学習通信040819
◎「自分が虫のいい根性を生かせば……」と。

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人は誰のためにでもなく自分のためにがんばるものだ

貴乃花が武蔵丸との優勝決定戦を制し、十二年ぶり史上七人目の新横綱Vを飾った。

 いや〜、すばらしい。ちょっとやそっとの努力でできるものではない。これは大いにほめてやるべきである。

 しかも、彼はまだ二十二歳である。オレなんかよりもずっと年下であれだけのことをやってしまうのだから「すごい」の一言に尽きる。オレが二十二歳のころは、まだヒヨッコで、女のケツを追い回し(今もそうですけど)、仕事もロクにせず(まあ−やりたくてもなかったのだが)、親のスネをかじることしか考えないクソガキだった。

 それに比べて貴乃花という男は……。
 君こそ最高だ、君こそ横綱のなかの横綱だとまあ、持ち上げるのはこのへんにして、そろそろ本題に入ろう。

 オレが貴乃花はすごいと思ったのは、武蔵丸を破って優勝したとこまでである。そのあとがいかん。次の日の新聞にはこんな見出しが出たのである。
 兵庫県南部地震の被災者にささげる優勝だ

 なんだそれ。すもうと地震、いったいなんの関係があるのだ。何がどうなって、そういう方向へ行ってしまうのだ。わからん。地元出身の一人として言わしてもらうと、貴乃花のファンならともかく、貴乃花が優勝したからといって、あの地震の被災者には何の変化もないぞ。被災者たちが一生懸命、復興のためにがんばっているのは自分たちのためにがんばっているわけで、貴乃花に勇気づけられて、というわけではないぞ。

 まあ貴乃花に限らず、大きな災害があったときなど、特にスポーツ紙にはきまってこういう勘違いした見出しが出てくる。

「○○の人たちに勇気を与えるためにがんばります」
 君たちはいったい何様だ。オレはふだんからこの連載で、よくお笑いタレントが一番偉いとか、オレは天才だとうたっている。もちろんそれは本心だし、間違っていないという自信もある。ただ、お笑いで人に勇気を与えたり、人の命を救ったりできるなんて考えたこともない。いや、たまにそういったファンレターをもらうこともある。でもそれは、その人がオレの番組を見てそう感じてくれているわけで、オレがそう仕向けたわけじゃない。オレは誰のためにでもなく、自分のためにやっているのだ。

 貴乃花よ、君は君のためにがんばって優勝したのだろう。すもうをとっているとき、被災者のことなど頭になかっただろう(じゃないと勝てない)。優勝したことはすばらしい。それでいいではないか。

 そう言えば、ある野球選手が病気と闘っているファンのためにホームランをプレゼントしたという話があったが、ああいうのも、オレは、どうかと思う。オレに言わせればそんなもん、ぜんぜん美談じゃない。打たれたピッチヤーにも病気のファンはきっといたはずだから。

 そして貴乃花のあの優勝が、被災地の人たちにほんとうに勇気を与えたと思っている人がいるのなら言ってやるが、あの地震の被災者の中にも、武蔵丸のファンはいたはずだ。

 P・S なぜああいう大きな災害があったとき、スポーツ選手ががんばれば勇気づけられるなどと言われ、オレたちコメディアンががんばれば不謹慎と言われてしまうのだろうか。
(松本人志著「「松本」の「遺書」」朝日文庫 p205-208)

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 人生は無意味か

 人生は意義深いのだろうか。それとも無意味で空疎なのだろうか。

 おそらく、意義深いと答える人の多くは、入学直前か結婚直前か恋愛中の、楽しい気分に浸っている人だろう。だが、この質問は、「あなたはいま楽しいと感じていますか」という個人的感想をたずねる質問とは違う。「これこれの理由で意義深い」といった客観的な答えがあるはずではなかろうか。

