学習通信040521
◎「健康は最後の目的ではない……最初の条件」と。

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 今度は健康に就て考えて見たい。
 人生にとって健康は目的ではない。しかし最初の条件なのである。何をするにも先ず健康なのである。だから健康の時は人は自分の肉体のことを忘れる。「鞍下(あんか)馬なく、鞍上人なし」という言葉がある。健康の時は、人は肉体を忘れて、自分の仕事をすることが出来る。健康がそこねかけると始めて人は肉体の存在を知らされる。

 歯がいたい時は人は歯の存在を忘れることは出来ない。しかし歯が痛くない時、人は歯を忘れている。ものを食っても味はわかるが歯で噛んでいることは忘れているだろう。食う方にだけ夢中になれる。しかし歯が悪いとそうはゆかない。いやという程歯の存在を感じる。先ずなおすことが必要である。このことは前に書いた。

 健康の価値は病気して始めてわかる。しかし健康になってしまえば、もう健康のことを忘れる。忘れるところが面白いところだ。

 それは人生にとって健康は目的でない証拠である。人間はこの世にしてゆかなければならない使命をもってこの世に生まれたのだ。大事なのはその使命を果すことだ。(使命については後でかく)

 健康が目的ではないのだ。しかし健康でなければ働けない。少なくも健康な程、働くに都合がいい、だから健康は先ず最初の必要条件だ。だから健康をそこねたものは、先ず健康になることが必要である。だからそういうものにとっては健康になること程望ましいことはないのだ。しかし健康になってしまえば、それでその望みは達してしまうのだ。

 腹がへる、へりすぎる、ものが食べたくなる。食べることが健康に必要なのだ。其処で無事に食事にありつける、実にうまい。しかし腹がはってしまえば、それでもう食べたいと思ったことは忘れて、活動し出す。腹がはったあとでも、なお食慾の快楽をむさぼろうとするのは自然ではない。不自然だ。人間は虫がいいから、腹がはってもなお味の快感をむさぼりたくなる場合がある。

しかしそれは健康の為にはならない、不健康な病的な傾向を生じやすい。健全な食慾は腹がはると共に姿を消すべきだ。そして人々はすなおに、未練なく食卓からはなるべきだ。尤も適当な休息は必要で、食ってすぐ活動するのは毒であろう。しかし食事の目的を果して、なお食い気だけ残そうというのは、自然の意志に反している。

 喉がかわく、水をのむことが必要になる。それなのに水をのまないと、益々水がのみたくなる。それで水をのむ。実に生きかえったような喜びを感じる。それは健康に必要だからだ。そして健康に必要なだけの水をのめば、もうあとは飲みたくない。それ以上無理にのませば、拷問である。健康に害があるからだ。人間に先ず健康が必要なのは、これ以上言う必要もあるまい。

 だから人々を健康にする働きは、皆正しい働きであり、仕事だ。だから国民すべてが食えるようにすること、健康に必要なものを国民に与えること、それは政治家の先ず第一の務めである。国民もお互に助けあって、すべての人が食えるように、又住めるように、又着られるようにすることが必要である。

 つまりすべての人が健康を保って生長してゆくことが先ず大事なのである。それが全部ではない。しかしそれが最初の条件だ。

 その為に衛生も必要、医者も必要、運動も必要になるであろう。何が必要であるかは実際家に任せる。

 健康が大事であることを、証明出来れば僕の望みは足りるのだ。そして自然が如何に人間に健康なれと命じているかを暗示出来ればそれで自分の望みは足りるのだ。

 しかし同時にくりかえし言うが、健康は最後の目的ではないのだ。最初の条件なのだ。

──略──
 健康は何度も言うが、最後の目的ではない、最初の条件だ。だから健康なれば肉体の痛みは感じない。健康をそこねる心配のない時、肉体は苦痛を感じない。しかしそれでいいというわけにはゆかないのは言うまでもない。

 例えば、子供が健康だが、意地がわるいとか、弱いものいじめだとか、利己的だとか、怠け者だとか言えば、それは自慢にはならない。それは親にとって不名誉であろう。殊(こと)に乱暴だったり、うそつきだったり、盗癖があったりしたなら親は心配するであろう。

