学習通信040517
◎金が人を変える……。

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平日はケチケチ。
休みはパーッと。
お金は幸せづくりのツールなのだ。

 それでは満足とお金の関係とは、どんなものだろうか。
 工業製品の満足度はスペックを見ればいい。だから機械は性能に比例して、値段が高くなる。けれどサービス分野では満足度を簡単に測ることができない。サービスを受ける側にも満足度を左右する要因があるからだ。サービス業は生産と消費が同時におこなわれる特徴があるから、事前に値段をつけにくい要素もある。質の高いサービス=高額では、かならずしもない。

 現在、日本の産業はサービス業化しているから、私たちの満足とお金の関係も変わりつつある。成功者も人の満足感を満たす業種から出始めている。ヒット製品の開発者ではなく、ヒット音楽のプロデューサーがお金持ちになるようになってきた。

 満足には値段がつけにくいから、安売りが商売の鉄則という時代は終わりつつある。サービスそのものも「接待」から、サービスを提供する者とお客が一緒になって騒ぐことが成功の条件に変わってきた。それはディズニランドがいい例だろう。参加は満足の大条件である。

 とはいうものの、消費者が次から次へと満足を追求していては、お金がいくらあっても足りない。満足は大切だが、満足ばかり求めていては破産してしまう。そこで人間が発明した知恵は、「平日はコスト・バフォーマンス重視。休みは予算を決めたらあとはコストを考えない」である。つまりハレとケ。コスト・パフォーマンスだけでも、満足だけでも不十分で、この三つのバランスを取りながら、その変化を楽しむことが心と人生を豊かにするのである。

 これを究極的に実践しているのがインディアンの、ある部族のお祭りである。彼らのお祭りは年に一回、三日間だけ続くが、その準備のために残りの三六二日を費やす。お祭りのときに着る衣装や特別料理、セレモニー用の道具や舞台を一年かけてつくる。いよいよお祭りの本番になると、その三日間は仕事をせずにひたすら騒ぐ。

 そして最終日の晩には、お祭り用の衣装や食べ残しか料理、その他いっさいを土に埋めてしまう。残り物を保存して、また使うという発想がない。お祭りが終わると、来年の三日間のために、ふたたびケチケチした生活を一年間送る。

 こうしたインディアンたちのお祭りは、完全なる人間になりたいという欲望の表れではないだろうか。完全な人間は何の不安もなく生きていける。明日の食物や衣服の心配をしなくてもよい。誰もがそういった生活を夢見ているが、現実には無理である。しかし、一生は無理かもしれないが、一年に三日間だけなら誰でも完全なる人間に変身できる。それをするのがお祭りで、その結果残りの三六二日にもプラスの意味が生まれる。

 これこそ人間本来の生き方のような気がするが、いかがだろう。少なくとも学校ではこんな経済学や社会学や人生論は教えない。
 多くの日本人は頭だけで考えて、このお祭りを無駄だと感じてしまうかもしれない。考え方がコスト・パフォーマンスの分析に偏っているのである。食べ残しを貯蔵したり、無駄な出費を抑えてケチケチするのは、悪いことではないが、目標がなければむなしい。

 しかし、面白いことにケチケチすることが目標になれば、ケチケチにも満足感が生まれる。そういう満足感が、私も含めて多くの日本人にしみついているが、これではせっかく勤勉に働いて豊かになっても、その実感を味わうことができない。日本人は貯めるだけで使えない人間が多いが、そういう人はやがて馴されるか、幸い死ぬまで馴されなかった場合は相続税をたくさん取られることになる。インディアンに自分たちを見習えと言われそうである。

 幸せな生活を送るためには、お金とのつきあい方をきちんと考えることが不可欠である。お金とは何かを想像力豊かに考え、価値の本質を見抜き、周りに流されない意志を持って行動する。お金そのものが幸せなのではなく、幸せをつくったり支えたりするツールがお金なのである。
(日下公人著「お金の本」竹村出版 p40-43)

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 勝負ごとは金持ちのする遊びではない。それはなんにもすることがない人間のなぐさみごとだ。ところが、わたしの楽しみはいろいろな仕事をわたしにさせることになるだろうから、そんなくだらないことをして過ごす時間を十分に残しておいてはくれまい。わたしは現在、孤独な貧しい人間なので、勝負ごとは全然しない。

