学習通信050404
◎「批判を恐れますか」……。

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トラウマへの道──本当の「自分」

 いよいよ次の次か。
 そう思うと、掌に汗がじわりと滲んできた。話すことがない。話す内容がない。正確には、話すべきことが「思い出せない」と言うべきなのだろうか。私には「トラウマ」と呼ぶほどの心の傷が見当たらない。いや本当はあるのだが「封印している」と言うべきなのだろうか。しかし、そうだとすると封印しているのも、それを開けようとするのも同じ私自身なので、どうしようもないのである。

 都内のあるマンションの一室。私はトラウマのグループセラピーに参加していた。
 狭い部屋に、私を含め十人ほどが車座に座っている。時計回りに、ひとりずつ自らのトラウマ体験を語るのである。

 原則は「話しっ放し、聞きっ放し」。それぞれが言いたいことを順々に話し、その他の人は黙って聞く。人の話したことに対して決して批判や意見を述べてはならない。人の評価を気にせず、「自分」を語ることで人は癒されてゆくというのである。

トラウマのインフレ

 トラウマとは「傷」である。もともと体の傷を意味していたが、それが心に転用され「抗し難い恐怖に満ちた体験がもたらす心理的ダメージ」(『サイコロジカル・トラウマ』B・A・ヴァンダーコーク編著 金剛出版)とされている。「実際にまたは危うく死ぬまたは重傷を負うような出来事を、一度または数度、または自分または他人の身体の保全に迫る危険を、患者が体験し、目撃し、または直面」(『DSM−W 精神疾患の診断・統計マニュアル』医学書院)するほどのことである。具体的には、戦争や災害、事件、事故など不測の事態に巻き込まれることだ。

 私にはそういう経験はない。つまり、トラウマはないと言える。ところが日本の精神科医たちが書いた本を読むと、そうとも言い切れなくなる。

 「トラウマ(心的外傷)とは、何か。一言でいいますと、それは生活上のある体験を原因とする、重いこころの傷のことです。……実際には、人によって、何に対して特に苦痛を感じるか、何に恐怖するかには個人差があります。その人のおかれた社会経済的状況、あるいはその人のパーソナリティや価値観によって、それは変わってきます」(『災害とトラウマ』「こころのケアセンタ」編 みすず書房)

 生活上の体験に原因があり、その人の「パーソナリティや価値観」と相まって生まれた傷だという。同じ出来事でも、トラウマになるか否かはその人次第なのである。となると精神科医たちは、どうやってトラウマを認定しているのだろうか?

 「トラウマによると思われるような症状を呈している場合に、トラウマの存在を推定しているわけである」(『トラウマの臨床心理学』西洋哲著 金剛出版)

 まず症状ありき。症状があるからトラウマがあるはず、と考えるのである。それがどんな症状かというと「トラウマによると思われるような症状」。結果から原因を推定しているのだが、カゼをひいているのはカゼが原因≠ニいうような同語反復の世界なのである。

 医師たちもこう述べている。
 「トラウマというのは、この概念を広げていくと、どこまでも広がっていく。最近アダルト・チルドレンの問題が出てきていますが、これもまただんだん広がっていく。いくらでも広がっていく」(森山公夫氏。『トラウマ 心の痛手の精神医学』藤洋敏雄編 批評社)

 トラウマという言葉は、日本では一九九五年の阪神大震災や地下鉄サリン事件から知られるようになった。そしていつの間にかトラウマ反復は一般化し、今では「日常性トラウマ」などという言葉すらあり、どこからどこまでがトラウマなのかよくわからなくなっている。

 「トラウマン」などというトラウマに悩みまくるテレビゲームまで売られているくらいで、言わばトラウマのインフレ状態なのである。

 「われわれが普段使う診断基準で、つけられて喜ぶ診断名がふたつあって、PTSDとACなんです(笑)。自分のつらい体験を評価してもらった、ということでしょうね」(山口直彦氏。同前)PTSDとは翻訳すると心的外傷(トラウマ)後ストレス障害。ACはアダルト・チルドレン、つまり幼少期に家族から受けたトラクマによる様々な障害。いずれにせよ、精神の障害をトラウマによるものと診断すると喜ばれるという。

 有り難きトラウマ。一体どういうことだろうか、と思いつつトラウマ関係の本を読んでいるうち、実は私もトラウマ仲間であることを知らされた。例えばこんな一節、

 五人の人が集まっていると、それぞれが五通りの違う意見を言うのではなく、Aが「ぼくはこう思う」と言うと、B・C・D・Eのみんながそれに同調してしまいます。(『「アダルト・チルドレン」完全理解』信田さよ子著 三五館)

「NO」と言えず、自分の意見が出せない症状にはきっと何かあるはず。たとえ「NO」と言ったとしても、

「私がそう思うからいやだ」というのではありません。「世間の常識から考えれば、こうではないのか」とか「世の中とはこういう問題があるのだ」というふうに、周囲にその理由づけをもっていって、決して本当の自分の感情を出そうとはしません。……基本は私のなかに判断基準があるのではなく、いつも周囲に判断基準があるということです。(同前)

