学習通信041208
◎「人類はつねに、自分の解決できる課題だけを提出する」
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レーニンの「まねび」
標題に「まねび」と書いたのは、学ぶということばは、ものまねをするということからきたという程の意味である。なんでそんなことを言いたくなったのかは、そのうちにわかってもらえるはずである。
レーニンという人の偉大さは、途方もないもので、しかもひとつやふたつの種類のえらさではないとおもう。しかしここでは、まずレーニンの頭脳のはたらきの人並み外れたよさということを考えてみることにしよう。
M・グラッサーというドイツ人が書いた『創造者たちの仕事』(青木新書)によると、レーニンは、「一八八五年、兄(アレクサンドル)に見せてもらって、はじめて『資本論』に接した。……一八八八年一〇月、家族のいるカザン市にうつり、ここで秘密のサークルに加わり、またこのころから『資本論』を本格的に勉強しはじめ、マルクス主義の学習を系統的におこなった。一八八九年六月、一家とともにサマラに移住したとき、すでに確信あるマルクス主義者になっていた」とある。これを要約すると、レーニンは一五歳で『資本論』をはじめてよんだ。一八歳で『資本論』の本格的な研究をおこない、一九歳で確信あるマルクス主義者になっていた、ということになる。
問題をわかりやすくするために私の成長度に比較してみると、五九歳の現在程度のものにおそらく一七歳か一八歳でなっていないと、物ごとの理解ということだけからいっても、つまりその他の諸徳性などということは別にしても、私はレーニン的水準にはなれない、というわけだろう。これではまったく話にも何にもたったものではない。
もうひとつの例をあげてみよう。これはレーニン夫人クループスカヤの『思い出』からの抜き書きである。
「(流刑地から)ロシアに帰ってからは、ヴラヂーミル・イリイッチは将棋をやめてしまった。将棋は時間をつぶして、仕事のじゃまになる≠ニいっていた。……ウラヂーミル・イリイッチは、どんなことでも中途でやめることはできなかったし、あらゆる情熱をかたむけて一つの事に没頭しないではおれなかったので、もう将棋をさしたがらなかった。ヴラヂーミル・イリイッチは、小さいときから、じゃまになることは、思い切って捨ててしまうことができた。中学生のころには、スケートに夢中になったが、スケートをやった後は、疲れてとてもねむくなり、勉強のじゃまになった。だからスケートはやめてしまった≠ニ彼は語った。
別のときに、ヴラヂーミル・イリイッチはこう語った。一時払は、ラテン語に熱中した。∞ラテン語に?℃рヘ不思議におもってききかえした。そう、ただ他の学科のじゃまになるので、やめてしまった。=c…」
クループスカヤによると、「他の学科のじゃまになるのでやめてしまった」ラテン語学習も、後にはレーニンの言語表現をローマの雄弁家たちのように多彩なものにすることに大いに役立った、という。
いつでも、一つのことに興味をもつことができ、熱中することができ、しかもそれが、より本質的なことのじゃまになるとおもえば、いつでもそれをやめることができたというレーニン。しかもそういう習慣が青年時代、あるいはもっと小さい頃から身についていたというようなはなしをきくと、われわれのような生来の怠け者には、何んともおそろしいという他はないような、およびもつかぬという他はないような、老成した天才少年が目に浮んでくるのである。こんな人物のまねをするといっても、それは普通の人間にとっては、ただそういってみるだけのことではないだろうか。
ここで私は、自分の恥をさらしてみようとおもう。私が前述したグラッサーの本を読んだのはいまから一五年前のことだったから、四三、四歳のころだったことになる。こんどその本を引っぱりだしてみると、それにはだれでもするような傍点を打ったり、短い感想が書いてあった。どんな風に傍点を打ってあったか。それを点検することは自分にも多少興味のあることだった。たとえばこうである。
レーニンは『資本論』を一五歳ではじめてよんだ、一八歳で本格的に研究した、一九歳で確信あるマルクス主義者になった。
まことに平凡といえば平凡だが、それには私に固有の、私にしかおからない意味があった。正直にいうと、そのころでも私には『資本論』が難物であり、よくわからない書物だった。それがよく理解できるまで徹底的に読みこなすことができるところまで、勉強を持続できない薄志弱行に原因があると私は考えていた。だから、レーニンは一五歳でもそれを読むことができたのだ、一八歳のときには本格的に理解することができたのだという傍点の打ち方になったのである。
自分はレーニンのような強固な意志の力にはめぐまれていないが、だから、そのまねをしなければならないのだ、そして多少ともレーニンに近づかなければならないのだ、と考えていたことは、本のなかに残された「痕跡」からみてあきらかである。そういうことを一九か二〇の青年が考えて自分の人間形成に役立てるということはありうることだし、必ずしも否定的に評価することではないだろう。
