学習通信041224
◎あれやこれやではなく……。
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今日の講義は、「科学的社会主義について」です。
昨年(二OOO年)十一月の第二十二回党大会で改定した日本共産党の規約は、第二条に、「党は、科学的社会主義を理論的な基礎とする」と規定しています。その科学的社会主義を勉強するのが、今日の主題なのですが、これは、私たちのものの見方・考え方、世界をどう見、どうとらえるか、その根本にかかわる問題です。ですから、今日の六時間はどの講義ですべてが分かるという、簡単な話ではありません。また、何冊かそれに関する本を読んだから分かった、と言えるものでもありません。
科学的社会主義のものの見方・考え方というものは、私たちの活動の基礎でもあり、いろいろなものごとを考える根本でもあるわけですから、それを本当の意味で身につけるには、不断の勉強が必要です。その勉強には、本を読むこともあれば、実際の活動もあり、その活動を分析し、考えをめぐらすこともある。はっきり言えば、自分の生涯にわたって勉強を積みあげてゆくもの、きたえてゆくものだ、そういうつもりで取り組んでほしい、と思います。
ですから、今日の限られた時間での私の講義は、そういうこれからの勉強のための入門的なものだと言ってよいでしょう。科学的社会主義の本についても、みなさんがこれまでに読んでいるものは、それぞれ違いがあると思いますが、これから勉強をすすめてゆくうえで、科学的社会主義の理論の要はどこにあるのか、そこをつかんでおけば、これからの勉強に必ず役に立つだろうと思われる、いちばんさわりのところを話してゆくつもりですから、そのつもりで聞いてください。
(不破哲三著「科学的社会主義を学ぶ」新日本出版社 p11-12)
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一冊だけ読むことが、読まない工夫の第一歩
「汗牛充棟」とむかしの人は言いました。牛に積めば牛が汗をかき、家に入れれば棟にとどくほどの本を集める人はいるでしょう。しかし、それほどたくさんの本を読む人は少ないでしょう。蔵書家はかならずしも多読家ではありません。また、はやく読もうと、おそく読もうと、どうせ小さな図書館の千分の一を読むことさえ容易ではない。したがって、「本を読まない法」は「本を読む法」よりは、はるかに大切かもしれません。
もっとも、ここに百冊の本があるとして、そのなかの九十九冊を読まないですませるということは、つまり、一冊を読もうと決めるのと同じことです。読む本の選択と読まない本の選択とは表裏の関係にある。目的を立てて、その目的のために本を読む、そのほかの本は読まないと決めるのも、本を読まない工夫の第一歩であり、基本であるわけでしょう。
たとえば、どういう題目についても、その題目についての知識を要約している基本的な本を一冊読み、そのほかの本を読まない、ということが考えられます。入学試験の準備のことを考えてみても、いわゆる参考書の類をたくさん読んだ学生が、かならずしも試験に通るわけではありません。むしろ教科書をよく読み、なにか一冊の参考書を選んで、その本をよく理解し、記憶した学生のほうが、世に行なわれているたくさんの参考書をあれこれと読みあさった学生よりも、かえって成績がよろしいということは、よくあることです。
入学試験にかぎらず、どういう水準でのどういう題目についても、およそ同じようなことがいえるのではないでしょうか。ものごとに即して知識の根本をとらえ、枝葉末節は忘れて暮らすとでもいいましょうか、その場にのぞんで適当に補ってゆく。他人の意見に右顧左眄(うこさべん)しないというゆき方です。もちろん、いっさい本を読まなくては、ある程度以上の知的な生活を営むことはできません。しかし、そうたくさんの本を読まなくても、仕事をりっぱに処理し、人生をりっぱに生きてゆくことはできるでしょう。
(加藤周一著「読書術」岩波現代文庫 p98-99)
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「私たちのものの見方・考え方、世界をどう見、どうとらえるか、その根本にかかわる問題」
「ものごとに即して知識の根本をとらえ、枝葉末節は忘れて暮らす」と。
その時にこそ先人の知恵が必要です。努力を怠りそれを正当化するための材料にしてはなりません。どんな本を選択するかで決まりです。