学習通信050405
◎「獣的なものは人間的なもの」……。
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本来喜びである労働が
人間の人生は、社会のしくみと無関係ではありえない。
資本主義社会のしくみの中で生きる私たちの人生は、資本主義という経済のしくみからくる独特の法則によって大きく左右され、その法則を無視して、勝手気ままに生きようとしても、けっして真の自由を手にすることはできない。
労働、つまり働くことは、人間にとって単に生活を維持するためだけのものでなく、労働そのものの中に喜びやおもしろさが潜んでいる。機械や道具を使って何かをつくるときも、ディズニーランドのような娯楽施設で子どもたちに夢と感動を提供するときも、医療・福祉の現場で患者や障害者に治療やケアをするときも、私たちは社会的な役立ちを実感し、自分自身の社会的な存在感や誇りのようなものを感じることができる。同時に労働そのものの中で、昨日できなかったことができ、昨日分からなかったことが今日理解できたなど、自分自身の人間的な成長が確認でき、うれしくなるものなのだ。
ところがこんなにも意義深い「労働」が、資本主義というしくみのなかでは、労働者にとって「嫌なもの」「つらいもの」「苦痛に満ちたもの」になっていく。
これをマルクスは「労働の疎外」とよんだ。労働者が苦労して生み出した労働の成果が資本家に搾取され、資本家の富がますます大きくなり、資本家が労働者を支配する力もますます大きくなる。労働者は人間なのに、人間らしく生きる力を奪われる。結局、労働者は働けば働くほど、自分で自分の首をしめる──こんな悲しいことがあるだろうか。
生産の現場では利潤最優先の号今のもとで、「生産のための生産」がすすみ、人も自然も破壊され人間らしさがうばわれる。富の蓄積と同時に貧困が蓄積される。医療が「人を殺し」、教育が「人をゆがめる」。どんな仕事について働いてもそこで人間らしさが奪われ、自分が自分でなくなる。人間らしく、自分らしく生きるために、どうしてもこの社会のしくみそのものを変えなくてはならない。
(中田進著「人間らしく自分らしく」学習の友社 p54-55)
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労働とその産物との直接の間柄は、労働者と彼の生産の対象との間柄である。有産者と生産の対象および生産そのものとの間柄はこの最初の間柄の一つの帰結にすぎない。そしてそれを裏書きするものである。それゆえに、われわれはこの別の側面は後ほど見ることにするはずである。そういうわけで、われわれが、労働の本質的なあり方はどうなのかと問う場合は、労働者の、生産にたいするあり方を問うているのである。
われわれはこれまで労働者の疎外、手放しを一方側の面についてのみ、つまり労働者の、彼の労働の産物にたいするあり方だけを見てきた。しかし疎外はただたんに結果においてのみならず、また生産の行為のうち、生産的活動そのものの内側にも、みられるのである。もしも労働者が生産の行為そのものにおいて自己から自己自身を疎外することがなかったとすれば、どうして彼は彼の活動の産物によそものとして対立してくることができようか? 産物はまさに活動、生産の要約にすぎない。
したがって労働の産物が疎外であるのならば、生産そのものは活動的疎外、活動の疎外、疎外の活動でなければならない。労働の対象の疎外のうちには、労働の活動そのものにおける疎外、手放しが要約されているだけである。
ところで、どの点に労働の疎外はあるのか?
それは第一に、労働は労働者にとって外的なもの、つまり彼の本質には属さないものであり、それゆえに彼はみずからを彼の労働において肯定せずに、かえって否定し、快く感じないで、かえって不幸に感じ、どのような自由な肉体的および精神的エネルギーをも発揮することがなくて、かえって彼の肉体を傷め彼の精神を壊すところにある。
それゆえに労働者はやっと労働の外で自身の許に居るように感じ、そして労働のなかでは自身の外に居るように感じる。彼は労働していないときにアット・ホームであって、労働しているときにはアット・ホームではない。
それゆえに彼の労働は自由意志的なのではなくて、強いられたもの、強制労働である。それゆえにそれは何かの必要を満足させることなのではなくて、その労働の外にある諸必要を満足させるための一つの手段であるにすぎない。
労働がよそごとにすぎないというあり方は、どんな肉体的その他の強制も存在しないとなると、たちまち労働はペストのように忌避されるところに、ずばりあらわれる。外的な労働、人間がそこで己れを手放すところの労働は、自己犠牲、苦行の労働である。
最後に、労働が労働者にとって外的であるというあり方は、それが彼自身のものではなくて、他人のものである点、それが彼には属さない点、彼が労働において彼自身には属さないで他人に属する点にあらわれる。
あたかも宗教において人間的想像力、人間的頭脳、人間的心情の自己活動が個人とは独立に、換言すればよそものの、神的あるいは悪魔的な活動として個人にはたらきかけるように、労働者の活動は彼の自己活動ではない。それは他人に属し、彼自身の喪失なのである。
だからその結果、人間(労働者)はもはや食ったり飲んだり産んだりする彼の動物的なはたらき、せいぜいのところなお、住いとか飾りとか等々においてでしか自分が自由に活動しているとは感じなくなり、そして彼の人間的なはたらきにおいてはもはや自分を獣(けだもの)のようにしか感じなくなる。獣的なものは人間的なものとなり、そして人間的なものは獣的なものとなる。
食ったり飲んだり産んだり等々はたしかにまともに人間的なはたらきではある。しかしこれらのはたらきを人間的活動の爾余の圈から切り離して窮極にして唯一の目的たらしめるような切り捨てのかたちにおいては、それらは獣的である。
(マルクス著「経済学・哲学手稿」マルクス・エンゲルス8巻選集@ 大月書店 p74-75)
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◎「労働者は人間なのに、人間らしく生きる力を奪われる。結局、労働者は働けば働くほど、自分で自分の首をしめる──こんな悲しいことがあるだろうか」と。