に取り上げたのは、イギリスの物理学者ギルバートであった。彼は、十六世紀の後半、琥珀以外のもの、ガラス、硫黄、色石なども摩擦されると、琥珀と同様に物を引きつける性質が現われることを発見している。こうした引力作用を彼はエレクトロン(電気)と呼んだ。これはギリシャ語で琥珀を意味する言葉であった。

 エリザベス一世の前で電気現象のデモンストレーション実験をしているギルバートの絵画が今も残っている。このような絵を見ると、電気現象というような純科学的な事柄に対して、当時の為政者が興味を持っていたことがうかがわれる。実際、エリザベス一世は電気現象など科学に関する研究を奨励していたといわれている。こうした研究が何の実益も伴わないものであることを承知していたにもかかわらず、知りたいという純粋な欲求から逃れられなかったためだろうし、時代が知識とか学問とかというようなものに重きをおくようになっていったためだろう。あるいは、単に不思議な奇術に対する興味と同じ思いだったのかもしれない。

 ところで、琥珀以外のいろいろな物質について引力作用が観測され、これが科学の対象として取り上げられるようになると、摩擦によって物質に発生した電気は、流体のように物質間を移動するということがわかってきた。すなわち、摩擦した琥珀に他の色石を接触させると、その色石は今度は他の軽いものを引きつけるようになる。このことは琥珀が持っていた、ものを引きつけるという性質、すなわち、「電気」が琥珀から色石に移ったためと考えられた。もしそうだとすると、電気というものは物質の中に発生するとともにその物質から分離することもできるということになる。

 ここで重要なのは、摩擦した琥珀は摩擦する前の琥珀とまったく同じであるという点である。つまり、物自体は電気のあるなしによって少しも変化していないということである。

 すると、一体、物の何が摩擦によって変わったのだろうか。

 電気を持ったものは、持たないものと明らかに異なっている。それは、物を引きつけるという性質が現われるからである。だから、何かが変化しているはずである。この何かを明らかにすることこそ、電気というものを明らかにすることになるはずである。電気という性質が物から物へと伝わるという事実は、これに対する一つのヒントを与えているようにみえる。

物自体に変化がなく、かつ、摩擦によって物の中に生まれた引力作用が他のものに伝わるということは、電気が、「熱」に似たものではないかということを示している。確かに、熱は摩擦などによって物の中に発生し、それに触れたものへ伝わる。それと、熱を持ったものと持たないものとでは、温度が異なるという点を除いては、物自体に何の変化もないようにみえる。

 摩擦すると、一般に熱が発生し、琥珀は温かくなる。しかし、別の方法で物を温めても引力作用は現われない。だから、電気は熱とは別のものであると考えなくてはならない。それと、もう一つ、伝わるということはどうして可能なのか考えてみることにしよう。電気が伝わるということは、電気に関係した何かが移動するということであろう。何が移動するのかわからないが、その何かが摩擦されたものから他のものへ移動すると、そのものに物を引き寄せるという性質が現れる。それなら、その移動はなぜおこるのだろうか。

 われわれは、移動するものと聞くと、すぐ川の流れを思い浮かべる。それなら、川はなぜ流れるのだろう。おそらく、川は、高いところから低いところへ流れているようにみえるから、地球の引力が流れの原因となっているのであろう。

 それなら、熱はなぜ伝わるのだろうか。
 これは明らかで、温度の違いが存在するからである。一般に、温度の高いものから低いものへと熱は伝わる。これも、高いところから低いところへ流れる川と似ているといえよう。そして、われわれはなぜ物を引きつける性質、すなわち、電気が伝わるのかという問題に戻る。今までの例から類推すると、電気が伝わるのは、擦られた琥珀のほうが、電気的に高い状態となっており、擦られていない琥珀は、低い状態となっているためと考えられる。

少なくとも、伝わるものを流体とするならそう考えなくてはならない。とすると、摩擦するということは、一方の物を電気的に高い状態へ引き上げ、他方の物を低い状態へ引き下げるということになるのだろうか。
 一方、マグネシアの石の方はどうだろう。

 こちらの方は、摩擦することなく引力作用を示すが、その性質はごく限られた石のみが持っている。しかも、この性質は一般的にいうならば、他へ移動するということはない。ただ、マグネシアの石に別の鉱石を接触させると、接触された鉱石も引力作用を示すこともある。したがって、引力作用は伝わることもあると考えなくてはならない。しかし、この場合、伝わるということでは同じようにみえるが、電気の場合と同じかどうかはわからない。

 さて、その後、電気には物を引き寄せるという引力作用に加えて、物を遠ざけるという反発作用もあることが発見され、事態はさらに複雑なものとなった。

 摩擦した琥珀に他の色石を近づけると最初互いに引き合うが、色石が琥珀にちょっとでも触れると、今度は琥珀と色石は互いに反発するようになる。琥珀を毛皮で擦ると、琥珀と毛皮は互いに引き合う。また、琥珀は琥珀で他の軽いものを引きつけ、毛皮は毛皮でこれもまた他の軽いものを引きつける。毛皮で擦られた琥珀を他の色石に近づけると互いに引き合うが、色石がいったん琥珀に触れると、色石と琥珀は今度は反発し合う。しかし、その色石は琥珀を擦った毛皮とは互いに引き合う。

 このように、引き合ったり、反発し合ったりするという二つの相反する現象を考えると、マグネシアの石との類似がまた問題となってくる。引力作用を示す二つのマグネシアの石を近づけると、引き合う部分と反発し合う部分とがある。したがって、一つのマグネシアの石の中に引力と斥力という二つの性質があるようにみえる。さらに不思議なのは、ある種の鉱石に対しては、マグネシアの石は引きつけるだけで反発作用を示さないということである。

 このように、マグネシアの石の示す引力や斥力現象は、電気現象とはっきり異なるため、電気と区別して、「磁気」と呼ばれるようになった。この呼び名がマグネシアの石から来ていることは明らかである。また、磁気の源であるマグネシアの石は単に、「磁石」(magnet)と呼ばれるようになった。

 引力と斥力と、それに伝幡と、電気をめぐる現象も磁石をめぐる現象も複雑さを増し、謎は深まるばかりであった。しかし、引き合うという現象と反発し合うという現象をみるかぎり、電気にも磁気にも二つの種類があると考えなくてはならないようにみえた。
(本間・山田「電気の謎をさぐる」岩波新書 p6-11)

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◎「知的いとなみとして、科学はそれ自体で価値でありうる、というのです。「それ自体で」というのは、それが人間の物質生活のゆたかさに貢献するということを一応はなれても、ということ」と。