学習通信040516
◎あなたは偏っている……。

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 申しあげるのもまことにおはずかしいような次第でありますが、私は、過去何十年にわたって、ほとんどわき目もふらずにひたむきな求道者の生活をつづけてきたものであります。世の中がどんなに汚れにみちていようと、自分だけは何とかしてその濁流にそまないで生きて行きたい。そのためにはもとよりあらゆるまずしさもたえしのばなくてはならないかもしれない。

名誉も地位も栄達もそれらの一切をふりすてる覚悟をもたねばならないかもしれない。だがどんなことがあっても自分の魂を他にうりわたすようなことだけはしたくない。あたかも泥土に根を下ろす蓮の花が、そのあらゆる環境の醜悪にもかかわらず、まっ白な花をひらいて一点の汚点をもとどめないように、私もまたどこまでも人生をいつわらず、自己の真実をまげることなしに生きぬいて行きたい。

これが私の若い時以来の一貫した願いでありました。そのためには時にキリスト教の教会の門をたたいたこともありました。仏典もひもといて一生けんめいによみふけったこともありました。無上道とか無がいの一道とかいうような言葉がしきりに私の魂を打ったのも、そのころのことでした。

たとえ世の中がどんなににごりくさっているにしても、そこには何かひとつくらい「これだけは」というような絶対の真理、唯一無上の究極の真実というものがあるはずだ、それをはっきりとつかみ、自己の生活の第一原理として生かしてゆくところに、はじめて私が一人の人間としてこの世に生まれて来た生き甲斐というものがあると考えたのであります。

しかしそうした真理をほんとうに自分のものとしてつかむことは容易なことではありませんでした。臨済録に「心法は形なし、十方に通貫す、眼にあっては見といい、耳にあっては聞という」などということばがありますが、真理というものはきわめて身近なところに、至るところつかみうるようでありながら、いざ本気になってこれをはっきりとわがものとしようとするとあいまいもことしてにげてしまう。

「みゃくちゃくすればうたた遠く、これをもとむればうたたそむく」といわれるように求めれば求めるほどいよいよわからなくなるばかりでありました。

 それにしても私たちの周囲の現実の事態は、何ひとつとして自己のよりどころとすることのできるような真実なものはなく、世をあげてうそでかためられたようなものでありました。

真宗聖典のひとつである『歎異抄』という書物には「煩悩具足の凡夫、火宅無常の世界は、よろずのこと、みなもて、そらごと、たわごと、まことあることなきに」とありますが、まことに親鸞上人のような方も、人間の生活のあさましいすがたというものを底の底までみきわめて、どうにもならないところから念仏の世界へと入っていったものでありましょう。

彼が世を去ってから時をふること七百幾十年、その間社会は幾変遷したのでありますが、私たちの日常的世界が「そらごとたわごと」一つとしてまことあることなき社会であるという一点に関しては少しも変化していない。むしろほかのことはかわらなくてよいからこの点だけはほんの少しでもかわってくれたらと思うのでありますが、事実はその逆で、何かしらそこに人間永遠の「業」とでもいうべきものがよこたわっているのではないかとさえ感ぜられるほどなのであります。

お互いがのんだり食ったりして利害が相一致している間は別に何のさしさわりもなくまさつもないのでありますが、さて何か重大な場面に立ち至って、この時こそお互いが真実によって結びつかなければならないというような時になってみると、だれ一人としてほんとうに信頼できる人がいない。自分の目さきの利益のためにみんながうそばかりつき合っている。

人間生活の根源的なぎまん性、空無性というものにつきあたってしまうのであります。世の中にだれか一人でもよい、この人だけは真実の人だ、最後まで信頼のできる人だというような人をただの一人でももっている人があれば、その人はまことにめずらしく幸福にめぐまれた人であるといわなければならないでありましょう。それほどまでに真実というものは私たちの間にはまれにしか見いだすとこができないのであります。

 それなら私たち人間はその本性によって真実よりも虚偽を愛する存在なのでありましょうか? 人の世が古今東西をとわずすべてそらごとたわごとの世界であることは、人間の本性そのものにもとづいてそうなのでありましょうか。もしそうであるとすれば、私たちはあきらめるのほかはないか、親鸞のように救いを念仏にでも求めるのほかはないでありましょう。人間を人間でなくすることができないかぎり、私たちの社会を現在のようなものとはちがったものとすることは不可能であるといわねばならないでありましょう。

しかし私はそうは考えません。人間をその自然の本性のままにしておくならば、決して真実よりも虚偽を愛するなどというものではありません。そんな人は一人もいないはずであります。どれほど私たちの現実がいつわりにみちているにもせよ、否、そうであればあるほど人々は逆に深く切実に真実をもとめてやまない。