 いくら身体は健康でも、性質が悪くっては面白くない。賞めるわけにはゆかない。そして多くの人に軽蔑されたり、嫌われたりするのはやむを得まい。勿論程度によるが。

 自他の健康を害する行為はよくない。しかし肉体の苦痛は全部悪いもので、それはさけなければならないと、言うのは言い過ぎである。少しの肉体の苦痛も恐れてさけるようになったら、その人は勇気を失う。すぐ健康をとり戻せる程度の疲労や、骨折は恐れるべきではなく、むしろ耐えて働く方が美しい。しかしそれも程度で、とり返しがつかなくなると困るから、肉体の苦痛は耐える方が忍耐が強くって豪(えら)いと一概には言えないことは、くり返し言う必要はないと思う。

 健康の次に我等が気にすべきことは、自己を正しく生かすことである。
 健康ではあるが、自分の生かし方はまちがっているでは困る。健康だったら怠けていいとはゆかない。又健康でいれば、怠けていれば退屈するのがあたりまえで、何か活動する必要がある。人間はこの世に食うために生まれたのではなく、生きるために食うのである。そのように肉体を健全にするために我等は生きているのではなく、健全な肉体は正しく働くためにあるのだ。

人によっては健康第一という意味をとりちがえて、自身の健康を目的にして働く人がある。病身の人にとっては健康になることは第一の目的である。それは腹がへった人にとって第一の目的は食うことであるようなものだ。食って腹がはったものには食うことは目的ではあり得ない。

健康ではあるが働かないというのは、鍬は買ったが、みがく為だというようなものだ。鍬で土を掘るのは勿体ないというような百姓が居たら滑稽であろう。そのように健康を害すると困るから働かないというものも滑稽である。

 尤も働くにもいろいろある。自分の健康を損ねて、しかも他の一人の個人の利己心を満足させるというような労働もある。それは食うためには今の世では仕方がないが正しい世界から見ると、実に勿体ない、不合理な話である。

 万人の人間の生命を、利己的な欲望の為に犠牲にしていいという理由はないのだ。一人の人間の本来の生命は尊敬すべきものである。

 我等が働くのは、人間の生命を尊重することを意味する。隣人の生命に何かの役に立つことを慟くのが、我等の務めである。他人の我利々々(がりがり)や、他人のまちがった欲望の為に働くことは我等の生命を侮辱するものである。

 一つの例をとって言うと、富者の下男下女となって働く時でも、その働くことが、自分の為になり、自分の愛するものの為になる時、それは一概に悪いとは言えない。しかし富者を怠け者にする為に、自分を奴隷にして、自分を卑劣にきり生かさなかったとしたら、それは勿体ない話である。自分を正しく生かせば、他人を正しく生かす為に随分役に立てるのに、それをせず、他人も自分も歪(いびつ)に生かして後悔しないというのは反理性的である。

 自分より秀れた人の指導の下に立って働いて、そしてその秀れた人の仕事を助けることで、自分万人では出来ない程、他の人の生命の為に役にたつことが出来ればそれは美しいことである。しかし下らない人間の、利己的欲望の為に、貴き生命を無駄にするのは、惜しみてもあまりあることだ。そして今の世にはそういう仕事をしないと食えない人が、相当多いらしいのは残念なことである。
(武者小路実篤著「人生論・愛について」新潮文庫 p30-40)

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 それよりももっと恐るべき敵で、人間がそれを防ぐのに同じような手段をもたない他の敵は、生れながらの病弱と幼少と老衰とあらゆる種類の病気である。それはわれわれの弱さの悲しいしるしであり、その始めの三つはすべての動物に共通であるが、最後のものは主として社会生活をする人間に属している。

幼少についてはこういうことが指摘できる。人間の母親は自分の子供をどこへでもつれてゆくので、多くの動物の牝よりもはるかに容易に子供を養うことができる。動物の牝は、一方ではその食物を探すために、他方ではその子供を乳を飲ませたり養ったりするために、たえず非常な苦労にたえて行ったり来たりしなければならないからである。

たしかに、母親が危険におちいれば、彼女とともに子供も危険におちいる恐れは十分にある。しかし、この危険は子供が長いあいだ自分でその食物を探しにゆく能力のない他の多くの動物種にも共通である。

そして、幼少時代がわれわれのほうか動物よりも長いにしても、寿命がやはりそれだけ長いのだから、その点においては、すべてがやはりほとんど平等である。ただし、幼年期の長さや生れる子供の数については別に法則かあるけれども、それは今の私の主題ではない。