もっとも、たまに将棋をすることはあるが、それも余計なことだ。もし金持ちだとしたら、わたしはなおさら勝負ごとはしないだろうし、してもごくささやかな賭けにとどめるだろう。不満な人の顔を見ないように、自分も不満を感じないようにするためだ。勝負ごとにたいする興味は、富裕な人のばあいには動機がないことになるので、頭の悪い人は別として、けっして気ちがいじみたことになるようなことはない。

金持ちが勝負ごとでもうけることができる金は、いつでも、損する金よりも大したものとは感じられない。それに、かなりの程度の勝負ごとのしくみは、いずれはもうけを吐きださせてしまうもので、一般的にいって、それはもうけさせるよりも損をさせるほうが多いことになるから、よく考えてみれば、あらゆる危険が自分にふりかかってくる遊びごとがそんなに好きになれるはずはない。

運命の恵みを誇って得意になるような人も、もっとずっと刺激的なことにそれをもとめることができるのだし、ささやかな賭けでは大きな賭けにおけるほどそういう恵みが示されないわけでもないのだ。勝負ごとにたいする趣味は、貪欲と退屈の結果で、空虚な精神、空虚な心にだけ根をおろすのだが、わたしはそういう補いを必要としない程度の感情と知識をもっているつもりだ。ものを考える人がひじょうに勝負ごとを好んだというのはめったに見られないことだ。それは考える習慣を停止させるか、発展性のない計画へむけさせる。

そこで、学問にたいする好みが生みだしたよいことの一つ、いや、おそらくただ一つのよいことは、この品の悪い道楽をいくらかでもやめさせることだ。人々は勝負ごとに熱中するよりも、その効用の証明をこころみることを好むようになるだろう。わたしはといえば、わたしは勝負ごとを好む人たちのいるところでそれを非難するだろうし、かれらの金を巻き上げることよりも、かれらが損をするのを見て笑ってやることに、いっそう多くの楽しさを感じるだろう。
(ルソー著「エミール -中-」岩波文庫 p294-295)

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 友人や愛人は金で買えるものではない。金で女を手に入れるのはやさしいことだが、この方法ではどんな女の愛人にもなることはできまい。愛は売り物ではなく、はんたいに、金はかならず愛をなくさせてしまう。金を出す男は、だれよりも愛すべき男だったとしても、金を出すからこそ、長く愛されることにならない。

そういう男は、いずれはほかの男のかわりに金を出していることになる。いや、むしろ、そのほかの男が金をもらうことになる。そして、利害によって、淫欲によって結ばれ、愛もなく、貞節もなく、ほんとうの快楽もない、そういう三角関係をつづけている、欲ばりで不実でみじめな女は、金をくれるばか者を彼女があしらうのと同じ態度で、金をうけとるいやしい男からあしらわれるので、けっきょくどちらの男にも負い目を感じない。

愛する者に惜しみなくあたえるのは気持ちのいいことだが、それが取り引きになってはだめだ。愛を不純なものにすることなしに、愛人にたいしてそういう気質を満足させる方法を、わたしは一つしか知らない。それは、愛人になにもかもやってしまって、あとは彼女に養ってもらうことだ。問題はただ、そういうやりかたをしても無茶なことにはならない女性が、どこにいるかということだ。
(ルソー著「エミール -中-」岩波文庫 p296)

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 もういちど言っておくが、排他的な楽しみは楽しみを殺す。ほんとうの楽しみは民衆と分けあう楽しみだ。自分ひとりで楽しみたいと思うことは楽しみではなくなる。わたしの庭園のまわりに囲いの壁をめぐらして、そこを閉じられた陰気な場所にしたのでは、わたしは多くの費用をかけて散歩の楽しみを自分からとりあげただけだ。わたしは散歩する場所をさがして遠くまで行かなければならなくなる。

所有権という魔物はそれがふれるいっさいのものを毒する。金持ちはいたるところで主人になりたいと思いながら、主人でないところでしかいい気分になれない。かれはいつも自分を避けなければならないのだ。この点わたしは、金持ちになっても貧しかったときと同じようにする。

