学習通信041204
◎「批評家の粗雑きわまる無理解のほどを示すもの」……。
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(3)歴史にたいする前衛党の責任とは何か
大会決議案は、「歴史には客観的法則があるが、それはひとりでにすすむものではない。人民のたたかいこそ、歴史を創造する力である」とのべています。歴史を創造する人民のたたかいの観点から、歴史をとらえるということが、いまとりわけ大切であります。
@討論のなかでは、決議案が、丸山真男氏の日本共産党論とその理論的基礎への批判の意義についてのべていることについて、「どうして丸山氏の日本共産党論批判を重視するのか」という疑問もだされました。
丸山氏の日本共産党論とは、日本共産党が侵略戦争に反対してたたかったことは事実だが、「侵略戦争の防止に失敗した」という点において、「ファシズムとのたたかいに負けた」のであって、日本共産党にも「戦争責任」がある、「結果責任」があるというものです。わが党が、これをあらためて重視したのは、いまだに学界に大きな影響力をもった研究者からの、わが党にたいする不当な批判への反撃ということにとどまらない、大きな意義があります。それは、こうした議論をめぐって、前衛党が歴史にどういう根本姿勢でたちむかうかという、大きな歴史観が問われているからであります。
歴史にたいする前衛党の責任とは何か。それは、そのときどきの歴史が提起した諸問題に正面からたちむかい、社会進歩の促進のために、真理をかかげてたたかうことであります。丸山氏は前衛党の「責任」論ということを提起したわけですが、われわれからの責任論の回答は、ここにあります。その真理は、もちろん実践によって検証されますが、人間が真理を認識できること、真理への無限の接近が可能であるという確信のうえに、われわれの事業は立脚しています。
真理は、さまざまな客観的な政治的力関係のもとで、そのときどきの歴史的局面・断面では、実らないこともあります。方針さえ正しければ、どんな場合でもその方針はかならず実現するはずだとするのは幼稚な観念論ですし、それなら革命運動はひどく楽です(笑い)。しかしその局面ではたとえ実らなくても、真理はかならず未来に生きる。真理は未来においては、いろいろなジグザグはあったとしてもかならず多数派になる。それをかかげて、できるかぎり賢明に、そして不屈にたたかうことこそ、歴史にたいするわれわれ前衛党の責任があるのであります。
戦前のわが党の不屈のたたかいの意義も、この見地からとらえる必要があります。歴史のある一断面・一局面だけをみれば、絶対主義的天皇制権力の野蛮な弾圧によって、党の中央委員会の統一的機能が破壊されたことは事実です。しかし、獄中や獄外での党の旗をまもっての不屈の活動は継続され、やがて戦後のたたかいにそれは豊かな形で生かされることになりました。
戦後、日本の新しい進路をどう選ぶかが問われたときに、他の政党がおしなべて天皇制中心の「国体護持」をかかげるなかで、主権在民をはじめとする民主的諸原理を正面から主張しえた政党は日本共産党だけでした。戦前の不屈のたたかいがあったからこそ、わが党はこの主張を堂々と展開できたのであります。
そして、その主張の多くは、日本国憲法の平和的・民主的原則に、刻みこまれることになりました。もしも戦前の日本共産党のたたかいがなかったならば、それは日本国民が侵略戦争からの教訓を自主的にくみだすことを、不可能としたでしょう。日本民族の良心の灯をかかげつづけることで、民族全体を大きく救ったのが、日本共産党のたたかいでした。歴史を局視的でない長い視野でみれば、軍国主義とファシズムにたいする勝利者がだれであったかは、あまりにも明りょうではないでしょうか。(拍手)
わが党が、丸山氏の日本共産党論について、歴史のこうした生きた弁証法をみることのできない局視的な観念論であり、傍観者の立場からの議論であると批判してきたことは、まったく正当であったと思います。
A歴史を創造する人民のたたかいの見地から、歴史をみるということは、今日のわれわれのたたかいにもつうじる真理であります。
今日の客観的な政治的力関係のもとでは、私たちが全力をつくしてたたかったとしても、相手の横暴がとおることもあります。小選挙区制反対のたたかいも、民主勢力は、悪法の推進勢力をあと一歩というところまで追いつめましたが、最後はああいう結果に終わりました。しかし、そのたたかいはむだだったかというと、けっしてそうではない。このたたかいで発揮された民主主義の奥深いエネルギーは、日本の社会進歩の未来にむかって生きた力となり、この悪法撤廃の力となって実をむすぶときがかならずくるというのが、私たちの不動の確信であります。(拍手)
わが党のなかでも、よくさまざまなたたかいにたちむかうさいに、「たたかっても勝つ見込みがあるのか、たたかってもむだではないか」という声が、一部から聞かれます。しかし、どんなたたかいをおこなうにせよ、あらかじめかならず勝つとわかっている場合だけにしかたたかわないというのであれば、あらゆるたたかいを放棄することにもつながることになります(笑い)。世界史を動かしたどんな偉大なたたかいも、あらかじめ百パーセントの勝算があってはじめられたものではありません。勝算の大小ではなく、歴史の直面する課題にこたえて、歴史をきりひらこうとする人びとによって、世界史はつくられたのであります。その方向が真理にそっているかぎり、たたかってむだなたたかいはない──私はこのことを強調したいのであります。(拍手)
決議案は、「日本共産党と民主勢力が戦後つくりあげてきた陣地の意義を過小評価して」はならないとしていますが、この陣地自体が、戦後半世紀にわたる幾百千万の日本国民のたたかいによって、きずきあげられてきたものであることを、われわれは忘れてはなりません。
