学習通信041216
◎「人生にも「公式」がある」……と。
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ああ、マニュアル人間
十二月十四日──赤穂浪士四十七士の吉良邸討ち入りの日だ。
「忠臣蔵は日本人の心」と言われるだけあって、この事件を巡っては歌舞伎や演劇は勿論、映画やテレビ番組も昔から多くの種類ないし版がある。私自身が観ただけでも長谷川一夫が大石内蔵助を演じたものもあれば三船敏郎のものもあった。
昔の版と現代の版を比べて驚くことが幾つかあるが、その一つに、大石内蔵助がいよいよ赤穂城を明け渡し、「これが見納め」と城を振り返る場面の違いがある。昔の映画では、ここで大石は一言も発しない。万感の想いを胸に秘めて城壁を仰ぎ、静かに去っていく。ところが昨今の映画では、ここで「もう再び生きてこの城には戻れまい。これが見納めだ」などと台詞が入る。これでは大石の胸の内の万感≠ェ伝わらない。三文オペラになり下がっている。
しかし考えてみると、今の観客の多くは、ここで台詞を言わないと大石の気持が伝わらないのかもしれない。「察する」とか「以心伝心」とかいう言葉が流行らなくなった今日、何事もはっきり言い、はっきり書いておかないと人々は思いが至らない。言い換えれば、何事もマニュアルに書いておかないと実行されず、マニュアルに書いてある通り実行すればそれで良いと言う風潮が横行している。
音楽における間=A絵画の余白≠ヨ会話の中の沈黙>氛氓サれらは全て、「察する」文化、想像し気を配る文化の要素に他ならない。マニュアル人間になるよりも間≠大切にする真人間になりたいと言ったら、時代遅れと批判されるだろうか。
(日経新聞 夕刊041215)
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公式について
0.99999……はいくらか
「理論というものは、なんてすばらしいものなんだろう」と私は夢中になってしゃべっていた。その学習会のその日のテーマとは関係のない話だったが、口にださずにはおれなかった。
前の晩に、高校生用の数学の学習書を読んでいて、そのはじめのほうで一つの問題にぶつかったのだ。0.99999……はいくらか、というのが、その問題だった。
0.99999……と無限につづく数、それはイコール1であるのか、それとも限りなく1に近づいてはいくが、けっして1とイコールにはなりきらぬ数であるのか、という趣旨の問だというようにうけとれたが、さて、どちらが正解か。
私の常識は、あとのほうの味方をしたが、それならばわざわざ問うこともあるまい。あやしいなとは思ったが、私の頭はそこから先へ動かなかった。解答を見て、アッと思った。
解答は、上記のとおり。このように証明をつきつけられれば、0. 99999……と無限につづく数が完全に1であることをいやでも承認せざるをえない。
「常識」と理論とのあざやかな差を、そこに私は見たように感じた。
高校数学初学習
こんなことにいまさら感動するのは、私の頭のほうがよほど常識に欠けているのかもしれない。たぶん、そうなのだろうと思う。事実、べつの学習会でこの話をもちだしたら、即座に一人が正解を証明つきで答えたのだから。
ずいぶんまえから「数学は苦手」と思いこんできた。苦手なものはきらいになる。ものを読んでいても、数式がでてくると、自然にそこはとばして読み、そのためあとがつづかなくなって、そこで本を閉じてしまう。いつのまにか、そんなふうになってしまっていた。
これではいけないとは思っていた。私にしても、はじめから数学がきらいだったわけではない、と思う。それがきらいになったのは、一つは戦争のおかげで、私の中学時代の後半は、もうまともな授業はなく、「有事立法」による学徒動員で、私たちは軍需工場に徴用され、タガネ打ちからはじめて、フライス盤、旋盤、研磨機などと格闘させられていた。
そんななかで数学とはおさらばをきめこみ、というよりはきめこまされ、去るものは日々にうとしということになっていったような気がする。
いや、それだけではなく、あの戦時中にはそもそも科学的精神というものがどこかへ吹きとばされてしまっていた。その後遺症がいまだに残っている。これをそのままにしておいてはいけない。──というわけで、せめて数学のイロハだけでも勉強しなおそうと思っていた。
たまたま旧知の武藤徹さんの『システム学習・高校数学の基礎』上下(三省堂)に本屋でめぐりあって、買ってきて読みはじめた。すばらしくおもしろかった。
哲学の本以上に哲学的だという感想をもったし、政治や社会、思想史からの豊富な引例も、目のさめるようなあざやかさだった。旧制中学の中途どまりの私の数学の頭には、それでもあちこちで息切れし、あちこちにツバをつけたまま食いあぐねてため息をついているという情けなさだったが、それでいてじつにおもしろく、座右をはなせないでいるというのは、この本がたいへんな傑作である証拠だと思う。三省堂にはなんの義理もないが、この機会にこの本を宣伝しておきたい、という誘惑をおさえることができない。