しかし、多少とも学問をかじりながら、(まったくかじったにすぎないが)四〇歳をこえた男が、いまだにこんな子供のような考え方にはまりこんで、いわばないものねだりのような解決するはずのない夢幻的な自問自答をくり返していたことを思うと、そして他人のいない「本との対話」のなかでのことにせよ、またそれとは自覚していなかったにせよ、レーニンになりたい(!)などと考えていたかとおもうと、顔から火が出る思いがするのである。
しかしさすがに鈍根な私もいまではそんな風には考えていない。それについてもいわせてもらうことにしよう。
先日ゴーリキーの『回想』のなかの、トルストイについて書かれたくだりを読んでいたら、「トルストイは、美しくはないが、静脈がふくれて節くれだった驚くべき手をもっている。レオナルド・ダ・ビンチもおそらくこういう手をもっていたろう。こういう手でならなんでもできる」という例の有名な箇所に久しぶりにぶつかった。このトルストイのなんでもできる驚くべき手とはなんだろう。
それは、エンゲルスが『自然弁証法』のなかで「猿が人間になるについての労働の役割」という名前で知られる文章のなかで指摘した「ラファエルの絵画、トルワルドセンの彫刻、パガニーニの音楽を魔法で呼びだすほどの完全の誠に達した」人間の手のことである。それらは、まことに常人には及びもつかぬ高い完成度に達した「人間の手」である。
しかも、それらはまた同時に、唯物論者エンゲルスによれば、「労働により、ますます新しい仕事への適応により、それによって獲得された筋肉、腱、および長期的には骨格の、特殊な訓練を遺伝することにより、またこれら遺伝された改良進歩(人間の──著者)を新しい、ますます複雑な仕事に応用することによって」発達してきた普通の人間の手から生みだされたものである。その意味では、レーニンのおどろくほど非凡な頭脳のはたらきの場合も同様である。
レーニンの頭脳のはたらきはおどろくほど非凡であり、無駄なく合理的、集中的に、外部の自然や社会にむけられているが、これもまた、「意識ある知的存在」(マルクス)としての人間が、生産活動や社会活動のなかで、頭脳のはたらきによって、自然現象や社会現象のなかにある本質的なもの、法則的なものを把握し、それにもとづいて次第に生産活動や社会活動を意識的に制御できるものになり、そのことによって頭脳のはたらきをさらに鋭いものにしてきた、そのような人類一般の頭脳的な発達の頂点のひとつとしてのみ非凡なのである。
そして、そのことがもしそうだとすれば、われわれは次のようにいうことができるだろう。レーニンも彼の先人たちから学んだのだから、われわれもまたレーニンから学ぶことができるということがそのひとつである。そして、もしわれわれがレーニンの自然や社会に対する認識方法、認識の諸結果を学ぶことにより、自然現象や社会現象をより本質的に把握し、より意識的、能動的に、つまり、それらにたいしてより自由にはたらきかける可能性をもつようになれば、われわれもわれわれなりに、事物にたいする生き生きとした関心をもつことができるようになり、適当な自己規制に耐えうる意志の力をもそだてることができるだろう、ということ、これがそのふたつである。
ではさいごに、例証として、レーニンがいかに彼の先人から学んだかを示すことにしよう。
レーニンは、生前のマルクスに会ったことはなかったが、本の中のマルクスには、事あるごとに相談をもちかけたといわれている。そういう事例はおそらく無数にあるとおもうが、次にひとつの例をかかげてみる。
「絶えず膨張しながら資本主義的生産過程そのものの機構によって訓練され結合され組織される労働者階級の反抗もまた増大してゆく」(『資本論』第一巻、第二四章、第七節)
「大規模な資本主義によってつくり出され、組織され、結集され、教育され、啓蒙され、きたえられた、特定の歴史的階級」「この階級とは、プロレタリアートである。」(『レーニソ全集』第二九巻「偉大な創意」)
ひと目でわかることは、この二つの文章が瓜二つというほどよく似ていることである。レーニンは、そのことをいってはいないが、──これは学術論文ではなく政治論文だから、そういう必要を感じなかったのだろう──レーニソが、前出のマルクスの「資本主義的蓄積の歴史的傾向」にかんする理論から学び、それを基礎にして、労働者階級の世界史的役割にかんする完成した理論的な規定を導きだしていることはあきらかである。
これがレーニンの「まねび」だと私は考える。そうだとすれば、われわれのような平凡な人間も、レーニンと事あるごとに相談することができ、学ぶことができ、それを新しい現実の上に適用して、いっそう展開された具体的な規定に到達することさえできるだろう。
(『勤労者通信大学・月報』一九七〇年二・三月号)
