学習通信041213
◎「貧乏人も金持ちもその幸福には」……。
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はじめに
世の中に、『幸福論』と題された本は山ほどある。それだけ世間は幸福を論じた書物を必要としているのだろう。
需要がそれなりにあるのは間違いなかろうが、執筆する立場においては、『幸福論』はつい論じてみたくなるテーマなのかもしれない。人間、歳を経るといつの間にか説教がましくなるのと同じように。
そもそも幸福になる方法を一冊の本に書き記せる筈がない。少なくとも不老長寿や金儲けや悲願の叶う方法が書いてあるなんてことは、ファンタジーの世界以外にはあり得ない。そうなると必然的に、話は心の持ちようといったことにシフトしてくる。幸福とは何か? そういった定義から説き起こして、金があれば幸せであるとか、学歴や容姿によって幸福がもたらされるとは限らない、真の幸福は気の持ちようにある、嫉妬や被害者意識を捨て感謝の気持で毎日を過ごせ、といった類の教訓に落ち着くのが相場である。
なるほどそれは正論である。だが、きわめて難しい。熟心な宗教信者であってすら実践は難しそうである、わたしが観察した限りでは。
清貧とか「つましく」とか身の程を知る、といったトーンにはいまひとつ違和感がある。まっとうな意見だけれど面白くない。どこか無理がある、不自然である。したがって、その線に寄り添った『幸福論』は論外としたい。
本書の第1章を書くにあたって、わたしは自分が体験した幸福感(あるいはそれに近いもの、ないしは断片のようなもの)を思い起こして一ダースほど並べてみた。意外なことに、さして努力することなくすらすらと十二のエピソードが出てきたのである。何だ、オレは幸せ者じやないか。自分ではむしろ不幸に近いと思っていたのに。
それこそどんな事象を幸福と見なすかによって話は違ってくるわけだが、自分はそこそこに幸福なのかもしれない。
だが考えてみるに、わたしが切実に求めていたのは何かというと、むしろ「ああ、これで救われた……」「ひゃあ、助かった!」といった安堵の気分だったのである。目前の面倒なノルマや困り事が解決したり何とか納まったときの「ほっとした」気分。安堵がもたらされたときの刹那的解放感こそを、どうやら幸福と取り違えていた気がするのである。そして安堵感を覚えるためには、苦境に立たされ、たっぷりと億劫(おっくう)さや困惑を味わわねばならない。それが前提となるだろう。
生まれて以来百パーセント幸福な人間は、己が幸福であることをしみじみ味わうことなどない、といった理屈が成り立つかもしれない。不幸だからこそ幸福といった概念が成立する。なるほどその通りかもしれない。だがそういった言葉遊びのような論は何ももたらさない。
実際のところ、ささやかな感動を覚えたり感心したり驚いたりノスタルジーに駆られたり高揚したり──そのような心のさざ波の寄せてくる静かな浜辺のような生活は可能なのである。おそらくその浜辺を幸福と名づけても差し支えあるまい。
ときには困り果て、安堵を求めて右往左往することもあるだろう。悩みや絶望に煩悶することもあるだろう。だがそんなことは誰の身にも起きる当たり前のことである。
童貞や処女に向かって色即是空などと説く者は愚かである。それなりの体験を重ねなければ分からないことは多い。しかし馬鹿げたことをしていようと、零落していようと、ある種の精神的なみずみずしさを保っておくことは必要である。そうでなければ、もしも救いのない人生が救われたとしても、安堵をしみじみと噛みしめることすら出来まい。
まるごとの幸福、なにから何まで幸福といった状態は幻想である。そんなものはない。幸福は常に断片として立ち現れる。砂漠の表面へわずかに頭を出していた三角形の岩が、本当は砂に埋もれたピラミッドの頂点であるかのように。
一攫千金だとか、責任回避と同義語としての安堵感しか求めないような鈍感な者の貧困な想像力においては、ダイヤモンドは常にブリリアントカットにされた状態で地中から発掘されると信じられているのである。
日常世界のデイテールを楽しめ。とるに足らぬことと無価値であることとは違う。奇想を愛で、事物と和解せよ。肯定的であることと脳天気なハッピー思考とは異なる。そうした視点に立って、わたしは幸福と不幸とについて考えを巡らせてみたい。この小さな書物が、なんらかの有益なヒントを読者諸氏へ提供出来れば嬉しい。
(春日武彦著「幸福論」講談社現代新書 p3-6)