 人生は何の意味もない空疎なものだと考える人は、しばしばいう。「毎朝電車にゆられて会社に行って一日中机にへばりつき、夜帰宅して風呂に入って寝るだけの繰り返しだ。だから人生は無意味だ」と。しかしここにはインチキが含まれている。

 人生にはそのような側面もあるが、人生をその側面だけを取り出して、それがすべてであるかのように単純化するのは、ちょうど、映画を「最初に題が出て、本編があって終わるだけのものだ」と表現したり、音楽を「ただいろいろな音をちゃらちゃら鳴らしているだけ」と表現するに等しいように思うのである。

 人生は、映画や音楽と同様、さまざまな要素を含んでいる。喜びもあれば悲しみもあり、スリルもあれば退屈もあり、成功もあれば挫折もある。何でもないような経験、たとえば路傍のナズナの花を見る経験が、非常に大きい意味をもつこともある。「人生は決まりきった毎日の繰り返しにすぎない」という考えの裏には、こういう面をすべて無視して、無意味に見える部分を拡大し、人生をことさらつまらないものに見せかけようとする作為があるように思われる。

人生は無意味だと主張する人は、客観的理由づけを装っているが、実際には「オレはつまんねえんだ」という個人的感情が最初にあって、それを強調しているだけではなかろうか。

 われわれはこの種の「都合のよい単純化」とでも呼ぶべきインチキな論法をよく使う。とくに反感を表明するときがそうだ。

 たとえばわたしは友人から、「女子大生に囲まれて給料をもらっているなんて許せない」といわれることがあるが、これは銀行員を「毎日、金に埋もれて暮らしている」と表現するのと同じで、女子大の教師のさまざまな側面の中から、自分の主張に都合のよい一側面だけを強調しているのである。

「都合のよい単純化」の例は枚挙にいとまがない。たとえば読書は「部屋にこもってページをめくっているだけ」、恋愛は「男女がくっつくだけ」、ミステリは「人を殺した犯人がつかまるだけの話」、ゴルフは「棒で球を叩いているだけ」、バスケットボールは「体育館でボールをダンダンいわせているだけ」、人間や動物は「子孫を残して死んでいくだけ」、人生は「悠久の時間の中では取るに足りない一瞬」、人間は「食べ物を通すただの管」、生死は「たんなる原子の離合集散」、哲学は「机の前で難しい顔をしているだけ」、助手は「ただ弁当を食べて帰り支度をしているだけ」となってしまう。

当たっているのは助手の例だけだ。

 このようなインチキな論法を、自分の都合のためなら何でも利用する妻が使わないはずがない。たとえば妻はよく「休日に家の中でゴロゴロするな」という。たしかにわたしは家の中で端然として編物をしているわけでも、キビキビ行進しているわけでもないが、テレビを見ていようと、昼寝していようと、哲学的思索にふけっていようと、芋虫の真似をしていようと、「ゴロゴロしているだけ」と単純化するのは行き過ぎではないか。

 先日も、わたしが散髪したのを見て、妻が「そんなに短くしたら、そこらへんにいるただのオヤジだ」という。わたしは、たしかにそこらへんにいるただのオヤジだが、それ以外にも、テレビ映りが悪い、棚の修理を棚上げするなど、無数の性質をもっているはずだ。妻はそれらを自分の主張に合わせて都合よく単純化し、「ただのオヤジ」と一括しているのである。

 わたしはこれでも真理を探究する学者のはしくれだ。デタラメな論法を見逃すわけにはいかない。強く反論した。心の中で。

「お前だってただの中年女だろう。〈ただの中年女〉でもホメすぎだ」
 わたしを単純化するなら、「ただのハンサム」とか「ただの人格者」と単純化してもらいたい。そんな簡単なことができない人間は全員ただのクズだ。
(土屋賢二著「ソクラテスの口説き方」文春文庫 p214-217)

