学習通信041205
◎「人間にたいして支配的な力をふるうもの」……。
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最後に、交換価値を生みだす労働を特徴づけるものは、人と人との社会的関連が、いわばあべこべに、いいかえれば物と物との社会関係として表示されるという点である。一個の使用価値が交換価値としてほかの使用価値に関連するかぎりにおいてのみ、いろいろな人々の労働が、同質な、一般的なものとしてたがいに関連しあう。
だから交換価値とは人と人とのあいだの関係である、というのが正しいとしても、それは物という外被におおわれた関係、ということをつけくわえる必要がある。一ポンドの鉄と一ポンドの金とが、物理的化学的な属性を異にしているにもかかわらず同じ量の重さを表示しているように、同じ労働時間をふくんでいる二つの商品の使用価値は、同じ交換価値を表示している。
こうして交換価値は、使用価値の社会的な本来的規定として、また使用価値が物としてもっているひとつの規定としてあらわれてくる。そしてまさにその結果、使用価値は、交換過程において一定の量的関係でたがいにおきかえられ、等価物を形成することになるが、それはちょうど単純な化学元素が一定の量的関係で化合して化学当量を形成するのとおなじようなものである。
社会的生産関係が対象という形態をとり、そのために労働における人と人との関係がむしろ物同志の関係、および物が人にたいしてとる関係として表示されるということ、このことをありふれた自明のことのように思わせるものは、日常生活の習慣にほかならない。商品のばあいにはこのような神秘化はまだきわめて単純である。
交換価値としての諸商品の関係は、むしろ人々のかれら相互の生産的活動にたいする関係だという考えが、多かれ少なかれ皆の頭のなかにある。もっと高度の生産諸関係にあっては、この単純にみえる外観も消えうせてしまう。
重金主義のすべての錯覚は、貨幣を、ひとつの社会的生産関係を表示するものとはみなさないで、一定の属性をもつ自然物という形態においてみたことに由来している。重金主義の錯覚を嘲笑する近頃の経済学者たちでも、かれらがより高度の経済学的諸カテゴリー、たとえば資本をあつかう段になると、たちまち同じ錯覚におちいっていることをさらけだしてしまう。
かれらが不細工にもやっと物としてつかまえたと思ったばかりのものが、たちまち社会関係としてみえ、そしてようやく社会関係として固定しおえたものが、またもや物としてかれらを愚弄しにかかるばあいにみられる、かれらの素朴な驚嘆の告白のうちに、はからずもかれらの錯覚がばくろされているのである。
(マルクス著「経済学批判」岩波文庫 p31-33)
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【問い】商品物神,貨幣物神とはどういうことですか。なぜ商品・貨幣のところで物神性をとりあげているのでしょうか──
一般に,物神とか呪物とかいうのは,人間がつくったものでありながら,超人間的・神秘的な力をもち,人間にたいして支配的な力をふるうものとひろく観念されている対象物を意味しています。原始宗教においては,たんなる石や木片などが物神とされ,それらは,それ自身独立の生命をもっているかのよりに,人間のまえにたちあらわれていました。
商品生産のもとでは,商品や貨幣は,これらの物神と同じような性格をもってあらわれます。というのは,商品や貨幣の価値としての性格は,人間が社会的にあたえたものにほかならないにもかかわらず,あたかも商品や貨幣が自然的にもっているかのようにみえ,人間に対立してくるからです。マルクスは,このような性格を商品や貨幣の物神性と名づけました。
商品の物神性は,商品が人間のなんらかの欲望を満足させるという性質から生まれてくるわけではありません。使用価値としての商品には,神秘的な要素はまったくふくまれていないからです。また,商品の物神性は,商品の生産のためには一定の人間労働が必要であるということからも生まれてくるわけではありません。
どのような社会でも,有用物の生産のために人間労働が必要であるということは,自明だからです。商品の物神性は,商品のなかに結晶している人間労働が価値という形態をとることから生じます。すなわち,このことから,人間労働の同等性が商品の価値の同等性としてあらわれ,商品に投下された人間の労働量は商品がもっている価値量としてあらわれ,生産における人間と人間との社会的関係は,商品と商品との関係としてあらわれることになるのです。
そしてこのような関係がある程度まで慣習化されてくると,商品関係の背後にある人間関係が見失われて,たとえば,1トンの鉄と2オンスの金とが等価であることは,1ポンドの金と1ポンドの鉄とが同じ重さであるのと同じことのようにみえてきます。
貨幣の物神性は,商品の物神性がさらにすすんだものであり,それだけにいっそう人びとの目をくらますようになったものです。貨幣は,商品世界のなかからとりだされて,一般的等価物の地位を独占することとなった特殊な商品です。だから,貨幣がもっている特殊な性質,すなわち,商品の価値を価格として表示するとか,商品にたいする一方的な購買手段として機能しうるとかいう性質は,社会的にあたえられたものであって,けっして貨幣商品=金が自然的な性質としてもっているものではありません。
ところが,金の貨幣としての地位がある程度まで固定化してくると,金を貨幣とした社会関係が見失われて,金は,地の底から出てきたままで,貨幣としての特殊な性質をもっているかのようにみえてきます。つまり,貨幣が物神化されるわけです。
人間と人間との関係が物と物との関係としてあらわれる商品生産のもとでは,ほとんどすべての経済的カテゴリーが物神化されます。商品や貨幣だけでなく,資本も,もちろん,物神化されます。これらの物神性は,宗教的幻想とはちがって,商品生産に基礎をもっているものですから,たんなる人間の英知によって克服できるわけではありません。
日本のある大臣は,国際通貨危機について言及して,人間の英知が黄金色の金属にいつまでも支配されることはありえないといったそうですが,商品生産,資本主義経済をそのままにしておいて,貨幣の物神性だけをとりのぞこうというのは不可能なことです。
なお,物神性が,商品・貨幣のところでくわしく説明されているのは,それがかならずしも資本主義に固有なものではなく,資本主義の一般的基礎となっている商品生産にもとづくものだからです。しかし,商品生産にもとづく物神化が,資本主義のもとでいっそう発展し,完成されることはいうまでもありまん。したがって,わたしたちは,商品・貨幣以外のところでも,物神性についての指摘を注意ぶかく学びとらなければならないわけです。(校閲 横山正彦)
(見田・宇佐見・横山監修「マルクス経済学講座 -上-」新日本出版社 p70-72)
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◎「交換価値とは人と人とのあいだの関係である、というのが正しいとしても、それは物という外被におおわれた関係、ということをつけくわえる必要がある」と。