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三の一
故啄木氏は
はたらけど
はたらけどなおわが生活楽にならざり
じっと手を見る
と歌ったが、今日の文明国にかくのごとき一生を終わる者のいかに多きかは、以上数回にわたって私のすでに略述したところである、今私はこれをもってこの二十世紀における社会の大病だと信ずる。しかしてそのしかるゆえんを論証するは、以下さらに数回にわたるべき私の仕事である。
貧乏がふしあわせだという事は、ほとんど説明の必要もあるまいと考えらるるが、不思議にも古来学者の間には、貧乏人も金持ちもその幸福にはさしたる相違の無いものであるという説が行なわれておる。大多数の諸君の知らるるごとく、アダム・スミスは近世経済学の開祖とも称さるべき人であるが、氏が今より百五十余年前(一七五九年)に公にした『道徳感情論』を見ると、氏は次のごとく述べている。
「……肉体の安易と精神の平和という点においては、種々の階級の人々がほとんど同じ平準にあるもので、たとえば大道のそばでひなたぼこをなしつつある乞食のもっている安心は、もろもろの王様の欲してなお得るあたわざるところである」
ただ今嵯峨におらるる間宮英宗師は禅僧中まれに見る能弁の人であるが、その講話集の中には次のごとき話が載せてある。前に掲げたるアダム・スミスの一句の注脚とも見なすべきものゆえ、これをそのまま左に借用する。
「昔五条の大橋の下に親子暮らしの乞食が住んでいました。もとは相応地位もあり財産もあった立派な身分の者でありましたが、おやじが放蕩無頼に身を持ちくずしたため、とうとう乞食とまで成り果てて今に住まうに家もなく、五条の橋の下でもらい集めた飯の残りや大根のしっぽを食べて親子の者が暮らしていたのであります。ところがちょうどある年の暮れ大みそかの事、その橋の上を大小さして一人の立派なお侍が通りかかった。
するとそこへまた向こうの方から一人の番頭ふうの男がやって参りまして、出会いがしらに『イヤこれは旦那よい所でお目にかかりました』と言うと、そのお侍は何がよい所であろうか飛んだ所で出くわしたものだと心の内では思いながらもいたしかたがない、たちまち橋の欄干に両手をついて『番頭殿実もって申しわけがない、きょうというきょうこそはと思っていたのだけれども、つい意外な失敗から算当が狂ってはなはだ済まぬけれども、もう一個月ばかりぜひ待ってほしい』と言うのを、番頭はうるさいとばかりに『イヤそのお言いわけはたびたび承ってござる、いつもいつも勝手な御弁解もはやことしで五年にも相成りまする、きょうというきょうはぜひ御勘定を願わなければ、そもそも手前の店が立ち行きませぬ』と威丈高になって迫りますと『イヤお前の言うところは全く無理ではないが、しかし武士ともあるものがこのとおり両手を突いてひらにあやまっているではないか、済まぬわけだが今しばらくぜひ猶予してもらいたい』としきりにわび入る。
これを橋の下で聞いていた乞食のせがれが、さてさてお侍だなんて平生大道狭しと威張っていくさるくせに商人ふぜいの者に両手をついてまであやまるとはなんとした情けない話であろう、いくら偉そうに威張っていたところで債鬼に責められてはあんなつらい思いもせなければならぬとすればつまらない、それを思うとわれわれの境界は実に結構なものだ、借金取りがやって来るでもなければ、泥棒のつける心配もない、風が吹こうが雨が降ろうが屋根が漏る心配も壁がこわれる心配もない、飢えては一わんの麦飯に舌鼓をうち、渇しては一杯の泥水にも甘露の思いをなす、いわゆる
一鉢千家飯 孤身送幾秋
冬温路傍草 夏涼橋下流
非色又非空 無楽復無憂
若人間此六 明月浮水中
で、思えば自分らほどのんきな結構なものは世間にないとひとり言を言うて妙に達観していると、せがれのそばで半ば居眠りをしていた親乞食がせがれがかように申しますのを聞いて、むっくと起き直り『これせがれ、そんな果報な安楽の身にいったいお前はだれにしてもろうたのか親様の御恩を忘れてはならんぞ』と言うたというお話がござります」
「はたらけどはたらけどなおわが生活楽にならざり、じっと手を見る」という連中が、この講話を聞いてはたして自分らほど果報な者は世にないと思うに至るであろうか、どうか。たとい彼ら自身はそう思うにしても、われわれははたして彼らを目して世に果報な人々とすべきであるか、どうか。それが私の問題とするところである。 (九月十九日)
三の二
