学習通信040524
◎学ぶ……、働く……、

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いやな勉強、するが勉強、ということ

 次の@ABのうち、「よく学びよく遊べ」ということわざの趣旨に合致するものに○をつけよ、という問題をだされたら、あなたはどうしますか?

 @学ぶことだけにかたよってもいけない、遊ぶことだけにかたよってもいけない。
 A遊ばないで勉強ばかりしていると、バカになる。
 B遊んでばかりいて勉強しないと、バカになる。

 @に○をつけない人は、たぶんいないだろうと思います。
 ではAは? じつはこれは"All work and no play makes jack a dull boy"という英語のことわざを、そのいいまわしどおり日本語におきかえたものです。そして、たいていの英和辞典では、「よく学びよく遊べ」がその訳としてあててありますし、また、たいていの和英辞典では、「よく学びよく遊べ」の訳としてこの英語のことわざがあててあります。

 @が○でAも○なら、当然Bも○でしょう。Aが「学ぶことだけにかたよって」いる人(あるいは、学ぶことだけをかたよって強調する人)をとくに念頭においていっているのだとすれば、Bは「遊ぶことだけにかたよって」いる人をとくに念頭においているわけです。つまり、@ABともに○、ということになります。

 学ぶことも遊ぶこともともに大切、ということをいうのに、英語のことわざがとくにAの表現をとっているということは、なかなかに面白い、と思います。もしかしたらイギリスやアメリカでも、「勉強しろ、勉強しろ」とだけいう親や教師がおおいのかもしれません。

 日本のことについていえば、家庭内で使われることばから命令形が消えつつあるようだ、という指摘が新聞に出たことがありました。六〇年代の終わりのことです。命令形が消えつつあるというのは、「行け」「書け」あるいは「行きなさい」「書きなさい」といったいい方があまり使われなくなっているということで、「行ってくれないか」とか「書いてちょうだい」とかいうようないい方までがなくなってきているということではない、と思いますが──

「私の行っている女子大できいてみた。──うちで両親から○○しなさい≠ニ命令されることがありますか? 三つの教室で調べてみたが、子供のときから勉強しなさい∴ネ外、命令形は皆無と、ほとんどの女子学生が答えた」(『日本経済新聞』一九六九年九月一〇日夕刊「ことばの民主化? 命令形≠フない家庭」上田敏晶)

 「命令形」が消えつつあるなかで「勉強しなさい」だけは断固として例外、というのがじつに印象的です。

 右の話を私は、見坊豪紀氏の『ことばのくずかご』(ちくまぶっくす)から拾ってきました。その見坊氏が編者の一人になっている三省堂の『新明解国語辞典』は、なかなか個性的な辞典です。そのことばがじっさいにどういう意味で使われているのかをズバリ示そうとする点で、特別な努力がはらわれているように感じられます。

 この辞典で「学ぶ」の項を見ると、「まねぶ≠フ変化という」と語源を示したうえで、「教わる通りに、本を読んだり物事を考えたり技芸を覚えたりする」と、とり方によってはたいへん皮肉にもきこえる説明がほどこされていました。用例のなかには「よく学びよく遊べ」もあがっていて、この場合の「学び」は「勉強し」と同義、という趣旨の注記があるので、今度は「勉強する」をひいてみると──

「(1)そうする事に抵抗を感じながらも、当面の学業や仕事などに身を入れること。(二)将来の大成・飛躍のためには一時忍ばなければならない、つらい経験。(三)利益を無視して、商品を安く売ること」

 念のため漢和辞典にもあたってみると、「勉」も「強」も「無理してはげむ」「無理やりつとめる」という意味で、中国語としての「勉強」には、昔も今も「無理して努力する」という以外の意味はなく、学習や出血サービスの意味にこの語を使うのは日本だけの特殊な用法、ということのようですが──とにかく一口にまとめると、「いやな勉強、するが勉強」ということになりそうです。

好きな遊び、するが遊び、ということ

 では「遊ぶ」の方はどう説明されているのだろうと『新明解国語辞典』を見ると、「〔命令・強制や義務からではなく、趣味・レクリエーションとして〕自分のしたいと思うことをして時間を過ごす」というぐあいに、「勉強する」とは対照的な説明がほどこされていました。

 ほかの辞書でも、「意義や目的にかかわりなく、興のおもむくままに行動する」(『広辞苑』)、「実生活と離れて物事を楽しむ。好きな事をして楽しむ」(『岩波国語辞典』)などと説明されています。そもそも「日常的な生活から別の世界に身心を解放し、その中で熱中もしくは陶酔する」というのが、このことばのもともとの意味であるそうです(『岩波古語辞典』)。

 とにかく、「辛い」と「甘い」が対照的なことばであるように、「学ぶ」あるいは「勉強する」と「遊ぶ」が対照的なことばであることは、まちがいありません。ふと思いついて『反対語辞典』というのにあたってみましたが、「学ぶ」の反対語は「教える」だが、「遊ぶ」の対照語は「学ぶ」「勉強する」だと、ちゃんと書いてありました。

