学習通信041220
◎「諸現象の法則を発見することである」……。
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なぜ古典の学習を重視するか
結論的な命題だけでなく、精神・方法の真髄をつかむ
わが党は、以前から、科学的社会主義の理論を学習するうえで、古典と呼ばれるマルクス、エンゲルス、レーニンの著作の学習を非常に大切にしてきました。きょうは、なぜこの古典を重視するか、ということを、まず最初に考えたいと思います。
哲学についても、経済学についても、あるいは社会主義論にしても、いろいろな手引き書や入門書、いわば教科書的な書物は数多くあります。そういう本は、弁証法とはなにかとか、経済学の基本にはどんな命題があるかなどを、大づかみに勉強しようというときには、問題が要領よくつかめるし、なかなか便利なものです。ただ、科学的社会主義の理論を手引き書で勉強するのと、古典で勉強することとのあいだには、たいへん大きな違いがあります。
どこに違いがあるのか。
第一の問題として、理論のいろいろな分野で、科学的社会主義の重要な命題がありますが、それをできあがった結論としてだけつかむのではなく、どうしてこの結論がひきだされたのか、どうしてそこにいたったのかという方法、あるいはそこに流れている精神をあわせてつかめるところに、古典の学習の値打ちがある──このことを、私はまず指摘したいと思います。
マルクスにしても、エンゲルスにしても、生まれたときから、自分の頭のなかに、科学的社会主義の理論の体系を入れていたわけではありません。たとえば、マルクス、エンゲルスが、史的唯物論の立場をまとまった形でほぼつくりあげたのは、一八四〇年代の前半、二人が二十歳台なかばの青年時代でした。しかし、その理論も、その時点ですべてが完成していたわけではありません。二人とも、史的唯物論を仕上げ、充実させ、豊かにしてゆく仕事を、その生涯の最後までつづけました。唯物論の哲学や弁証法についても、経済学についても、社会主義や階級闘争の理論についても、そういう努力が最後までつづけられました。
ですから、マルクス、エンゲルスが書いたものは、どんな著作でも、できあがった体系を読者に説明するという、いわゆる教科書ではないのです。著作には、いろいろな性格のものがありますが、そのどれも、ときには探究し、ときには論戦しながら、科学的社会主義の理論を生きた形で発展させ、仕上げ、展開している文献です。ですから、そこにはおのずから、天才的な思想家たちの生きた思考があり、真理にせまってゆく理論の発展の生きた姿があります。
この生きた思考、その発展の生きた姿の真髄をつかむことが、重要です。私たちは、マルクスやエンゲルスから一世紀以上も離れたあとの時代に生きて、彼らが訪れたこともない日本列島で活動していますが、この真髄をつかめば、現代をとらえ、将来を展望する理論的な指針を得ることができます。レーニンは、マルクス、エンゲルスよりは時代が近いわけですが、基本的には同じことです。
古典を学ぶ大事な点の一つは、そこにあるのです。教科書的な書物は、マルクス、エンゲルス、レーニンが明らかにした命題をきちんと整理してしめしてくれるという点ではわかりやすいところがあります。しかし、その精神をつかむうえでは、やはり足りないのです。古典の学習には、なかなか難しいところがありますが、やはり多くの人が古典にじかにぶつかって、結論的な命題だけでなく、そこにいたる精神やその議論をつらぬいている方法をつかむ努力をしてほしい、と思います。
(不破哲三著「古典学習のすすめ」新日本出版社 p10-12)
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それは無理もない。学校教育というものが与え得るもっともよいことは、そのひとが一生自分で勉強をつづけてゆけるために必要な勉学というものの「方法」を身につけさせるという点になければならないのに、きょうでは先生たちさえも、まだそこに重点をおいていいのだという自信をもつていない。
(宮本百合子著「若き知性に」新日本出版社 p81)
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第一点について。マルクス主義の文献を読みながら、ミハイローフスキイ氏は、社会科学における「弁証法的思考」に絶えず突きあたり、社会的諸問題(ここで問題にしているのはこの分野だけであるが)の分野においてもまたまた「弁証法的思考」に突きあたっているのである、等々。あまりに純真すぎて(純真だけならまだいいのだが)、彼は、この方法がヘーゲルの三段階の法則によって社会学上のすべての諸問題を解決することができるとみなしたのである。
ほんの少しでもより注意深く彼が問題にたいすれば、彼はこの考えのばからしさに確信をもたないでいられなかったであろうに。
マルクスとエンゲルスが、形而上学的方法にたいして、弁証法的方法と名づけたものは、社会学における科学的方法にほかならず、それは、社会が生きた、絶えず発達しつつある有機体として(なにか機械的につなぎ合わされ、したがって、個々の社会的諸要素のあらゆる恣意的な組み合わせを許容するものとしてではなく)観察されていることにあり、その有機体の研究のためには、所与の社会構成体を形成している生産諸関係の客観的分折が必要であり、その社会構成体の機能と発展の諸法則を研究するべきである。
