学習通信040529
◎貨幣の通用する社会とはどんな社会……。

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お金は、信用をかたちにしたもの。
誰かがお金の価値を保証しているわけです。

 それではお金とは、いったい何なのだろう? ひと言でいうと「信用をかたちにしたもの」である。このことはお金の歴史をひも解くとよくわかる。

 お金がまだ発明されていなかったころ、人びとはモノとモノを直接交換していた。米がとれすぎて余った人は、魚がとれすぎて余った人と交換しながら生活を営んでいた。しかしこの方法では、自分がいらないモノと相手が欲しいモノ、自分が欲しいモノと相手がいらないモノが一致する必要があるが、これはなかなか大変だ。そこでたくさんの人が集まる市場(いちば)が形成される。

 このような時代では、モノ自体の価値と同じくらい相手の信用度が重要だった。たとえば物々交換の現場では、その米や魚がどれだけおいしくて新鮮かの判断が難しい。相手が顔なじみなら「お前が持ってくる米なら安心だ」と信用することができるが、よく知らない相手の場合はこうはいかない。「明日、新鮮な魚を渡す」ではさらに心配だ。

 そのうち誰かが、交換するモノとモノの間に、金や銀といった貴金属を挟むと便利だし、取引が安全確実になることを発見する。「金貨の価値なら信用できるし、オレが次に交換する相手も金貨を欲しがるだろう」というわけで、これが「お金」のはじまりである。

 金や銀を物々交換の間に挟むようになると、金や銀の信用度が重要になってくる。そこで金貨や銀貨の信用度を高めるために、王様の横顔を刻んだ硬貨が誕生する。

 ところで江戸時代には、金の含有量を減らした小判をつくったことがあった。そのお金は、いまは「悪貨」と呼ばれているが、それまでの小判と同じように使われたそうだ。小判の「モノとしての価値」は下がっても、その流通を背後で支えている幕府に信用があったので、なんとか通用した。

ただし、純度が高い古い小判はプレミアムがついたりしたので、わざと手元に置いたりもした。それでもマクロ経済的には、流通するお金の量が増えることで取引が活発になり、その結果、各種の産業が発達して、人びとにはむしろ喜ばれた。

 一七、ハ世紀ごろのイギリスでは、国中に運河が張り巡らされ、各地の特産物が船に乗り、水上輸送によってあちらこちらで取引されるようになった。すると、この品物を運ぶ商人目当てのタバーン──いまでいうところのホテルが運河沿いのいたるところに建った。タバーンにはたいていお酒が飲めるスペースがあり、常連客のために割引回数券のようなクーポンを発行した。

 有名なタバーンのクーポンは商人同士のあいだで商品と交換されるようになり、それがやがてお金と同様に流通した。金や銀の代わりに紙切れを使っても、相手がちゃんと受け取ってくれれば問題ないし、お金を発行する者が民間企業でもいいことがわかる。そこには、もしクーポンがお金として通用しなくても、タバーンに行けば一杯飲めるという信用の支えがあった。

 タバーンのオーナーになることは、つまり自分でお金を発行できるだけの信用があるということだから、かなり名誉なことであったらしい。アメリカでもそれは同様で、「自分は大統領になったときよりも、タバーンのオーナーになったときの方がうれしかった」と第一六代大統領のリンカーンが自叙伝に書いている。

 こうして取引に必要な信用の根拠は、物々交換のモノから貴金属、さらにはお金の価値を保証する人や事業へと移ってきた。さらにそれが発展すると、紙のようにモノ自体に値打ちがなくても、誰かが価値を保証してくれればお金として流通するようになる。信用が貨幣の本質だというのは、このことである。

 換言すれば、物々交換ではなくお金が流通している社会は性善説が成り立ち、信用に満ち溢れている世界である。お金が大好きで、貪欲にお金を欲しがる人は、他人やお金の価値を信じることができる「いい人」である。
(日下公人著「お金の本」竹村出版 p14-18)