虚偽をきらい真実を愛する──そこに人間の本性があるのであります。物の真実にふれたいという希望、人生の真実に生きたいという願い──それは生きとし生けるすべての人にもっとも普遍的な本性的要求であるといわなくてはなりません。

 ところがそれにもかかわらず、こうした人たちが集まって社会をつくるという段になると、どうしたものかどこにもここにもそろっていいあわせたように、虚偽にみちた社会となってしまう。むしろうそをいわなくては生きてゆくことすらできないような世の中になってしまう。これは考えてみればまことに不思議な現象ともいうべきでありましょう。すべての人がその本性によって真実を愛するというなら、そういう人たちが集まってつくる社会は、少なくとも真実の方が虚偽よりも優位な社会がでてこなければならないはずです。

それがそうならないというにはそこに何らかの理由がなければなりません。諸君はそうした問題を真剣に自己の問題としてとりあげてお考えになったことはありませんか。この不思議を不思議だと思って首をかしげたことはありませんか。私は一人の求道者として数十年間この問題ととっくんでなやみつづけて来たのでありますが、最近になってようやく一つの結論に達することができたのであります。

私たちのすべてが虚偽をきらい真実を愛するにもかかわらずかかる人々があつまって社会をつくると、そこではもはやいかなる真実というものもなく、そらごとたわごと一つとしてまことあることなき世の中をつくってしまう、むしろ心にもないうそをいうのでなければ生きる権利をさえもうばわれてしまうようになるのは何によるのであるか? それはかくして生じた社会秩序の基礎構造の中に人間の本性をゆがめるようなものが横たわっているからであると考えるのほかはありません。しからばそれは何か、私の考えによれば、それは社会が階級的であるということにもとづくのであります。
(柳田謙十郎著「人生論」創文社 p17-20)

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「かたより」について

 左巻きと右巻き
 「先生の話、ちょっとかたよってるみたい」といわれたことがある。あるサークルでのことだった。そこで、おおいに反省しながら、「かたよる」とはどういうことかについて、みんなで話しあった。

 「あれは右だ、とか左だ、とかいうだろう。あの右とか左とかいうのは何だろうな」とA君が問題をだした。
 「きまってるじゃないか、君はぼくの右にすわってるし、ぼくは君の左にすわってる。そういうことだよ」とB君がまぜかえした。

 「アラ、私の方から見れば、B君の方がA君の右になるわよ」とC子がいった。

 たしかにそうだ。左とか右とかいう場合、なにを基準にとるかが、まず問題だろう。たとえば、アサガオのツルの巻きかたを、日本ではふつう左巻きという。ところが、西洋ではそれを右巻きというのがふつうだ。日本と西洋とで、アサガオのツルの巻きかたが反対になるわけではない。日本のアサガオも西洋のアサガオも、ツルの巻きかたは同じだ。ただ、左巻きとか右巻きとかいう場合の基準のとりかたが、日本と西洋とではちがっているというだけ。

 「つまり、右とか左とかいうのは、まったく相対的なもの、ということね」とD子がいった。

 「そうなると」とC子がひきとった。
 「なにを基準にして右左をいうのかは、人しだいよね。B君は自分を基準にとるし、私は私を基準にとるし。つまり、客観的な基準なんてないわけね」

 「ちょっと、それはちがうと思うけどなぁ」とA君。
 「わからなくなったな」とB君がいった。

 基準をどこに?
 「だからさ」とこのあたりでE君が登場してくるのかもしれない。
 「めいめいが自分の立場に固執して、エゴをはっていては、どうにもならない。世の中にはいろんな立場、考えがあっておたがいにつのつきあっているんだが、そのどれにも立たず、そのすべてから等距離中間のところに身をおく、これこそかたよらない中≠フ立場だ……」

 「もっともじゃないの」ということになるだろうか。
 これは、「かたよらない」ということについてのすこぶるかたよった見かたに立つものだ、と私は思う。かたよった見かた、と私がいうのは、真理から見て、ということだ。

 たとえば「一たす一は二だ」とある人が頑固に主張してゆずらなかったとする。頑固に主張してゆずらないのはあたりまえだと思うけれど。すると第二の人物が、「いや、一たす一は二ではなくて六だ」と、これまた頑固に主張してゆずらない。「一たす一は二だ」「いや六だ」と、両者、火花をちらして争う。

なんだか自共対決みたいな話だけど、そこへ第三の男が(第三の女だっていいけれど)登場して、「どちらの立場に立ってもかたよるから、たして二で割れ。一たす一は四、これこそかたよらない中道、中正の立場だ」といったとすれば、人はこれをなんというだろうか。

 健全な常識をそなえた人であるかぎり、一たす一は六、というのに×をつけるとともに、一たす一は四、というのにもやっぱり×をつけるだろう。×であることにちがいはない。ちがいがあるとすれば、それはせいぜい、メクソとハナクソ程度のちがいだ。