五条河原の乞食の話は、話ぶりがあまり巧みなので、ついそのまま転載さしてもらう気になったが、もし私の記憶が間違っていなければ、かの大燈国師のごときも同じく五条の橋の下でしばらく乞食を相手に修養をしておられたので、その時の作になる
座禅せば四条五条の橋の上
ゆき来の人を深山木と見て
という歌は有名なものだということであるが、さてここに注意しなければならぬのは、大燈国師のような偉い人ならばこそ、乞食のまねをしていてもよいけれども、われわれごとき凡夫だと、孟子のいわゆる民のごときは恒産なくんば因って恒心なしで、心も魂も堕落こそすれ、とても明徳を明らかにするちょう人生の目的を実現する方向に進めるわけのものではない、ということである。
そこで同じ貧乏を論ずるにつけても、自発的の貧乏すなわち自ら選択して進んで取った貧乏と、強制的の貧乏すなわちやむを得ず強制的に受けさせられている貧乏との区別を充分にしてかからねばならぬ。そうして私のここに論ずるところは、もちろんやむを得ず強制的に受けさせられている貧乏のことである。
叙してここにきたる時、私はハンター氏の『貧乏』の巻首にある次の一節を思い起こさざるを得ない。
「私は近ごろウィリアム・デーン・ホゥエルスに会うてトルストイを訪問したことを話したら、
氏は次のごとく述べられた。『トルストイのした事は実に驚くべきものである。それ以上をなせというは無理である。最も高貴なる祖先を有する一貴族としては、遊んでいて食わしてもらうことを拒絶し、自分の手で働いて行くことに努力し、つい近ごろまでは奴隷の階級に属していた百姓らとできうる限りその艱難(かんなん)辛苦を分かって行こうとした事が、彼のなしあとうべき最大の事業である。しかし彼が百姓らとともにその貧乏を分かつという事は、これは彼にとって到底不可能である。何ゆえというに、貧乏とはただ物の不足をのみ意味するのではない、欠乏の恐怖と憂懼(ゆうく)、それがすなわち貧乏であるが、かかる恐怖はトルストイの到底知るを得ざると ころだからである。』……」
げに露国の一貴族としてその名を世界にはせしトルストイにとっては、自発的貧乏のほか味わうべき貧乏はあり得なかったのである。
遠くさかのぼれば、昔慧可大師(えかだいし)は半臂(はんぴ)を断って法を求め、雲門和尚はまた半脚を折って悟に入った。今かかる達人の見地よりせば、いわゆる道のためには喪身失命(そうしんしつみょう)を辞せずで、手足なお断つべし、いわんやこの肉体を養うための衣食のごとき、場合によってはほとんど問題にもならぬのである。
しかしかくのごときは千古の達人が深く自ら求むるところあって、自ら選択して飛び込んだ特種の境界である。もしわれわれ凡夫がへたに悟ってしいて大燈国師のまねをして、相率いて乞食になったり、慧可・雲門にならって皆が臂(ひじ)を切ったり脚を折ったりした日には、国はたちまちにして滅びてしまうであろう。
思うに貧乏の人の身心に及ぼす影響については、古来いろいろの誤解がある。たとえば艱難なんじを玉にすとか、富める人の天国に行くは駱駝(らくだ)の針の穴を通るより獣しとかいうことなどあるがために、ややもすれば人は貧乏の方がかえって利益だというふうに考えらるる傾きがある。古い日本の書物にも「金持ちほど難儀な苦の多きものはない、一物有れば一累を増すというて、百晶持った者より二百晶持ったものは苦の数が多い」など言うてあるが、現に一昨昨年(一九一三年)にはスイス国でいちばん金持ちであった夫婦者が、つくづくなんの生きがいもない世の中と感じたというので、二人がいっしょに自殺を遂げたこともある。
だから人間というものは心の持ちよう一つで、場合によっては大小さして威張っている侍よりも、橋の下に眠っている乞食の方がかえって幸福だ、というような説も出るのであるが、私だって金持ちになるほど幸福なものだと一概に言うのでは決してない。しかし過分に富裕なのがふしあわせだからといって、過分に貧乏なのがしあわせだとは言えぬ。
繰り返して言うが、私のこの物語に貧乏というのは、身心の健全なる発達を維持するに必要な物資さえ得あたわぬことなのだから、少なくとも私の言うごとき意味の貧乏なるものは、その観念自身からして、必ずわれわれの身心の健全なる発達を妨ぐべきものなので、それが利益となるべきはずはあり得ないのである。 (九月二十四日)
(河上肇著「貧乏物語」岩波文庫 p36-42)
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