(『堀江正規著作集』第六巻 大月書店 p42-46)
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追記
岩波文庫の『貧乏物語』の解題を書いてから四半世紀がすぎた。その間にこの文庫は四〇刷に達した。四〇万冊以上は売れたのだろう。この本の解題において、私は、日本経済学の古典としてこの本は尊重さるべきだ、著者にとっては、これがぬぎすてた古わらじ(草鞋)ではあっても、日本の社会科学の探訪者にとっては、これは無視してはならぬ古典であるとのべた。
この四半世紀において、日本の社会科学は急にその歩調を高めてずいぶんと前進した。そのうちにあって、河上の『貧乏物語』がその資料として利用されたことは予想以上であった。それにもかかわらず、この「古典」の使命はむしろ今後にあると、私は改めて考えるようになった。ここにその理由を追記しておきたい。
著者河上肇はこの「文庫」が出る前に死んだのである。死の直前、戦争中久しく獄につながれていた共産党の人々が解放されたので、文字どおり刑余老残の衰翁であった河上は、涙を浮かべ声をあげてこの人々を迎えつつ、自らを同志と称し、欣然として死んでいった。この死は劇的であり、これによって彼の一生は一段の光彩をそえたが、棺をおおいてのちは、河上研究は日本の思想界の主題の一つとなった。
これは、このときに日本の思想が自由になり、社会主義が解放されたためであったが、また、これに応じて河上が獄中や彼の隠宅でひそかにかきためて秘蔵していた自伝をはじめたくさんの詩歌や随筆や手紙の類までが相ついで関係者によって出版されたからである。それにつれて多くの経済学者、文化評論家、思想家も河上を論じ、それらがジャーナリズムばかりでなくアカデミック・サークルをもにぎわしたからである。
このような空気はその後もしばらくつづき、一九六五―六六年になると、『河上肇著作集』全十二巻(筑摩書房)が、また別に末川博編『河上肇研究』一巻(同上)が出版されることになった。この全集は編集も印刷も立派である。河上はその道にかけては一種の玄人であったが、地下でこの献本を手にして彼はさぞよろこんだろうが、他方、自身の著作をつぎつぎに絶版にするくせのあった河上の研究者にとっては、そういう欠本をさがす手間は今後は省けるわけである。
この四半世紀における右のような河上ブームのうちにおいてとくにひろくよまれた彼の著作は彼の『自叙伝』(『全集』第六巻第七巻所収、別に岩波版あり)であった。それは獄中において、また出獄後の彼の隠宅において、静かにたのしみつつ書きつづられた長大綱である。そこに描き出されている彼は決して単純な経済の学究ではない。それよりもっと広い意味での大正・昭和の前半を生きた日本の思想家である。そしてまさに日本伝統の志士仁人である。
しかもこの長大な読物は、極めて的確で迫力にとんだ文章をもってつづられており、自分の真情や相手の挙措を叙するペンは第一流の文士をこえる慨がある。その士にこの自伝の主人は一面は極端に我執的であるが、また他面は極端に忘我的である。『自伝』においてはこの両面がいろいろの問題のうちに出頭没頭して彼を苦悩せしめるが、それを通じて彼は一個の社会科学者としての自己の哲学を完成せんとする努力をする。
古来日本には西欧のように大きな自伝文学は乏しく、たとえば明治時代でもわずかに福沢の「自伝」ぐらいしかそういう名に値するものがないが、河上のこの自伝はまさにこれをつぐ逸品である。河上の自我、河上の忍苦は福沢のそれとは選を異にする。またそれをためす社会ももはや資本主義ではなく社会主義である。それだけにまた河上の実践的無力と仁人的正義との矛盾、その葛藤に対する苦闘は悲惨なまでに面白い。
「文は人なり」である。河上の『貧乏物語』をよむものは著者河上の人物を知る必要があるが、その人物を知るためには彼の『自叙伝』こそこの上ない手引であるまいかと、私は考えるのである。それと同時に私がここでいいたいことは、河上の『貧乏物語』は河上がこの自伝で明らかにしているように、日本の経済学にとってもまた河上自身にとっても、問題の提出であったが、決してその解決ではなかった。
いな、河上にとって、また、日本の経済学にとって、それは決して解決ではなかったばかりではない、おそらくはそれは提出としてさえも誤りであったであろう。にもかかわらず、私はいう。解決についての道は、あやまってはいたけど、「貧乏」が日本の問題であることを、正面切って日本で提起した人物は河上であった、それを示した本はこの小冊子『貧乏物語』であったと。
そこで借越ながらこの古典の読者に私はのぞみたい。この本で河上が提起した問題「貧乏」をこの本とともによみすてないでください。現に著者河上はこの本は古わらじとしてすてたが、一生をかけてはるかに遠く遠くまでこの問題を追っかけてみた。にもかかわらず彼の登り得た峯の高さは彼が自負するほどには高くはなかったようだ。これに対して彼が提示した問題の方はこの半世紀のうちにおいて、あのときに比して何倍何十倍も大きくなって諸君の前にその姿をあらわしている。