 まるで私である。かつてはこれを「世間体を気にする」あるいは「協調性」などと呼んでいたのだが、それがトラウマヘの入り口になっていた。
 こうして考えている私は、周囲に合わせた自分であって、本当の自分ではない。

 本当の自分?
 頭の中で反復すると、くらっとする。自分のどこが偽りなのだろうか。偽りか本当か考えるのも自分である。これが「偽りの自分」だったら、偽りが本当になってしまう。判定のしようがない気がして、次第に頭がこんがらがってくる。

 この迷路を突破しようとするのが、普段は意識されない「内なる子ども」という概念だった。

 私たちにはみな「内なる子ども」、つまり私たちのなかの究極的に生き生きした、エネルギッシュで創造的な満たされた部分があります。これが私たちのリアルな自己──真に誰であるか──なのです。……親、他の権威者、そして制度化された慣例(教育、既成の宗教、政治、メディア、精神療法でさえも)のせいで、私たちのほとんどは内なる子どもを窒息させ、または否認することを学びます。(『内なる子どもを癒す──アダルトチルドレンの発見と回復』c・L・ウィットフィールド著 誠信書房)

 周囲の人々や慣例のせいで、私は気がつかないうちに「生き生きした、エネルギッシュ」な本当の自分を見失っているらしい。同書に挙げられた十七項目のテストを試してみると、私は明らかにそうだと判定された。一部を抜粋すると、

・他人の承認や確認を求めますか。
・自分の業績を認めるのが苦手ですか。
・批判を恐れますか。
・完璧を求める方ですか。
・自分を他から疎外する方ですか。
・他人や社会一般に利用されていると感じますか。
・自分自身の、あるいは他人が表示する感情をしばしば疑う方ですか。

 ひとつでも当てはまると「本当の自分」を生きていないらしいが、私は見事に十四項目も当てはまった。十七中十四。ほぼ間違いなくトラウマを持っている。もともと私は子供の頃から、生き生きしていない性格だったような気がするが、トラウマ研究の教科書とも言うべき『心的外傷と回復』(ジュディス・L・ハーマン著 みすず書房)にはこんな一節があった。

 外傷性記憶はことばを持だない凍りついた記憶である。

 トラウマ体験は「冷凍状態」で保存されており、意識の表面にはそのままの形で出てこないのである。ちなみに最近では、胎児期に親が夫婦喧嘩をするとバーストラウマという傷を負うという説まである。つまり私はトラウマがないのではなく、「自覚がない」可能性が高い。
(高橋秀美著「トラウマの国」新潮社 p7-13)

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「がんばったところで、ほとんど勝ち目はない」
 これが、「マジョリティ」=「十人並みの能力と十人並みの容姿と十人並みの家柄を持った人間」にとっての現実である。男であれ、女であれ。

 そのことを十分に自覚しつつ、「でも、生まれてきたからには、がんばれるだけがんばってみよう!」、それが、一昔前までの日本人の価値観だった。もちろん、その思いを実行することが公に許されていたのは男だけ、という現実はあったが。

 が、日本の社会が豊かになり、さらには、以前に比べれば男女が平等に扱われるようになるにつれて、私の世代までは一般的だった空気=「男のくせに、がんばらないなんて許されない」「女のくせに、がんばるなんて許されない」という空気が、いつしか希薄になっていった、と言える。

 すなわち、男であれ女であれ、「がんばらなくてもどうにかなる」⇒「がんばったってしょうがない」⇒「がんばらないのがかっこいい」、これこそ、今の社会に漂う空気なのである。

 この空気は、言い換えれば、がんばっている人たちのことを、「またまた、もう、勘違いしちやって(笑)」とおとしめ、笑いものにすることをよしとする、という空気のことでもある。実にいやな話だが、これが現実なのだ。では、がんばっている人たちのことをおとしめ、笑いものにする、彼らの心情とは、はたしてなんなのだろうか。

 そんな「近ごろの若いもん」の心情とは、要は、「がんばれば、もしかしたら『勝ち組(という表現は、いやなものだけれど、このニュアンスを伝えるために適当な語句が他に見当たらないため、使うこととする)』になれるかもしれないから、最後まであきらめずに努力を続けている、そんな人の生きざまをおとしめることで、『自分自身』=『もしも一生懸命にがんばったとしても、到底「勝ち組」にはなれそうにない、けれど、そのことを自覚したくもない、だから、最初から努力すること自体を放棄している』の生きざまを正当化しようとしている」、ということのように私には思えるのである。

新しい年を迎え、新しい計画を立てる。新しい希望を持ち、せめて、その半分ほどは達成する。これが人間という生きものの〈努力〉というものだ。
(池波正太郎『池波正太郎の春夏秋冬』文巻文庫)