 「学ぶ」あるいは「勉強する」と「遊ぶ」とがどういう点で対照的なのかを、あらためてまとめてみましょう。

 それ自身はいやなことだけれど、ほかに目的があって、その目的を達成するためのやむをえない手段として、無理してがんばる、というのが「学ぶ」「勉強する」、これにたいして、そんな目的とか意義とかとは無関係に、いいかえればそれ自体が目的で、ただやりたいから、好きだから、たのしいからやる、というのが「遊ぶ」だと、まあこういうことになるでしょうか。「いやな勉強、するが勉強」対「好きな遊び、するが遊び」といってもいいでしょう。

 ところで、こんなふうにまとめてみると、すぐに気がつくことがあります。「学ぶ」と「遊ぶ」とは万里の長城でへだてられていはしないということ──両者はだかいに滲透しあい、転化しあうということです。

 たとえば「勉強がおもしろくてたまらない」「好きだから勉強する」という場合。ここでは「勉強」が、自己目的的な活動という意味での「遊び」に転化している──あるいは、遊びのもつそのような本質的要素をそなえるものになっているのです。反対に「いやいや遊ぶ」という場合には、「遊び」がそのような本質的要素を失って、無理してつとめねばならぬものに転化しているのです。

 勉強もいやいや、遊びもいやいや、となったら、人生はなんとみじめでしょう! 反対に、勉強もたのしい、遊びもたのしい、となったら、人生はなんとすばらしいでしょう!  「よく学びよく遊べ」ということは、勉強もたのしい、遊びもたのしい、ということであってこそ、もっともよく実現されるのではないでしょうか。「遊べ」という命令形が意味していることは、いやでもやらねばならぬ義務だ、ということではないはずです。同じことが「よく学べ」の方にもいえるのではないか、と思います。

 ここで、問題が二つ、出てきます。

 その一つは、「たのしい勉強」の条件は何か、ということです。
 そしてもう一つは、「勉強も遊びもともにたのしい」というとき、勉強と遊びとの間にはなお区別があるのか──あるとすればそれは何か、ということです。
(高田求著「学習のある生活」学習の友社 p42-48)

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 ポスルスウェイトは、とりわけ次のように言う──「私はこのささやかな考察を終わるにあたり労働者(よく働く貧民=jが五日間で、生活するのに十分なものを受け取ることができるならば、彼はまる六日間も働こうとしはしないというあまりにも多くの人々の日にのぼる陳腐な言い方に注意を払わざるをえない。

このことから、彼らは、手工業者とマニュフアクチュア労働者とに休みなしの週六日間の労働を強制するため、租税その他なんらかの手段によって生活必要品をさえも騰貴させる必要があると結論する。

失礼ながら、私は、この王国の労働する人々の永続的な奴隷状態を維持するためにたたかう大政治家たちとは意見を異にすると言わなければならない。

彼らは、「働かせるだけで全然遊ばせない=vとうすのろになる、という諺を忘れている。

イギリス人たちは、これまでイギリス商品に一般的な信用と名声を与えてきた彼らの手工業者とマニュフアクチュア労働者との独創性と熟練とを自慢にしているのではないのか? これはどんな事情のおかげであったか?
 おそらく、わが労働人民が自分なりにうさばらしをするそのやり方のおかげ以外のなにものでもないであろう。

もし彼らが、一週間にまる六日間、絶えず同じ仕事を繰り返しながら、一年中働き通すことを強制されるならば、このことは彼らの独創性をにぶらせ、彼らを機敏かつ熟練にするのでなく愚鈍にするのではなかろうか? そしてわが労働者たちは、そのような永遠の奴隷状態の結果、その名声を維持するどころか失ってしまうのではなかろうか?………このようにひどく酷使された動物から、いったいどのような種類の技量が期待しうるであろうか?……彼らの多くは、フランス人が五日または六日間かかるのと同じ仕事を四日間でする。

しかし、もしイギリス人たちが永遠の苦役労働者であるべきだとすれば、彼らはフランス人以下に退化するおそれがある。

もしわが人民が戦争での勇敢さのゆえに有名であるとすれば、それは、一方では彼らの食う上等なイギリスのロースト・ビーフとプディングとのおかげであり、他方では、それに劣らず、わが自由な立憲精神のおかげであると言われるではないか? それでは、なぜ、わが手工業者とマニュファクチュア労働者たちとの優れた独創性、精力、および熟練が、彼らが自分なりのやり方でうさばらしをする自由のおかげであってはならないのか?
 願わくは、彼らがこれらの特権を決して失うことのなからんことを、また彼らの労働技能の、同時にまた彼らの勇気の源泉となっているよき生活を決して失うことのなからんことを!」と。
(マルクス著「資本論A」新日本出版社 p473-475)

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◎「彼らが自分なりのやり方でうさばらしをする自由のおかげであってはならないのか? 」と。