動くことも、汗を出すことも少い老人では、食物に対する欲求も、それを供給する能力とともに減退する。そして、未開生活のおかげで、彼らは痛風(つうふう)やリュウマチにはかからないし、老衰はすべての苦しみのなかで人間の力ではもっともやわらげることのできないものだから、ついには、彼らはいなくなったことにだれも気づかないうちに、またほとんど自身でも気づかないうちに、消えて去るのである。

 病気については、私は大部分の健康な人々が医術を非難する空虚であやまったおおげさな言葉をくり返すことはすまい。ただ、この技術がもっとも閑却されている地域では、それがもっとも注意深く研究されている地域よりも、人間の平均寿命か短いと結論できるようななにか動かしがたい意見かあるかどうかを尋ねてみたい。

それにしても医術がわれわれに提供しうる療法よりも、もっと多くの病気にわれわれがかかるのは、一体どうしたことなのであろうか。

生活様式における極端な不平等、ある人々には過度の余暇、他の人々には過度の労働、われわれの食欲と情欲とを容易に剌激し満足させる事態、富者を便秘性の滋味で養ったり、不消化で苦しめたりするこりすぎた美食、貧者の粗食、──それをすら彼らはしばしばこと欠くのであり、そのため彼らはたまたま食べる場合にはがつがつと腹いっぱい詰め込むことになる──さらには、夜更しその他あらゆる種類の不節制、あらゆる情念の過度の激発、精神の疲労困憊(こんぱい)、あらゆる身分で人々か経験しヽそのために魂か永遠に蝕まれる無数の悲哀と苦痛。

これこそ、われわれの不幸の大部分がわれわれ自身の仕業であること、従ってわれわれが自然によって命じられた簡素で一様で孤独な生活様式を守っていたとしたら、恐らくはこれらはほとんどすべて避けられただろうことの忌まわしい証拠である。

自然がもしわれわれを健康であるように運命づけたのなら、私はほとんどこう断言してもいい、思索の状態は自然に反する状態であり、冥想する人間は堕落した動物であると。末開人のりっぱな体格、少くともわれわれの強い酒でそのからだを台なしにされなかった。

 人々の、りっぱな体格を考えてみると、また、彼らがけがと老衰以外にほとんど病気を知らないということがわかってみると、人間の病気の歴史は政治社会の歴史をたどることによって容易に編むことができるだろうと思いたくなる。

それは少くともプラトンの意見である。彼は、トロイの攻囲戦のときボダリリウスとマカオンとによって用いられたか、または認められたいくつかの薬法について、これらの薬がひきおこすことになった各種の病気は当時まだ人々のあいだに知られていなかったという判断を下しているのだ。(そしてケルススは、今日非常に必要になっている食養生はヒポクラテスによって発明されたにすぎないと報告している。)〔一七八二年版〕

 このように病気の源泉はほとんどなかったのだから、自然状態の人間にはほとんど薬の必要がなく、医者はなおさら必要がない。この点についても、また人類はすべての他の動物にくらべて条件はけっして悪くない。そして狩人たちが駆けまわるとき虚弱な動物を多く見出すかどうかは、彼らによってたやすく知ることができる。

彼らの多くは、ひどい傷を負ったのに、それを非常にたくみに治した動物、骨や脚までも折ったのに、しかも時という外科医以外には医者もなく、日常生活以外にはなんの養生法を用いないでなおった動物を見出している。これらの動物は切開で苦しむことも、薬剤で中毒することも、また絶食で痩せることもまったくなかったのに、しかも完全になおっているのである。

要するに、適宜に用いられる医薬がわれわれのあいだではいかに有効であろうとも、病気の未開人は一人だけ見捨てられて、自然のほか望みをかけるものがなにもないけれども、そのかわり彼は自分の病気の外はなにも恐れるものがないことは確かである。これがしばしば、未開人の状態をわれわれの状態よりも好ましいものにする理由である。

 それゆえ、われわれが目の前に見ている人間と、未開人を混同しないように気をつけよう。自然は自分が面倒を見なければならないすべての動物を特別贔屓(ひいき)にする。それは自然がこの権利をいかに大切にしているかということを示すかのようである。

馬や猫や牛や驢馬でさえ、われわれの家にいるときよりは森にいるときのほうが、たいていは背が高く、すべて体格はより頑丈であり、いっそう元気であり、力も強く勇気もある。彼らは家畜になると、これらの長所の半分を失ってしまう。