私はさきに、現在の政治状況のなかで日本共産党は、悪政に苦しむ国民の要求にこたえ、その生活と安全をまもるために不屈にたたかう唯一の党となっているとのべましたが、このたたかいは、三十三年の歴史によって、その生命力が検証され、この大会での一部改定でいっそうの充実がはかられる、綱領路線という科学的真理に確固としてささえられたものです。これらのたたかいは、やがてかならず日本社会を民主的変革へとつき動かした歴史的たたかいとして記録されることになるでしょう。
同志のみなさん。大会決議案がのべているように、「歴史の進歩は、大局的には正義と道理にたつものが、さまざまなジグザグをへながらも、最後には勝利することを教えて」います。真理をかかげて不屈にたたかうことこそ歴史にたいする前衛党の責任があることを、決議案から深くつかんで、未来にむかってすすもうではありませんか。(大きな拍手)
(第20回党大会にたいする中央委員会の報告「前衛1994年9月号 日本共産党第20回大会特集」 p40-43)
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(18)歴史の法則と人間の主体的たたかい
歴史には客観的法則があるが、それはひとりでにすすむものではない。人民のたたかいこそ、歴史を創造する力である。また、社会発展の法則を認識し、社会進歩に自己の人生をかさねることにこそ、真の生きがい、理性と人間性の発揮がある。この間、わが党は、戦前、若くして革命運動に参加し、節をまもってたおれた先達たちの革命的生涯に、新しい光をあててきたが、彼らがつらぬいた生き方もここにある。
わが党は、この間の重要なイデオロギー活動として、丸山真男氏の日本共産党論とその理論的基礎への批判をおこなってきた。丸山氏の日本共産党論は、侵略戦争に反対してたたかった日本共産党にも戦争責任がある、さらには絶対主義的天皇制の精神構造が日本共産党にも「転移」しているなどというものであるが、こうした議論の根本には、だれが真理の旗をかかげて歴史にたちむかったか、それが歴史によってどう検証されたかをまじめにみようとせず、冷笑をもってとらえようとする観念論的・傍観者的歴史観がある。
歴史の進歩は、大局的には正義と道理にたつものが、さまざまなジグザグをへながらも、最後には勝利することを教えている。『日本共産党の七十年』があきらかにしたように、戦前、戦後の日本共産党の歴史は、反戦平和、民主主義、生活擁護、覇権主義反対の闘争など、それを証明したかけがえのない達成がある。真実にのみ忠実で、なにものをも恐れない自己分析の見地を発揮した、一貫した党史をもち、展望をもって歴史を語りうることは、日本共産党の誇りである。
(第20回党大会決議「前衛1994年9月号 日本共産党第20回大会特集」 p80-81)
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ここで最高に特徴的なことは、わが主観的哲学者が空文句から具体的な事実的指摘へ移ろうと試みるやいなや、水たまりへはまってしまったことである。そして彼は、見たところ、このあまりきれいでない立場にいることをすばらしくよく感じている。彼は座りこんで、着付け整え、あたりに泥をはねかけるだろう。たとえば、彼は、歴史とは一連の階級闘争のエピソードを並べたものだという命題に反論しようとする。
思盧深げな様子で、これは「極端」だと声明して、彼はこう言う。「マルクスの創設した国際労働者協会は、階級闘争を目的として組織されたものであるが、フランスとドイツの労働者が相互に殺し合ったり、滅ぼし合ったりするのを阻止しえなかった」、そして、このことによって、唯物論は「民族的利己心や民族的憎悪心の悪魔」を清算することができなかったことが証明される、と。
このような主張は商工業ブルジョアジーのきわめて現実的な利害がこの憎悪心の主要な根拠をなしていること、および、民族感情を自立的な要因として説くことは問題の本質をぬりつぶすものにすぎないことについての、この批評家の粗雑きわまる無理解のほどを示すものである。しかもなお、わが哲学者が民族についてどんな深遠な観念をもっているかは、すでにわれわれの見たとおりである。
ミハイローフスキイ氏は、インターナショナルにたいして、純然たるブレーニン流の皮肉をもってのぞむ以外に道を知らない。「マルクスは、実際、崩壊はしたが、復活するであろう国際労働者協会の首領である」と。
もちろん、もし、『ルースコエ・ボガーツトゥヴォ〔ロシアの富〕』第二号に国内生活雑報記録の筆者が小市民的卑俗さをもってごたごた書いているように、「公正な」交換制度を国際的連帯の nec plus ultra〔極限〕と考えるなら、また、もし交換は、公正なものも不公正なものも、ブルジョアジーの支配を前提とし内包するものであり、交換に基礎を置く経済組織を廃絶しない限り国際的紛争の廃止が不可能であることを理解しないならば、インターナショナルにたいして冷笑的態度しかとりえないことは理解できることである。
また、それならば、民族的憎悪心にたいする闘争手段としては、それぞれの国で抑圧者の階級との闘争のために被抑圧者の階級を組織し結束させる、そして国際資本との闘争のために、そのような民族的な労働者諸組織を一つの国際的労働者軍に結合させる以外には、手段はないという単純な真理を、ミハイローフスキイ氏が決して受け入れることができないのも、理解できることである。
インターナショナルが労働者の相互殺戮(さつりく)を阻止しえなかったことに関して言えば、ミハイローフスキイ氏に、戦争をおこなった支配階級にたいして、組織されたプロレタリアートの実際の態度を示したパリ・コミューンの諸事件を思い出させれば十分である。
(レーニン著「人民の友とは」新日本出版社 p49-51)
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◎「どんなたたかいをおこなうにせよ、あらかじめかならず勝つとわかっている場合だけにしかたたかわないというのであれば、あらゆるたたかいを放棄することにもつながる」と。