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 では、市場経済は、歴史的に共同体間あるいは地域間の交換から発生し、本性的にグローバル性を持っているにもかかわらず、工業化に基づく近代資本主義が登場すると、なぜ「国民国家」が形成されるのだろうか。「商品による商品の生産」が行われるようになると、あらゆる物が商品化され、社会全体が商品売買の連鎖で覆いつくされねばならないからである。

つまり「商品による商品の生産」が成り立つには、本来商品ではない労働・土地・資本(ないし貨幣)といった本源的生産要素にも所有権が設定され、全社会的に「商品化」されねばならなくなる。そして少なくとも境界線の内部では、同じ貨幣制度を適用し、労働や土地に関しても同じ所有や取引のルールを適用する必要性が生ずる。そこに「国民国家」という政治権力が成立する経済的契機が存在する。

 しかし所有権の保護(裏を返せば、所有者支配の保障)だけが「近代国民国家」の役割なのではない。これら本源的生産要素は市場化の限界を有するがゆえに、市場外に洩れてゆく部分を救いとるセーフティーネットと連結した制度やルールが必要となる。これら本源的生産要素は、その本性的性格ゆえに、所有権を徹底させると市場を著しく不安定に陥らせるからである。

 例えば、労働力の購入者が、購入した労働力の所有権を自由に行使しようとすればするほど、労働力の販売者は自由を失う関係にある。それゆえ救貧法・工場法に始まり労働組合の法認や生存権の保障に至るプロセスが、歴史的に進行する。土地についても、土地所有者が所有権を自由に行使しようとすればするほど、土地の使用者・占有者は自由を失い、また公共的性格を持つ自然環境を損ねてゆく。

それゆえ借地権・用益権の保護に始まり都市計画・公的土地住宅政策に至るプロセスが進行する。貨幣もまた同様に、各銀行が発券のルールを無視して自由に銀行券を発行すれば、貨幣・金融市場全体の信認は崩れてしまう。それゆえ中央銀行による貨幣発行権の独占と〈最後の貸し手機能〉が生まれてくる。このように「商品による商品の生産」が行われるようになると、本源的生産要素の市場化の必要性とその本性的限界から、国民経済を総括する「国民国家」が不可欠な存在となる。かくしてグローバル性を持つ世界市場に「国民国家」という拘束単位がはめ込まれ、二つの〈市場〉の絶えざる軋轢の歴史が始まったのである。

 ところで、たとえ一時的にせよ「国民国家」が安定的に機能するには、グローバル性を持った国家間の市場取引をルールで枠づけてゆく国際経済上の安定的枠組みが必要となる。しかし世界市場を統括する超国家が存在しない以上、その任務は、政治的にも軍事的にもリーダーシップをとりうる「国民国家」すなわち覇権国によって代行されねばならない。

つまり覇権国の経済力・軍事力が絶対的優位にある時、その主導の下に「国民国家」の主権的領域がルールとして確保されるという歴史の皮肉が生ずるのである。

 逆に覇権国がグローバルな市場をコントロールできなくなってくると、〈顔の見えない市場〉の一人歩きが始まり、それが外部からの「市場圧力」となって、「国民国家」単位で形成されてきたセーフティーネットを次々と破壊してゆくことになる。そして、それによって国民国家の地位は低下を余儀なくされてゆく。
(金子勝著「反経済学」新書館 p142-144)

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 この本は、はじめは、「貨幣の精神史」という仮題をもっていた。古典経済学は貨幣をどのようにとらえようとしていたのかをみながら、人間たちの貨幣に対する屈折した精神史を再現する。その精神史のなかに貨幣と人間の関係を、つまり貨幣とは何かを考察する。このような意図のもとに書下したのが本書である。

 もっとも書き終えた頃は、私はこの本の書名を「貨幣、この憂鬱なるもの」としようかとも考えていた。私たちにとって、貨幣は不愉快な宝である。いまでは富の基準であり、市場経済のもとで暮らすかぎり、万能的な便利さをもっている。