弁証法的方法の形而上学的方法(この概念のなかには、もちろん、社会学における主観主義的方法もはいってくるが)にたいする関係をわれわれは、のちに、ミハイローフスキイ氏の独自の見解を見本にして、例証しようと努めるであろう。いまは次のことだけ注意しておこう。
すなわち、エンゲルス(デューリングにたいする論争で、ロシア語で〔出版されてぃるの〕は『空想から科学への社会主義の発展』)なり、マルクス(『資本論』におけるさまざまな注やその第二版への「あとがき」、『哲学の貧困』)なりにある、弁証法的方法の規定や叙述を読んだことのある人なら誰でも、ヘーゲルの三段階法については問題にはされていないし、すべては、社会の進化を経済的社会構成体の発展の自然史的過程として見ようとすることに向けられていることに気づくであろう。この証明として私は、『ヴェースニク・エヴロープイ〔ヨーロッパ報知〕』の一八七二年第五号のなかでおこなわれている、弁証法的方法の記述(「カール・マルクスの経済学批判の見地」という論評)をin extenso〔全文〕引用しよう。
それを、マルクスは『資本論』第二版への「あとがき」のなかに引用している。そこでマルクスは、彼が『資本論』のなかでもちいた方法はよく理解されなかったと言っている。「ドイツの評論家たちが、それがヘーゲル流の脆弁だとわめきたてたことは、言うまでもない」。そこでマルクスは、自分の方法をより明確に叙述するために、前記の論評のなかにあるこの方法の叙述を引用している。
そこには次のように述べられている。マルクスにとって重要なのはただ一つ、彼が研究している諸現象の法則を発見することである。そのさい彼にとってとくに重要なのは、これらの現象の変化、発展の法則、つまりその諸現象のある形態から他の形態への、ある社会諸関係の秩序から他の秩序への移行の法則である。したがって、マルクスの心することはただ一つ、所与の社会関係の諸秩序から次の社会関係秩序への必然性を正確な科学的研究によって示すこと、彼にとって出発点として、支点として役立つ諸事実をできる限りの完全さをもってその存在を確認することである。
この目的のためには、彼が、現在の体制の必然性を証明して、それとともにそこから成長してくるもう一つの体制の必然性をも証明すれば、完全に十分である。人々がそれを信じるか信じないかとか、彼らがそれを意識するか意識しないかという問題は、どちらでもいいことなのである。
マルクスは、社会の運動を自然史的過程として見ている。社会の運動は、人間の意志や意識や意図によらないばかりでなく、逆に人間の意志や意識や意図を規定している諸法則に従っているのである。(人間は自ら意識的な「諸目的」を立て、一定の理想によって導かれるというまさにその理由で、社会的進化を自然史的進化と区別しようとしている主観主義者諸氏の御参考までに。)もし意識的要素が文化史においてそれほど二次的な役割を演じているとするならば、まさにこの文化そのものを対象にしている批評は、意識のなんらかの形式あるいはなんらかの結果に依拠することはほとんど不可能であることは、おのずから明らかであろう。
言葉を換えて言えば、批評の出発点として役立ちうるのは、決して観念ではなく、ただ外的な客観的な現象だけである。批評は、与えられた事実を観念とではなく、他の事実と比較し、対照することのうちにあるべきである。批評にとって重要なのは、ただ、双方の事実ができるだけ正しく研究され、それらが、一方が他方にたいして、発展の違った契機であることであり、そのさい、一定の状態の連続全体、それらの一貫性および発展の別の段階のあいだの関連が、同じ正確さで研究されていることがとくに必要である。経済生活の諸法則は、過去にとっても、現在にとっても同じであるという思想をマルクスは否定している。
反対に、それぞれの歴史的時代はその固有の法則をもっているのである。経済生活は、生物学の他の諸分野の発展史と似たような現象を示している。以前の経済学者たちは、経済法則の本質を理解していなかったので、それらを物理学や化学の諸法則と比較したりしたのである。より深い分析は、もろもろの社会的有機体がそれぞれ、動物有機体と植物有機体とが違うように、互いに深く異なっていることを示している。
この観点から資本主義的経済組織を研究することを自らの課題として立てて、マルクスはまさにこのことによって、経済生活のあらゆる正確な研究が追究すべきである目的を厳密に科学的に定式づけているのである。
このような研究の科学的意義は、当該の社会的有機体の発生、存在、発展および死滅、そしてまたその有機体が別のより高度な有機体に交替することを規制している、特殊な(歴史的な)諸法則を解明することのうちにある。
(レーニン著「人民の友とはなにか」新日本出版社 p69-73)
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◎「できあがった結論としてだけつかむのではなく、どうしてこの結論がひきだされたのか、どうしてそこにいたったのかという方法、あるいはそこに流れている精神を」つかむこと。
◎「「方法」を身につけさせるという点になければならない」と。
◎「マルクスは、社会の運動を自然史的過程として見ている。社会の運動は、人間の意志や意識や意図によらないばかりでなく、逆に人間の意志や意識や意図を規定している諸法則に従っているのである」