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 人間は自然から与えられたもの以外は生かせないものだが、しかしその与えられたものを生かす生かし方に、人間のよさと、わるさが生きる。人間は完全でないから、病的なところがある。それをうまく利用して、自分の欲望を無限に発展させる。人間が金銭を考え出したのは、始め便利の為だったが、それがあまりに便利すぎるので、いろいろに発展しすぎて、遂に今日の状態になったのだ。

 しかし金銭は元来、物々交換が厄介なところから生まれたものであり、非常に便利なものだから、今更に金銭の価値を自分は否定しないが、元来、自然から与えられたものでないから、金もうけと人間の生長力とは一致しているとはゆかないのだ。

 自然が与えてくれた本能を健全に生かすことは他人が健全に自己の本能を生かすこととは矛盾をしないようにつくられているのが本当と思う。

 だから自分が本当に正しく自己を生かすことは、他人が本当に自己を生かすことと衝突はせず、反って助け合うように出来ているというのが、僕の信仰である。

 たとえば自己を健康にすることは、決して他人を不健康にすることを意味しない。
 万人の人の病気をなおすことは、同じ病気の他の人をなおすことを意味する。
 一人の人がいい米の種を発見することは、決して他の人の米の種を悪くするものではない。
 万人の人が勉強することは他の人を不勉強家にすることを意味しない。むしろその反対である。

 一人が足が早くなることは、他人の足をおそくすることではない。

 恋愛なぞは、一人の人が恋人を得れば、その同じ人を恋している人は失望しなければならないが、それは当然なことである。お互に愛しあい、子を生み、共同して子を育てることを意味しているのだから、自分を愛してもくれない異性を求めるものは、求める方がまちがっている。いくら未練があるとしても、自分に資格のないことはあきらめねばならない。

 そういう人は自分とよろこんで夫婦になる人を他に捜すより仕方がない。
 よこしまに自己を生かすことは、他人と衝突する。あいつはいやな奴だと思えば、相手もそう思うだろう。

 相手をなぐりたくなったから、なぐろうとした。しかし相手はそれを拒んだ。ふとどきな奴だと言ってもそれは通用しない。

 自分の真価を高めず、自分の人のよさを生かさず、虫のよさだけを生かそうとすれば、他人と衝突するのは当然である。

 自分が正しく自己を生かすことで、他人が正しく自己を生かすことと、衝突する場合は、僕には考えられない。自分が虫のいい根性を生かせば、すぐ他人の虫のいい根性と衝突する。しかし自分を正しい人間にすることで、他人と衝突することは、ない。ありとすればそれはお互に遠慮すべきで、其処に礼が生まれてくる。

 しかし人は或は言うかも知れない。勢力をとりたいのは、自然な本能とすれば、他人を征服するのは自然だ。しかし人間は他人を征服したいものだが、自分は征服されることは嫌いである。だから自己を生かすことは、他人と必ず衝突すると。

 しかし権力争いというものは実は虫のいい争いで、決して両方の人格を高める争いではない。勝てば物質上では得するかも知れないが、正しく自己を生かしたとは言えない。

 一方が生きるために、他方が犠牲になる。現世ではそういうことはあり得る。むしろその方が普通と見えるが、しかしその時、生きた方も実は立派に道徳的に生きたのではなく、自分を病的に、利己的に生かしたので、正しい自我を生かしたのではないのだ。

 真に自分を正しく生かすものは、自己の完成の為に働くと同時に他人の自己完成に役立つ人である。自分を真に生かして、他人に真に生きる道を教えたものこそ、真に自分を生かしたものと言えるのだ。
(武者小路実篤著「人生論・愛について」新潮文庫 p50-53)

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◎「さまざまな側面の中から、自分の主張に都合のよい一側面だけを強調しているのである。「都合のよい単純化」の例は枚挙にいとまがない。」
「自分の真価を高めず、自分の人のよさを生かさず、虫のよさだけを生かそうとすれば、他人と衝突するのは当然である。」

松本人志をどうとらえますか?