 このことは、なにを意味するか。真理と虚偽の中間はない、ということ。真理と虚偽の中間は、虚偽でしかない、ということ。
 すなわち、真理と虚偽の対立にあっては、断固として真理のがわに「かたよる」ことが必要だ、ということ。それこそが、真理から見て「かたよらない」態度だ、ということ。

 民主主義とはなにか
 そうではなかろうか。科学と非科学の中間は、やっぱり非科学だ。天動説と地動説との対立において、天動説のがわにも立つな、地動説のがわにも立つな、両者から等距離中間の立場に立て、などといったら、なんのことやらわけはわからなくなる。

 「どの立場にもかたよらない中道の立場、それこそが民主主義だ」という人もいるけれど、いいかげんなウソ、それこそいいかげんにしやがれ、と思う。民主主義とは、反民主主義との対立において、断固として勤労者の権利、人民主権のがわに立つこと、「かたよる」ことだ。

 働かないのらくらものの貴族が絶対的な権力をほしいままにしていた、そういう状態にたいして、断固として勤労の尊厳、勤労者の権利、人民主権の旗をかかげるところから、近代民主主義はスタートした。近代民主主義の原点であるイギリス革命、フランス革命、みなそうだった。アメリカ独立革命の指導理念も、やはりそこにあった。

 「立ち働いている農夫はすわっている紳士よりも尊い」というフランクリンのことばは、そのことをよく示しているだろう。もちろん、「すわっている紳士」はこのことばを「かたよっている」と非難するだろうが。
 民主主義と反民主主義との中間は、やはり反民主主義だろう。すくなくとも、非民主主義以外ではありえない。

 「そうだ、わかった! 」とA君がいった。
 「つまり、右とか左とかいうのは、民主主義を基準としていうんだ」
 「そうね。アラ、でもそれじゃあやっぱり、右も左も民主主義からはずれてて、中道≠アそが民主主義ということになりゃしない?」とC子がいった。

 「ちょっと、それはちがうと思うけどなあ」と、またA君。
 「わからなくなったな」と、またB君がいった。

 あなた好みの人生
 思いだした。奥村チヨさんの歌った「恋の奴隷」の歌。あれがはやったのは一九六九年、「激動の七〇年代」のちょうど前夜だった。あれで奥村さんは売りだしたのだ。紅白歌合戦に彼女が初登場したのも、たしかあの年。もっとも、紅白で彼女が歌ったのは「恋の奴隷」じゃなくって、たしか「恋泥棒」のほうだったと思うけど。

 それはともかく、「恋の奴隷」のたしか二番には「右といわれりゃ右むいて、とてもしあわせ」ということばがあった。あそこに歌われていた「右」とはなんだろう。

 「あなたとあったその日から、恋の奴隷になりました」とその歌ははじまっていた。「あなたのひざにからみつく小犬のように」とつづいて、さらに「わるいときは、どうぞぶってね」とくる。以上、一番。

 「右といわれりゃ右むいて……」というのが二番で、「好きなように私をかえて」というのが、三番。このように歌いあげられている「あなた好み」の生きかたは、いったい、人間の人間らしい生きかただろうか。「あなたのひざにからみつく小犬のように」とは、よくもいったものだ。それは非人間的なイヌコロ的な生きかたを芸術的に形象化したもの、というほかはあるまい。

 つまり、まともな人間らしい生きかたから見てグーッとイヌコロ人生のほうにかたよっている、それを「右」といっているわけだ。

 イヌコロ人生をよしとする連中、それを私たちに強制しようとする連中、そういう連中の立場から見れば、人間の人間らしい生きかたを追求しようとする生きかたは「左」に見えもしよう。そういう連中が、私たちを「左にかたよっている」というならばいえ。それは、自分たちが右だということの告白にすぎない。私たちはあくまでも、人間の人間らしいまともな生きかたを追求するだろう。

 では、その人間らしい生きかた≠ニはなにか、ということになるが、ここに最低、まちがいのないことが一つある。それは、非人間的なイヌコロ人生を私たちに強制してくるものにたいして断固としてたたかうということをよそに、人間らしい生きかたなんてありえない、ということだ。

 非人間的な立場と、これにたいして断固たたかう立場と、その中間に人間らしい生きかたがあるなんて、それこそかたよりもいいところだろう。真理から見て、だよ。そういう「かたよった」主張、非人間的な主張とたたかうこと。真の人間らしさというものは、そのなかで育っていくんじゃなかろうか。
(高田求著「新人生論ノート」新日本出版社 p220-226)

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◎人間らしい生き方≠ィぉ〜。労働学校で学ぶ個性はなんによって輝くか≠セ。

◎「右といわれりゃ右むいて……」恋の奴隷=@30年以上の前のものだが、現代でもあるではないだろうか。