学習通信040525
◎生産物の支配……

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市場の「すごさ」を再確認しよう

 分業や貨幣と並んで、マーケットは人類の偉大なる大発明である、とこれまで述べてきました。普通の商品だけでなく、労働サービス、あるいは金融サービスについても、価格や賃金、金利などが需要と供給を調整してくれます。そして、最終的には需要と供給がマッチングされます。うまくいけば、すべての商品、サービスについて均衡が成立する一般均衡という状況が生まれることも見てきました。

 高邁な理想にもかかわらず、社会主義経済が失敗したのは、マーケットという偉大な人類の発明を有効に利用できなかったからでした。1990年ころを境に、旧ソ連や東欧の社会主義国がこぞって計画経済から市場経済体制への転換を表明したことはご存じですね。これら社会主義国もマーケットなしには国の経済が成り立っていかないということを認めざるを得なかったのです。

 今では、中国も「社会主義市場経済」を目指すと言いはじめていますが、そのうち、社会主義という言葉が消えていくのではないでしょうか。というのは、社会主義という言葉と市場経済という言葉は、基本的に相容れないものだからです。市場経済はあくまで個人の経済活動の自由を前提にしていますが、社会主義は個人の自由な政治活動を禁じているからです。経済活動は自由だけれども、政治活動は不自由という体制はおそらく長くはつづかないと思われます。

 マーケットが「何を、どれだけ、どのような方法で、誰のために」有限な資源を配分するのかという大変むずかしい仕事をかなりうまくこなしていることは、奇跡的ですらあります。これに代わる資源配分の方法を見つけ出すことは、現時点における人類の能力ではおそらく不可能ですらあると思います。

 ですから、読者にはここでもう一度、マーケットメカニズムの果たしている役割の本質、効率的な資源配分の意味、所得分配の決まり方、人々にインセンティブを巧みに与えている機能など、マーケットメカニズムがもっているすばらしい力、すごさ、というものを十分に理解して欲しいのです。

 その上で、初めて、私たちは、「しかし、じつはマーケットといえども万能ではない」という議論に進むことができるのです。もし、マーケットのもつすごい力を十分に理解しないで、マーケットの欠点だけをあげつらうと、「何だ、マーケットって大したことないんだね。じゃあ、競争を制限したり、政府にもっといろんなことをやってもらおうか」という誤った方向に関心がいってしまう可能性があるからです。そして、残念ながら、こういった発想に陥っている人が世の中にはずいぶんと多いのです。

 私がこの本を書きはじめた動機のひとつは、まず、多くの読者のみなさんにマーケットのすごさをしっかりと理解してもらいたいと思ったからです。そうしなければ、日本社会は規制国家の社会主義的体質から、個人がもっと自由に発想し、創造力を発揮できる自由主義社会へ転換することができないだろうと思われるからです。
(中谷巌著「痛快 経済学」集英社文庫 p174-175)

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 すべての国民の年々の労働は、その国民が年々消費するすべての生活の必需品や便益品を本来その国民に供給する基金であって、そうした必需品や便益品はつねにその労働の直接の生産物であるか、あるいはその生産物で他の諸国民から購入されるものである。

 したがってこの生産物と、またはこの生産物で購入されるものと、それを消費するはずの人びとの数との割合が大きいか小さいかに応じて、その国民が必要とするすべての必需品および便益品の供給を受ける度合がよかったり、悪かったりすることになる。

 しかしこの割合は、どの国民にあっても、二つのことなる事情によって、すなわち、第一には、その国民の労働が一般に適用されるさいの熟練、技倆、および判断力によって、そして第二には、有用な労働にたずさわる人びとの数とそうでない人びとの数との割合によって規制されずにはいない。

ある特定国民の土壌や気候や国土の広さがどうであろうとも、その国民が受ける年々の供給が豊かであるか乏しいかは、そうした特定の情況のなかでの、それら二つの事情によらざるをえない。

 この供給が豊かであるか乏しいかはまたさらに、それら二つの事情のうち後者よりも前者によるところが大きいように思われる。猟師や漁夫からなる未開民族のなかでも、働くことのできる個人は、すべて、多かれ少なかれ、有用労働にたずさわり、自分自身、あるいは彼の家族または種族のうち、狩猟や漁獲に赴くには高齢すぎたり、若すぎたり、病弱にすぎたりするような者を扶養することにつとめる。

しかしながら、そのような民族は極度に貧しいために、彼らの幼児や高齢者や長びく病気にかかっている者を、ときには直接に殺害したり、ときには捨てておいて飢え死にさせたり、野獣に食われるままにする必要に、しばしば迫られるし、あるいはすくなくともそう考える。

これに反し、文明化し繁栄している民族のあいだでは、多数の人びとは全然労働しないのに、働く人びとの大部分よりも一〇倍、しばしば一〇〇倍もの労働の生産物を消費する。

しかしその社会の労働全体の生産物はきわめて多大であるため、万人がしばしば豊富な供給を受けるし、最低・最貧の労働者ですら、倹約かつ勤勉であれば、未開人が獲得しうるよりも大きな割合の生活必需品や便益品を享受することができる。

 労働の生産力のこの増大の原因、および労働の生産物が自然に社会のさまざまな階級や状態の人びとに配分される順序が、本書の第一編の主題をなす。
(アダム・スミス著「国富論@」岩波文庫 p19-20)

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 ギリシア人の場合は、事情は違う。畜群と奢侈品との私有の出現は、個々人のあいだの交換、生産物の商品への転化をもたらした。そしてここにこそ、それ以後の全変革の芽があるのである。

生産者たちがその生産物をもはや自分で直接に消費しないで、交換してそれを手放すようになるやいなや、彼らは自分の生産物にたいする支配権を失った。

彼らは、生産物がどうなるのかはもう知らなかったのであり、そこで生産物がいつかは生産者に敵対的に、生産者の搾取と抑圧とのために、もちいられる可能性が生じた。

それゆえ、どんな社会も、個々人のあいだの交換を廃止しないかぎり、自己自身の生産にたいする支配と、自己の生産過程の社会的諸結果にたいする管理とを長期にわたって維持できないのである。
(エンゲルス著「家族・私有財産・国家の起源」新日本出版社 p151)

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◎「そこで生産物がいつかは生産者に敵対的に、生産者の搾取と抑圧」と……。

「(1)生産手段の社会化は、その所有・管理・運営が、情勢と条件に応じて多様な形態をとりうるものであり、日本社会にふさわしい独自の形態の探究が重要であるが、生産者が主役という社会主義の原則を踏みはずしてはならない。「国有化」や「集団化」の看板で、生産者を抑圧する官僚専制の体制をつくりあげた旧ソ連の誤りは、絶対に再現させてはならない。」(日本共産党綱領)

──深く学び取ってください。