それにしても、もう少し手ごろなものはないかと気をつけていて、おなじ武藤さんの『基礎からの学習・高校生の数学』(やはり三省堂)にぶつかった。あの問題は、そのはじめのほうに「なぞなぞ」として出ていたものだった。
この問題とその解を知っただけでも、高校数学再学習(正確には初学習!)の意義は私にとってじゅうぶんにあったと思う……。
定石、定跡、公式
話はとぶようだが、考えてみれば、私が「数学ぎらい」になっていった原因の一つには、公式をつかうことへのいわれのない軽蔑があったと思う。
公式をまる暗記して、それを適当につかって問題を解く、それでは真に根本から自分の頭で考えていることにならないではないか、といった考えかたがたしかに私にはあった。
なぜ公式をただしいものとしてつかえるのか、それを自分の頭でつねにたしかめながらつかってこそ、「自分の頭で問題を解いている」ことになるだろう。とすれば、公式なんておぼえる必要はない。毎度、根本から自分の頭で考えればいいのだから。──なにか、そんなふうな気もちがあった。
この考えがまるきりのナンセンスだとは思わない。なんのための法律かということを問うことなく、ただ六法全書と判例だけを形式的に操作して自動的に判決をだして満足している、そんなやりかたに反対、という意味では、積極的な要素もあったと思う。
が、じっさいには、このようにして毎度「根本から自分の頭で考え」る結果は、一つ一つの問題を解くのがとほうもなく繁雑で時間のかかることになった。そして、それに自己満足しておれたのはしばらくのあいだだけで、じきにいやになることはさけられなかった。そして──やがて複雑な問題を解く能力を事実上、自分が喪失してしまうことになってしまった!
私は碁も将棋も知らない。しかし、その私にも、碁における定石、将棋における定跡を馬鹿にする人に、碁や将棋が満足にできっこないだろうということくらいは見当がつく。
科学的精神と「公式主義」
戸坂潤は、およそ文学青年とは対照的なタイプの人だったようだ。だが、その戸坂を本質において文学青年だと評した人がいたそうだ。その人は大宅壮一だったそうだが、たしかにそういう気味が少しはもとあった、と戸坂自身が書いている。その文章(「人われを公式主義者と呼ぶ」一九三七年)は、公式をつかうことをせず、「根本」から問題を解こうとして、黒板のまえに長時間立ちつくした高校時代の思い出から書きだされていた。
そのとき、先生はいったそうだ──「数学には、わかりきったことをわざわざいっぺんいっぺんくりかえすのをさけるために、公式というものがある。君はその公式そのものから論証しようとするから無駄な時間がかかるのだ。公式くらいはおぼえておかなくてはいけない」と。
そのときは不服だったが、しかしそれによって「こういうやりかたが科学的なのだなと、私ははじめて気がついた」と戸坂は書いている。そのとき「私は科学的精神というものをじつははじめて知った」とも書き、「私はこの時以来、公式主義者(?)となった」とも書いている。
もちろん、ここにいう「公式主義」とは、「原則にとらわれすぎて、その場その場の適応を考えないやりかた」と『岩波国語辞典』にあるような意味でのそれではない。「公式をいろいろ証明するだけの時間で、公式をつかってもっと先の問題を解くほうがまじめなのだ」(戸坂)という姿勢のことだ。
過去の人類の遺産は、人類がその上に立ってさらに大きな前進をなしとげるためにこそある。「公式」は、そういう遺産だ。それをふまえないということは、人類の進歩を拒否するにひとしい。人類の進歩のテンポは「公式」が常識化される度合に比例するのではなかろうか。
政治にも「公式」がある。たとえば「有事立法」という場合の「有事」とは、つまり「戦時」であり、それは具体的な戦争計画を必ずともなっている、というのは、歴史的な検証をへた「公式」の一つだろう。この「公式」の「常識化」をいそがねばならない。それを国民的な規模でふまえて、国民的な規模で「もっと先の問題を解く」ために。
人生にも「公式」がある。それをつかって「もっと先の問題を解く」ことができるように、「人生の公式」を身につけることが必要だろう。
もちろん、公式を知っただけでは、数学の問題だって解けない。公式の適用のしかたをこころえなければならない。それは、公式以前のいわば「超公理」のようなものだ。
(高田求著「新人生論ノート」新日本出版社 p201-207)
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◎「公式以前のいわば「超公理」のようなもの」……とは。