学習通信050401
◎(資本主義社会で)働くとは……。

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働くことの意味

 人間はなぜ働くのだろうか。働かなければ,生活のために必要な収入を得られない。生活のために働くというのは,一つの答えであろう。それは,人間の自立の条件である。だが,何もしなくても生活していけるなら,人間は働かなくてよいのだろうか,働かなくなるのだろうか。毎日遊んで暮らすのは,たしかに気楽に見えるかもしれない。しかし,多くの人間はそのような生き方に耐えられるだろうか。

 人間は,社会の中で相互に依存し合って生活している。それぞれが他の人の仕事を必要とし,また自分の仕事によって他の人を支えている。それによって人と人との社会的なつながりができている。職業につくことは,そのような社会的なつながりの中に加わることを意味している。いいかえると,職業をもつということは,働くことをとおして特定の社会的役割を引き受けることである。社会的な存在である人間は,それぞれが社会的役割を果たすことをしなければ,社会の中での自分の存在意義を確認することがむずかしくなるであろう。社会において,真に自立していくこともむずかしくなるに違いない。

 職業には責任がともなう。責任を果たしていくには,ときには苦労や忍耐も必要になる。しかし,自己の能力を発揮して責任を果たし,他の人々や集団に対して貢献することができれば,自分自身にとっても大きな喜びとなる。仕事は,人が生きていく上で,このような充実感を与えてくれる。これは,金銭的収入をともなう職業についてだけでなく,仕事全般にあてはまることである。人間が働くのは,たんに生活するためだけでなく,充実した人生を送るためといえるのではないだろうか。
(「市販本 新しい公民教科書」扶桑社 p184)

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もっと人間らしく働きたい

 高卒一九歳の証券に働く女性はつぎのように語る。

「自分にとって働くとは、いまの状態のなかにいるかぎり、ねたみ、ぐちばかり言う心のせまい人間になっていくことのようです。また、数字ばかりに追われ、残業で帰宅するとあとは、急いで寝るだけ、なんのために生きてるのかなぁーと疑問を感じる毎日です。
 こんな仕事もうやめたらいいんだ。結婚を理由に早くやめ、いやな仕事から逃げるつもりでいます。
 しかし仕事にもっと生きがいを感じてたら、多分、こんな卑怯な考え方はしないだろうにと思うのです。
 男の人は、そんな甘えもきかないし、黙々とがんばってる姿を見るとすごいと思うと同時に、なんか背中に哀愁がただよってるみたいでかわいそうだなぁーと思います。

 各種のセールスは、年々激化の一途をたどり、多くのセールスマンの身体と人格を破壊し、自殺と犯罪に追いやった。被害は労働者だけではない。豊田商事のように消費者、顧客にも人生を狂わすほどの災厄をもたらした。

 子どもたちには、人間の成長発達にとって有害としか思えないような、食品、おもちゃ、はては学用品にいたるまでが、つくられセールスされ、音楽のような美しい世界にまで、次つぎとモデルチェンジされた楽器をノルマで売り込むという悲しいことがおこりり心あるミュージシャンを悩ませている。

 ローン・クレジットの利用で「買えない」人にも売り込み「借金地獄」に追いこむ。
 教育、医療、福祉などの大切な部門がいま公的(といっても決して十分ではなかったが)なものから民間へ移されようとしている。こんな部分で利潤が追求されたらたまらない。

 無権利な職場で労働者が酷使される。それぞれの部門で尊い教育の心、医療の心、福祉の心をもって働こうとする労働者の誠意は打ちくだかれ、利用者へのサービスは低下し、金のないものはよりつくこともできない非人間的な施設となっていくだろう。

 幾百千万の働く人びとは、生きていくためにはこの「利潤の追求」という至上命令のなかで働く以外にない。
 そしてそのなかで能力をかぎりなく高めながら、しかも破壊されていく。

 「こんなはずではない。もっと人間らしく働きたい」という熱い想いを、抑えても抑えても、なおつよく燃やしつづけながら……。
 労働者に、明日はあるのだろうか。
 労働組合はどうなったのだろうか。
 うばわれた「働く喜び」をとりもどす展望をつぎにたどってみよう。
(中田進著「働くこと生きること」学習の友社 p89-91)

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 こんどはもっとくわしく労働者の対象化、生産と、そのなかでの対象、つまり彼の産物の疎外、喪失を観察してみよう。

 労働者は自然なしには、感性的外界なしには、何ものをも創り出すことはできない。自然、感性的外界が素材となり、そこのところで彼の労働は実現し、そのなかで彼の労働はおこなわれ、それから、そしてそれを介して、彼の労働は生産をおこなうのである。

 ところで、対象があって、その対象のところで労働はおこなわれるのである以上、対象なしには労働は生きることができない。この意味において労働の生きる手段は自然によって提供されるように、他面また狭義における生きる手段、すなわち労働者自身の身体的生存の手段もまた自然によって提供される。

 したがって労働者が外界、感性的自然を彼の労働によって我がものにしていけばいくほど、それだけ彼は二重の面において生きる手段から遠ざかる。すなわち第一には、ますます感性的外界は彼の労働に属する対象、彼の労働の生きる手段ではなくなっていくということ、第二に、その感性的外界は直接的な意味での生きる手段、労働者の身体的生存のための手段ではますますなくなっていくということ、この両面においてである。

 それゆえにこの二重の面において労働者は彼の対象の奴隷となる。すなわち第一には、彼は労働の対象──ということは、労働ということであるが、──を受け取るということ、そして第二には、彼は生存手段を受け取るということにおいてである。したがって第一には、彼は労働者として、そして第二には、身体的主体として存在することができるということにおいてである。この奴隷状態の極では、労働者はもはや労働者としてでしか我が身を身体的主体として保つ〔ことはでき〕ず、そしてもはや身体的主体としてでしか労働者ではない。

(労働者が彼の対象のなかで疎外されるというあり方が国民経済の諸法則でどのようにあらわれるかといえば、それは、労働者がより多く生産すればするほど、それだけますます彼には消費するものがなくなっていくということ、彼がより多く価値を創り出せば出すほど、それだけますます彼は無価値な、品位のないものになっていくということ、彼の産物が形のよいものになればなるほど、労働者はぶざまなものになっていくということ、彼の対象が文化的なものになればなるほど、労働者は野蛮なものになっていくということ、労働が強力になればなるほど、それだけ労働者は無力になっていくということ、労働が精神のゆたかなものになればなるほど、労働者は精神の抜けた、自然の奴隷になっていくということである。)

 国民経済学は労働者(労働)と生産との直接の間柄を見ないことによって、労働の本質のうちにある疎外を隠す。

たしかにその通りなのであって、労働は富者のためにはすばらしいものを生産するが、労働者のためには窮乏を生産する。それは宮殿楼閣を生産するが、労働者のためには穴蔵を生産する。それは美を生産するが、労働者のためには奇形を生産する。

それは労働の代わりを機械にさせるが、しかし労働者たちの一部を野蛮な労働へ追い戻し、そしてその他の部分を機械にする。

それは精神を生産するが、しかし労働者のためには低能、白痴を生産する。
(マルクス著「哲学・経済学手稿」マルクス・エンゲルス8巻選集@ 大月書店 p72-73)

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◎「そしてそのなかで能力をかぎりなく高めながら、しかも破壊されていく」と。