学習通信040824
◎「或る第三の生産物で、表現し……などということは、社会には思いつきもしないこと」……と。
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社会が生産手段を掌握し、生産のために直接に社会的に結合して、その生産手段を使用するようになると、すぐさま各人の労働は、その特殊な有用性がどれほどさまざまであろうと、はじめからまた直接に、社会的な労働となる。
そうなれば、或る生産物に含まれている社会的労働の量を、まず回り道をして確かめるにはおよばない。日々の経験が直接に、平均的にどれだけの労働が必要であるかを示してくれる。
社会には、蒸気機関一台・最近の収穫期のコムギ一ヘクトリットル・一定の品質の布一〇〇平方メートルにどれだけの労働時間が含まれているかが、簡単に計算できる。
だから、〈生産物に投入された労働量を、社会がそのあとで直接にまた絶対的に知るのに、それ以後もあいかわらず、以前には一時しのぎとして避けられなかった・相対的でぐらつきがあって不十分でしかない尺度で、つまり、或る第三の生産物で、表現し、それの自然な十分な絶対的尺度である時間で表現しない〉、などということは、社会には思いつきもしないことである。
それはちょうど、〈原子量を絶対的に、それに十全な尺度で、すなわち、本当の重量で、〔たとえば〕一兆分の一グラムとか一兆の二乗分の一グラムとかで、表現することが化学にできるようになったそのときでも、やはり水素原子という回り道をして相対的にそれを表現する〉、などということが、化学には思いもよらないのと同様である。
社会は、そういうわけで、右のような前提のもとでは、生産物に価値を付与することもしない。二〇〇平方メートルの布の生産にたとえば一〇〇〇労働時間を必要とした〉という簡単な事実を、〈この布には一〇〇〇労働時間の価値がある〉などという、的はずれな無意味な仕方で表現することはしないであろう。
ただし、この場合でも、〈それぞれの使用対象は、その生産にどれだけの労働を必要とするか〉ということは、知っていなければならないであろう。生産手段──これにはとくに労働カもはいる──に応じて生産計画を立てなければならないであろう。
結局は、さまざまな使用対象の効用が──互いに比較考量され、また、こうした物の生産に必要な労働量とも比較考量されたうえで──この計画を決めるであろう。人びとは、高名な「価値」の介入なしに、万事を非常に簡単にかたづける。
(エンゲルス著「反デューリング論 -下-」新日本出版社 p194-195)
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第二の角度は、いわば人類史的な見方であります。「生産手段の社会化」が人間社会の本来の姿を取り戻すものであって、そういう意味で人類史の新しい時代を画する変革であることをおおもとからつかむ、この歴史観も大事であります。
人類の歴史をより深く考えますと、だいたい生産手段というのは、人間がそれを使って自然に働きかける手段であります。
少なくとも数十万年は続いた人類史の曙(あけぼの)の段階では、生産者が自分の生産手段をもって自然に働きかける、これが人間本来の姿でした。
階級社会に変わってこの状態が根本から変わりました。階級社会には、奴隷制、封建制、資本主義という主な三つの時代がありますが、時間の長さからいえば、合わせてせいぜい数千年であります。この階級社会では、生産者と生産手段が切り離され、生産手段が支配者の持ち物となりました。そのために、生産者が他人である支配者のために働くというのが、生産の主要な様式に変わりました。
そして最後の搾取社会である資本主義の時代を迎えて、生産手段と生産力が高度な発展をとげ、新しい社会の物質的土台をつくりだす。同時に、一方では個々の企業が生産手段を持った状態では巨大化した生産の管理ができなくなるという矛盾が激しくなると同時に、生産者の側には、それだけ発展した生産手段を集団として動かすことができる力も発展してくる。ここに大づかみにみた資本主義時代の特徴があります。
そのうえにたって、共同体である社会が生産手段を握る、こういう形で生産者と生産手段の結びつきを回復するという新しい段階、人類のいわば「本史」への発展を意味する社会変革が日程にのぼってきたのです。
ここに、「生産手段の社会化」という目標を人類史という大きな視野でとらえた場合の大きな意義があることを強調したいと思います。
(「綱領改定についての報告」中央委員会議長 不破哲三 2004年1月15日(木)「しんぶん赤旗」)
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◎生産手段の社会化を深くとらえることが未来論を強固にするようです。「マルクス未来社会論」も出版されました。
これまでの学習通信≠燻Q考にして社会化≠フ理解を深めよう。