学習通信040513
◎「運命」というのは、自分に負けているとき出てくることば……。

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「運」を運べ

 V9を含めて監督として、わたしは十一回日本シリーズに出て全勝することができた。今考えても罰当たりな記録だが、人に訊かれると「たまたまの運です。偶然ですよ」というのだが、謙遜だけでいっているのではない。ていねいに説明すれば「運は運だが、真剣にやったればこその運。真剣にやれば幸運を招くのですよ」というのが真意だ。

 勝つか負けるか、予断を許さぬ勝負の世界では、結果をいう前に最善の努力を払うしかない。当たりまえのことだがこれしかない。それがプロの道、勝負の世界の鉄則だ。

 「あれほどの努力を人は運といい」という川柳があるが、「運」という字は運ぶと書く。

 わたしが忘れられない日本シリーズでの試合は、V8の1972年(昭和47)、阪急(現オリックス)とのシリーズ第四戦だ。

 巨人が2点リードして迎えた九回裏、無死一、二塁のピンチで、エースの堀内に四連投、予定外の救援を頼んだ。堀内のウオームアップが終ると、牧野コーチをマウンドにやって守備態勢の打ち合わせを行なわせた。西本監督はここで一気に逆転を狙う強攻策でくると見たが、念のためマウンドに内野手全員を集めての打ち合わせを命じたのである。

「バントはないと思うが、とりあえず様子を見よう。堀内はセットポジションから一球だけ、二塁に牽制球を投げてみる」という作戦だった。阪急のバッターは捕手の岡田。堀内は岡田に対しながら打ち合わせた通り、まず二塁に牽制球を送った。スタンドの緊張は頂点に達していたので、この間をはずす牽制球に、ふうっという大きな溜め息がわきあがった−。

 次に第一球、堀内がセットポジションをとると、岡田は早々とバントの構えをとったのである。これは強攻するための陽動作戦だ、とわたしは直感し、内野手も全員そう思ったという。次の瞬間、一塁の王だけが万一のバントに備えて前進守備をとり、ほかの野手はダブルプレーに備えるポジションをとった。案の定、岡田はバントの構えから一転、強振した。ところがそれは火の出るような低いライナーだ。

 その当たりはしかし幸運にも、ショート黒江の真正面に飛び、黒江からの送球が二塁に入った土井にわたって、一転してダブルプレーの完成だ。このあともなおピンチは続いたが、ヤマ場はこの場面だった。

 試合が終ってベンチヘ引きあげてくるナインを迎えに出たわたしは、堀内の顔を見て息をのんだ。堀内の顔は真っ青で、無理して笑おうとするのだが、両ほおがこわばって笑顔にならないのである。

 ホテルヘ帰るバスの中で、ONやベテランが「お前は運がいいやつだ」と堀内をひやかした。すると、やっと人心地がついた堀内が持ち前の調子で強気に「いやあ、一生懸命にやればライナーだって真正面に飛ぶんです」といい返したのである。

 運とは自分で運ぶもの、真剣にやれば幸運を呼ぶといってきたが、十一度の日本シリーズのなかでこの第四戦がそれを立証するクライマックスだった。曹洞宗開祖の道元禅師は『正法眼蔵随聞記』に、「切に思わば必ず得べし」といっている。勝利は必然、と改めて確認したのがこの試合だった。忘れられない記憶である。
(川上哲治著「遺言」文春文庫 p115-117)

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 運命に負けないとき

 そこで、けっきょく、運命というものは、あるのかないのか?
 運命に負けるとき、運命は運命となる。運命に負けないとき、運命は運命でなくなる。私はそう思う。

 「運命」というのは、自分に負けているとき出てくることばではなかろうか。

 「自分の意志ではどうにもならないことを運命というんだとすれば、そもそもからして人間は自分の意志で生まれてくるわけじゃないんだから、やっぱり運命というものはある」とA君はいった。しかし、考えてみるとこのA君のことばは、もっともなようでいて、ちょっとおかしい。

 だって、生まれてこなければ「自分の意志」というものも、そもそもありようがなかったはずなのだから。私たちは自分の意志によることなく生まれてきたが、こうして生まれ育つなかで、自分の意志というものも育ってきた。これからの自分の人生をどのようなものとするかは、その自分の意志をどのようにもつかによる。まさか、生まれたときの星座の配置で、私たちの一生のありかたがすでにきまってしまっているわけではあるまい。

 「運も実力のうち」

 「運命」とほぼ同義語で、もう少ししめり気が少ない感じのことばに「運」というのがある。そして、これについては将棋の第十四世名人木村義雄氏が「運も実力のうち」といっている。

 これは、至言だと思う。人間というものをよく知り、自分というものをよく知っている人の、これはことばだと思う。

 将棋や碁の世界は、実力の世界だという。「運がよかったから勝った」とか「運がわるかったから負けた」とかいうが、その「運」とはほかでもない、実力のあらわれだということだ。

 「運」を「チャンス」といいかえてみよう。そうすればすぐにあきらかなことは、どんないいチャンスがあったとしても、実力がなければそのチャンスをいかすことなどできないということだ。そんなチャンスがあることに気づきさえしないかもしれない。

 いや、そもそも「いいチャンス」にしろ「わるいチャンス」にしろ、ひとりでにふってわくものではない。自分の実力とのかかわりであらわれるものだ。

 そうしたことをわきまえている人の、あれはことばなのだと思う。そうして、つねに自分の実力を謙虚に見つめ、のばそうとしている人の。

 こうした態度でのぞんでいるかぎり、勝負の時間と同様、人生の時間は、つねにかぎりない可能性にみちたものとしてあらわれるはずだと思う。
(高田求著「新人生論ノート」新日本出版社 p16-17)

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◎あなたの運♀マはどうでしょう。