そこでこれらの動物をたいせつに取り扱い、養おうとするわれわれのすべての心遣いが、かえって彼らを退化させる結果になっているといってもいいくらいである。人間の場合も同様である。社交的となり、奴隷になると、人間は弱く臆病で卑屈になる、そしてついに彼の柔弱で女性化した生活様式は彼の力をも勇気をもすっかり衰弱させてしまう。

なお、未開状態と家に住む状態とを比較した場合、人と人との差異のほうが動物と動物との差異よりも大きいにちがいない。なぜなら、動物と人間とは自然によっては同等に取り扱われたのだから、人間がその飼い馴らす動物よりもよけいに自分に与える便宜は、そっくりそのまま人間をはっきりと堕落させる特殊な原因となっているからである。

 それゆえ、裸体であるとか家がないとか、その他われわれがあんなに必要だと信じているすべての無用のものをもたないことは、これら最初の人類にとってそれほど大きな不幸でもなく、とくに彼らの保存にとってそれほど大きな障害でもない。彼らは毛深い皮膚をもっていないけれども、暖い地方では少しもこれを必要としないし、寒い地方ではやがてその征服した動物の毛皮を自分のものとすることを学ぶ。

彼らは走るために二本の足しかもっていないけれども、自分の防禦(ぼうぎょ)と欲望に供するための二本の腕をもっている。彼らの子供は恐らく歩き方が遅いし、かろうじて歩くだろう。だが、母親がやすやすと子供をはこんでゆく。これは他の動物には欠けている長所であって、そういう動物にあっては、母親は追いかけられると、子供を見捨てるか、または、子供に歩度を合わせるかしなければならない。

(これには、いくつかの例外がありうる。例えば、ニカラガ州のあの動物の例がそうだ。この動物というのは、狐に似ていて、人間の手のような足を持ち、コレアルのいうところでは、腹の下に袋を持っていて母親は逃げなくてはならないとき、子供をその中に入れるという。これは疑いもなくメキシコでトラカツィンというのと同じ動物で、その雌は、同じ用途のために同じような袋を持っているとラエが認めている。)

結局、後でふれるつもりだが、けっして起らないこともありえたあの珍しい偶然な状況の一致を想定しないかぎり、最初に衣服または住居を発明した者が、じつはあまり必要のないものを作ったのだということは、どの点から見ても明らかである。

なぜなら、彼はそのときまでそんなものは無くてもすんだし、なぜ彼が幼時から堪えてきた生活様式に大人になって堪えられなかったのか、その理由がわからないからである。

 ひとりでいて、なにもしないで常に危険に脅かされている未開人は、動物と同じように眠ることを好み、浅い眠けを感じるにちがいない。動物は、ほとんど考えるということがないので、いわば考えないときはいつも眠っている。

自分自身の保存が未開人のほとんど唯一の心づかいなのだから、彼のもっとも修練のつんだ能力とは、獲物を抑えるためにしろ、他の動物の獲物とならないように身を守るためにしろ、攻撃と防禦とを主要な目的とする能力であるにちがいない。

反対にご柔弱と情欲とによってはじめて完成される器官は、いつまでも粗野な状態にとどまるにちがいなく、そのため彼の心にはどんな種類の繊細さも入りこむ余地がなくなる。そしてこの点で彼の感覚は二つに分れることとなり、触覚と味覚は、極端に粗野になり、視覚と聴覚と嗅覚は、はなはだしく鋭敏になるだろう。

一般に、動物の状態とは、このようなものであり、それがまた、旅行家たちの報告によれば、大部分の未開民族の状態でもある。

だから、喜望峰のホッテントット人が、オランダ人が望遠鏡で見るのと同じくらい遠方の外洋にいる船を、肉眼で発見するからといって驚くにはあたらないし、また、アメリカ未開人が、もっとも良種の犬でなくてはできないほどに、足跡でスペイン人を嗅ぎつけるからといっても、あるいはまた、すべてこれらの野蛮な民族が、平気でその裸体生活に堪え、唐辛子を用いてその味覚を剌激し、ヨーロッパの酒類を水のように飲むからといって、驚くにもあたらない。

 以上私は身体的な人間のみを考察してきた。今度は人間を形而上学的および道徳的側面から眺めることにつとめよう。
(ルソー著「人間不平等起源論」岩波文庫 p46-51)

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◎「あらゆる種類の病気……主として社会生活をする人間に属している」と。先日テレビでアマゾン側の秘境で生活する原住民のなかで、現代社会との接触≠ナ絶滅してしてまった族≠ェあることが報道されていた。
◎健康が目的ではない……。あなたの保健思想って。