いまでは、他人の財産によって、自分の財産だけではけっしてなれないような財産家になっているわたしは、近所にあるぬので自分に都合のいいものはすべて占領することにする。わたし以上に徹底的な征服者はいないのだ。王さまのものだろうと奪いとってやる。囲ってなければ、わたしの気にいった土地はどこでもおかまいなしに手に入れる。その士地にわたしは名前をつける。あるところはわたしの庭園に、あるところは築山にして、それを自分のものにしてしまう。

そうしておいて、人からとがめられることもなく、そこを歩きまわる。たびたびやってきて、所有権を確保する。歩きまわって思う存分に地面をすりへらしてやる。わたしが自分のものにした士地の正式の所有者は、わたしがその土地からひきだしているよりもいっそう多くの効用を、それがかれにもたらす金からひきだしていると言ったところで、わたしはけっしてなっとくしないだろう。

堀をつくったり、垣をめぐらしたりして人がいやがらせをしようとしても、わたしはたいして気にしない。わたしは自分の庭園を肩にかついで、どこかほかのところへもっていく。そのあたりに適当な場所がないわけではないし、わたしが安んじていられるところがなくなるまでには、十分ながいあいだ隣人たちの土地を荒らしてやれるだろう。

 以上、ひまな時間を楽しく過ごすにはなにをしたらいいかということで、ほんとうの趣味とはどういうものかいくらか示してみたわけだ。どういう精神で楽しむべきかこれでわかったわけだ。ほかのことはすべて、錯覚、幻影、愚かな虚栄心にすぎない。こういう規則からはなれる者は、どんなに金持ちだろうと、その金をくだらないことにつかいはたして、けっして人生の価値を知ることはあるまい。

 おそらく人はわたしに抗議して、そういう楽しみはすべての人がすぐ手にいれられるもので、そういう楽しみを味わうためには金持ちになる必要はない、と言うだろう。わたしはまさにそれを言いたかったのだ。楽しみは楽しみたいと思えば味わえるのだ。

臆見だけがなにもかもことをむずかしくして、幸福を先へ先へとかりたてていくのだ。そして、幸福になるのは、幸福らしく見せかけるよりはるかにやさしいことなのだ。趣味の人、ほんとうに快楽を愛する人には、財産などなんの使いみちもない。自由で、自分を支配することができれば、それで十分なのだ。健康な体をもち、生活に必要なものにことかかない人なら、自分の心から臆見にもとづく幸福を捨ててしまえば、十分豊かな人間になれる。それがホラティウスの「黄金の中庸」だ。

金庫をもっている人よ、だからあなたがたの富をなにか別のことにつかうように心がけるがいい。楽しむためには富はなんの役にもたたないのだ。エミールはすべてこういうことをわたしよりもよく知ることにはなるまい。しかし、わたしよりも純粋で健康な心をもっているかれは、そのことをずっとよく感じているだろうし、かれが世間にあって観察することはすべて、それを確認させてくれるだけだろう。

 こんなふうに時を過ごしながら、わたしたちはたえずソフィーをさがしているのだが、ソフィーはみつからない。そんなにはやくみつからないようにする必要があったのだ。だから、わたしたちは、ソフィーがいないことがわたしには確実にわかっているところに、彼女をさがしていたのだ。

 しかしもう、時はせまっている。いまや真剣にソフィーをさがすときだ。でなければ、エミールは、ソフィーらしきものをみつけだして、それをほんもののソフィーだと思い、思いちがいに気がついたときにはもうおそい、ということになる恐れもある。

そこで、パリよ、さらば。この高名な都、騒音の都、はかない煙の都、泥まみれの都では、女は貞操というものを、男もまた美徳というものを、まじめに考えようとはしなくなっている。

さらば、パリよ。わたしたちは愛を、幸福を、けがれを知らない心をもとめている。だから、おまえからどんなに遠くはなれても、これでいいということにはなるまい。
(ルソー著「エミール -中-」岩波文庫 p306-309)

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◎日本を跋扈する拝金主義=c…。