世界のプロレタリアートにとってはそののぼるべき解決への道さえすでに指呼のうちにある。そこで私はいう。『貧乏物語』の問題は、河上が問いかけただけでは解決しなかったけれど、「人類はつねに、自分の解決できる課題だけを提出する」(マルクス)。しかし諸君! 正しく提出された問題なら、正しく解くのは諸君の義務ではないか。
一九七二年五月三日 大内兵衛
(河上肇著「貧乏物語」岩波文庫 p191-194)
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『反デューリング論』の旧序文。弁証法について
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どの時代の理論的思想も、したがってまたわれわれの時代のそれも、一つの歴史的所産であって、そうした歴史的所産は、時代が異なれば非常に異なった形式をとり、それとともに非常に異なった内容を受け取るのである。だから、思考にかんする科学は、他のすべての科学と同様に、一つの歴史的な科学であり、人間の思考の歴史的発展にかんする科学であるわけである。
そして、このことは、思考を実際に経験的研究の諸領域に適用するうえでも重要なのである。と言うのも、第一に、思考諸法則の理論というものが、俗物的な頭が論理学ということばを聞いて思い浮かべるのとは違って、すでに最終的に確定された「永遠の真理」といったものなどではけっしてないからである。形式論理学自身、アリストテレス以来こんにちまでずっと、激しい論争の行なわれる領域であった。
そして、弁証法にいたっては、いままでのところやっと二人の思想家が、つまりアリストテレスとヘーゲルとが、かなり精確に研究したにすぎない。ところがまさにこの弁証法こそ、こんにちの自然科学にとって最も重要な思考形式なのである。それは、ただ弁証法だけが、自然のなかで生じるもろもろの発展過程にたいして、大局的・全般的なもろもろの連関にたいして、一つの研究領域から他のそれへのもろもろの移行にたいして、その類似物を提供し、それによってそうしたものを説明する方法を提供するからである。
第二には、しかし、人間の思考の歴史的発展の歩みを、外界の全般的諸連関についてのさまざまな時代に現われてきたもろもろの見解を、知っておくことは、理論的自然科学にとって、自分自身がこれから打ちたてようとする諸理論にそれが一つの基準を与えてくれるという理由からも、必要事なのである。ところが、こういう場合に、〔自然研究者が〕哲学の歴史を知らないということがじつにあざやかになんども現われてくる。
哲学ではなん世紀も前から提起されており、哲学的にはとうの昔になんども片づいている、そういう諸命題が、理論化にたずさわる自然研究者たちのもとで、斬新な知見としてなんども登場し、しばらくは流行になることさえある。力学的熱理論がエネルギーの保存という定理を新しい証拠をもって裏づけてもういちど前面に押し出したことは、たしかにこの理論の大きな成果ではある。
しかし、かりに物理学者諸氏がこの定理はすでにデカルトの手で打ちたてられていたことを思いだしていたとすれば、この定理がなにかあれほど絶対的に新しいものとして登場することができたであろうか? 物理学と化学とがふたたびほとんどもっぱら分子と原子とを取り扱うようになってからは、古代ギリシアの原子論哲学が必然的にもういちど前面に出てくることになった。
ところが、物理学者たちまた化学者たちのうちの最良の人びとでさえなんと皮相にこの哲学を取り扱っていることであろう! たとえば、ケクレ(『化学の目標と業績』)は、原子論哲学がレウキッポスではなくデモクリトスに始まる、と述べ、また、ドールトンがはじめて質的に異なった元素原子の存在を仮定し、はじめて、そうした諸原子がさまざまな元素を特徴づけるさまざまな重量をもっているとしたのだ、と主張する。
ところがディオゲネス・ラエルティオス(〔『ギリシア哲学者列伝』〕第X巻、第一章、第四三──四四節および第六一節)を読めば、すでにエピクロスが、原子は大きさと姿かたちとのうえでの差異ばかりでなく、重さのうえでの差異をももっている、と考え、したがって彼なりにすでに原子量と原子容とを知っていたのだ、ということが読み取れるはずである。
(エンゲルス著「反デューリング論 -下-」新日本出版社 p224-225)
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◎「にもかかわらず彼の登り得た峯の高さは彼が自負するほどには高くはなかったようだ。これに対して彼が提示した問題の方はこの半世紀のうちにおいて、あのときに比して何倍何十倍も大きくなって諸君の前にその姿をあらわしている」と。
学習通信041207 と重ねて深めて下さい。