ところが、手放しで承認する気にもなれない。貨幣に支配されることを、どこかで私たちは拒否しようとしている。本書で扱ったケインズの言葉を使うなら、私たちは確かに「貨幣愛」をもっているにもかかわらず、他方では貨幣を嫌悪してもいるのである。ところがこの矛盾が解決できないままに、一方では貨幣を求め、他方では貨幣に憂鬱なまなざしを向ける。

 しかも、こんな私たちの屈折した態度をあざ笑うかのように、貨幣は私たちの精神のなかに土足で上がりこみ、ふてぶてしく座り込んでしまう。何という憂鬱なるものであろうか。

 このようなことが生じるのは、貨幣が単なる交換財ではなく、今日の経済活動の本質的な部分を体現しているからであろう。だから、経済活動と結ばれながら暮らしている私たちは、いくら貨幣に警戒的な目を向けていても、次第に「貨幣の精神」とでもいうべきものに包み込まれてしまう。
(内山節著「貨幣の思想史」新潮選書 p227-228)

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 だが、個々人のあいだの交換が発生したあと、また生産物が商品に転化するにつれて、生産物がいかに急速に生産者にたいしてその支配力をふるうものであるかは、アテナイ人が身をもって知ることになった。

商品生産にともなって、個々人が自己の計算にもとづいて行なう土地の耕作が現われ、それとともにまもなく個々人の土地所有が現われた。

それからさらに貨幣、つまり、他のすべての商品がそれと交換されうる一般的商品が現われた。

だが、人間は貨幣を発明しながら、それでいて、自分たちがそれでもってまたもや一つの新しい社会的な力、そのまえに全社会が拝跪(はいき)しなければならない一個の普遍的な力をつくりだしたことには思い及ばなかった。

そして、この力自身の生みの親が知りも欲しもしないのに突如として躍りでたこの新しい力こそは、その若さの粗暴性をことごとく発揮して、自己の支配をアテナイ人に思いしらせたものであった。

 どうしたらよかったか? 古い氏族制度は、貨幣の勝利の進軍に直面して無力であることを証明したばかりではなかった。

それはまた、そのわく自体の内部に、貨幣、債権者と債務者、債務の強制取り立てというようなものをいれる余地さえみいだすことが絶対にできなかった。

だが新しい社会的な力はすでに実在しており、ありしよかりし時代の復帰をねがうはかない望み、あこがれが、貨幣と高利貸付をこの世から追いかえすことはなかった。

そのうえさらに、氏族制度には一連のそれ以外の副次的な破口がうがたれていた。

アテナイ人は当時もまだ自己の氏族外に地所は売ってもよいがその住宅は売ってはならなかったにもかかわらず、アッティカの全領域にわたって、とくにアテナイ市自体で、〔さまざまな〕氏族員と胞族員が世代をへるごとにますます無差別にまじりあって住むようになった。

農耕、手工業、手工業のなかではさらに無数の亜種、商業、航海等々のさまざまな生産部門のあいだの分業が、工業と交通との進歩にともなってますます完全な発展をとげていた。

いまや住民は、その職業に応じてかなり固定した集団に分かれ、それらの各集団は一連の新しい共通の利害をもっていたが、氏族ないし胞族のなかにはこれらの集団をいれる余地がなかったので、それらの世話をするために新しい公職が必要とされた。

奴隷の数はいちじるしくふえてしまい、そのころすでに自由なアテナイ人の数をはるかにしのいでいたにちがいない。

氏族制度は元来、奴隷制度を知らず、したがってまたこの不自由民大衆をおさえつける手段も知らなかった。

そして最後に、商業が多数のよそ者をアテナイにもたらした。

彼らは金もうけが容易なのでここに定住したが、古い制度にもとづいてやはり無権利、無保護のままであり、伝統的な寛容さで受けいれられたにもかかわらず、民衆のなかの攪乱的異分子たるにとどまった。
(エンゲルス著「家族・私有財産・国家の起源」新日本出版社 p151-152)

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◎ある日突然と貨幣が降って湧いたわけではない。どんな社会が……。