 池波のこの一文に素直に頷いてしまう私は、「上手だね」「頭がいいね」と言われるよりも、一生懸命だね」と言われるほうがうれしい気質の人間であるのだが(「きれいだね」と言われたら多分嬉しいだろうと思うが、言われたことがないからわからない)、しかし今の日本
では、私のような人間はどうも少数派のようなのだ。その証拠の一つが、次に挙げる広告コピーである。

「どれぐらいがんばれば合格できるのかがわかったら、もっとがんばれるのに」(=「合格できるかどうかわからないのに、がんばったってしょうがないじやん?」)()内筆者

 二〇〇二年の春、電車内等に張り出されていた某予備校のこの広告コピーを見るたびに、むかついてたまらなかった私なのだが、しかし、「なぜ私はこのコピーを見るとむかつくのか」を、説明するための苦労、そして、結局は理解してはもらえないであろうという予感、それらを思うと、自分の無力さをひしひしと感じてしまうのだ。いや、たとえ徒労に終わろうとも、といった意気込みを持って、これらの思いを「近ごろの若いもん」にぶつけてみたところで、前項で述べたように、「自分を叱咤する人」=「自分を非難する人」=「自分に敵意を持っている人」=「敵」=「関わり合いになりたくない人」扱いされて、結局は聞く耳を持ってもらえないであろうと予想されるのである。
(荷宮和子著「若者はなぜ怒らなくなったのか」中公新書ラクレ p69-71)

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厭やだ

 考えてみると、一葉の作品の中には、「いやだ」という言葉がたくさん出てくる。『たけくらべ』の美登利もいやだと言い、『にごりえ』のお力もいやだと言う。理由のない「いやだ」が、「わがまま」といわれるのは承知の上である。録之助もこう言う。「考へれば何も彼も悉皆(しっかい)厭やで、お客様を乗せやうが、空車の時だらうが、嫌やとなると用捨なく嫌やになりまする。呆れはてる我まま男、愛想が尽きるではありませぬか」と。

 一葉は「いやだ」という言葉に「嫌」という字と「厭」という字とをあてているが、日記も含めると圧倒的に「厭」が多い。厭世の厭である。「厭う恋」の「厭う」という字である。一葉は、恋の最上の恋は「厭う恋」だと言った。言葉を換えれば、「厭やだ!」という全身の叫びを生まないような恋は、自分にとって恋ではない、ということなのではないか。もう少し敷衍(ふえん)すれば、一葉にとっての生とは、「厭やだ!」という叫びそのものなのではなかったか。

 これは、女が不自由な境遇だったから、という意味ではない。録之助が男であるように、人間なら誰でもがもっている叫びだ。そしてその叫びから、自分を見ている。自分の位置をはかり、自分の輪郭を確かめる。厭やだ、という叫びが放蕩となり、布団屋の源七も、たばこ屋の録之助も、山村の石之助も、身を滅ぼしてゆく。

滅びながら、自分を作っている。滅びながら、自分を見つめている。落ちながら、生きている。

一葉の書く女主人公たちはそのようなあり方にこそ、心を重ね合わせることができた。一葉自身が、落ちながら生きているからである。男と女のあいだを、歌詠みと物書きのあいだを、孝と厭世のあいだを、何もかも一貫性なく、何もかも申途半端に、それらのあいだを落ちながら、生きながら言葉を紡いでいるからである。一葉は、社会のどこにも、居場所のない人間だった。

 放蕩は体力がないとできないから実際には難しかろうが、私は、もし一葉が長生きしたら、妹が嫁に行き母親が亡くなったとたん、女性の無頼作家になったと思う。末は小町になり乞食になって、という言説は気取りではない。一葉は金と出世を狙うキャリアウーマンではないのだ。

新しい時代の、新しい富、出世、結婚、の底の薄さを見てしまった一葉は、たとえ作家として世間的に成功したとしても、『大つごもり』の石之助のように、それを落ちつづけている人たちと分け合ったであろう。世間的な成功が続かなかったとしても、平然と乞食をしながら歌を詠み、無頼となって過激な小説を書いたであろう。その姿を想像すると、私の中に、新しい卒都婆(そとば)小町が現れ出る。

 襤褸(ぼろ)をまとい、もう何も遠慮することなく、他の誰のためでもなく、世間から解き放たれてふらふらと、わがままで、いやなものはいやと言い、花や月と戯れる一葉が見える。女の行く末は、出世であろうか? 女の行く末は、解放であろうか? 女の行く末は、社会参加であろうか? そのどれもあってよいが、やはり女の行く末は落ちることである、と言い放って、一葉が大笑いしている。
(田中優子著「樋口一葉「いやだ!」と云ふ」集英社新書 p194-196)

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◎「襤褸(ぼろ)をまとい、もう何も遠慮することなく、他の誰のためでもなく、世間から解き放たれてふらふらと、わがままで、いやなものはいやと言い、花や月と戯れる一葉が見える。」