学習通信040510
◎あやまり≠ただすことの出来る力は……。

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 実際、日本のオトナたちは何をしてきたのか。第二次世界大戦の総括を、逃げに逃げつづけた五十年ではなかったか。

 総括とは、個々ばらばらのものを一つにまとめることである。日本現代史の研究者たちが怠けていたわけではない。ただ、それらの仕事をまとめて一つにする作業は誰もしなかった。おかげで、われわれはいまだにこれについてはっきりした視点をもてないでいる。日本人がもてないでいるのに、外国人がもてるわけがない。

 あの戦争は、どのような原因ではじまったのか。そして、どのような経過をたどったのか。南京で起ったという虐殺事件では、ほんとうに何人が殺されたのか。戦争直前、そして戦争の継続している間、決定権をもっていたのは誰と誰で、彼らはどう行動したのか。マスコミもふくめたいわゆる民意は、実際はどうであったのか。

 この種の総括に必要なのは、「怖れいりました」というたぐいの反省ではない。また、ある種の主義に寄りかかっての責任追及や糾弾の態度でもない。そんなことをしているかぎり、不毛はいつまでも続くだろう。総括に必要なのは、厳密な客観性である。あらゆる資料を集め、それらを客観的な視点で整理し、まとめること。

 そうやってはじめて、直接の被害者である近隣諸国にも自分たちの子供にも、真相を伝えることができるようになるのではないだろうか。そしてそれをやることで、半世紀にわたって逃げまわってきた日本人も、もう逃げないですむようになるのである。

 反省という言葉の意味には、自分をかえりみること、という意味の他に、自己の行為または意識について、善悪などの判断をくだす必要からよく観察すること、という意味もある。今われわれがしなければならないのは、この後の意味のほうの反省だ。そして、これを一つにまとめ、世界にも子供たちにも示す。ドイツ人にできイタリア人にできたことが、日本人にできないはずはない。二十世紀の最後を費やす仕事としてもふさわしい。

 具体的には、このためだけの財団を作って、学者たちを集める。外国人にも、当然参加してもらう。ただし全員が、精神的な国籍をはずす必要がある。求められるのはただ一つ、客観性のみなのだから。歴史を書くのに、国籍は無用だ。

 『八月の狂詩曲』完成後に行われた試写会の出席者には、外国人記者も多かったという。そして彼らの中から、次のような質問が黒澤明に浴びせかけられたとも聴いた。

 「日本が第二次大戦で何をしたか、例えば南京大虐殺のことなども語らなくてはならないはずだ」
 「誰が戦争をはじめ、なぜ原爆を落とさなければならなかったかということを言っていない」……etc。

 もしも日本人が今までに、第二次大戦についての総括をすでに終え、それを世界に向けて示していたのであったら、このたぐいの糾弾が一映画作家に向けられることはなかったにちがいない。彼らとてよく考えれば、このようなことは映画作家の仕事ではないとわかるはずだ。

ただ、日本人がそれをしないできたから、外国人の心の中には、いや日本人の心の中にさえ、欲求不満がいっぱいになっていたがために起った現象だと思う。日本人には顔がないとよく言われるが、顔がないのではなく、顔を見せようとしなかったにすぎない。もうそろそろ、第二次大戦の総括という形で、顔を見せてはどうであろうか。
(塩野七生著「人びとのかたち」新潮文庫 p114-116)

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社会科学とヒューマニズム

 ここでもう一度「あやまればこそ人間」ということに立ちもどってみましょう。先に私は、これを「ヒューマニズムの精神の端的な表明」としてとらえました。寛容の精神ということもここから出てくるのだ、ともいいました。

 同時に私たちは前章で、ヒューマニズムにおける寛容の精神とは「すべてを許す」ということと同じではないということ、許せないものがあり、許さないものがあるということをも問題にしました。科学・技術との関係でいえば、人間の尊厳の否定、人間の存立そのものの否定につながるような科学・技術の利用の仕方、あるいは研究のすすめ方、これは断固として許せないもの、許してはならないものです。

 たとえば「人類絶滅の装置体系」としての核兵器の研究・開発・製造のたぐい、『悪魔の飽食』が告発した細菌部隊の生体実験をふくむ細菌兵器の研究・開発・製造のたぐい、あるいはまた、いまその現実の可能性が取沙汰されている、遺伝子くみかえによる「新型人間」開発など、これらはみな断じて許してはならないものです。

 「あやまればこそ人間」ということばについて私は、これを「科学的精神の重要な核心にもかかわるもの」であるともいいました。そして「おかしてもいいまちがい」についてのジュール・ヴェルヌのことばを引用し、科学の立場をみごとにいいあらわしたものとしてそれを評価しました。しかしそれは、細菌部隊のようなやり方までも「おかしてもいいまちがい」のなかに数えあげるということではありません。断じてそれはやってはならないことです。

 では「おかしてもいいまちがい」と「断じてやってはならないこと」とを区別する基本はどこにあるのでしょうか? 結局それはモラルの問題であり、モラルの問題だということは、結局その基準は主観的なもので客観的なものではない──ということになるのでしょうか?

 そうではない、と私は思います。さっきあげたような「許せないこと」は、たんに当事者の好みによって生じてくるのではありません。そのように人びとをかりたてていく客観的なメカニズムがあるのです──そういうことをさせる社会的な基盤・構造が。

 それを解明するのが、社会科学の任務です。「許せないこと」をなくすためには──ヒューマニズムをつらぬくためには、社会科学が必要だ、ということになります。ヒューマニズムは社会科学と結びつかなければならない、といってもいいでしょう。

 人間についてのより深い、よりゆたかなとらえ方、それが現代ヒューマニズムの課題である、と先に述べたこととこれは別のことではありません。人間は、自然のなかに生きていると同時に、また社会のなかにおいて生きています。

じつは、自然にたいする人間のかかおり方それ自体が社会的な性格をもっているのです。「科学・技術」という場合の「科学」とは、もっぱら自然科学のことをさす場合がおおいと思いますが、自然科学それ自体が人間の社会的ないとなみの一部であり、自然科学のあり方自体、社会科学の対象です。自然科学の成果の社会的応用としての技術については、いうまでもありません。

 ヒューマニズムは必然的に社会科学と結びつかなければならない、ということをくりかえし確認して、ひとまずこの章を閉じることにしましょう。
(高田求著「君のヒューマニズム宣言」学習の友社 p62-64)

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人間の悩みと、過ちと、偉大さとについて

 「人間は、自分自身をあわれなものだと認めることによってその偉大さがあらわれるほど、それほど偉大である。樹木は、自分をあわれだとは認めない。

なるほど、「自分をあわれだと認めることが、とりもなおさず、あわれであるということだ」というのは真理だが、しかしまた、ひとが自分自身をあわれだと認める場合、それがすなわち偉大であるということだというのも、同様に真理である。

だから、こういう人間のあわれさは、すべて人間の偉大さを証明するものである。……それは、王位を奪われた国王のあわれさである。」

 「王位を奪われた国王以外に、誰が、国王でないことを不幸に感じる者があろう。……ただ一つしか口がないからといって、自分を不幸だと感じるものがあろうか。また、眼が一つしかないことを、不幸に感じないものがあるだろうか。誰にせよ、眼が三つないから悲しいと思ったことはないだろうが、眼が一つしかなければ、慰めようのない思いをするものである。」(パスカル)

 本来王位にあるべき人が、王位を奪われていれば、自分を不幸だと思い、自分の現在を悲しく思う。彼が、現在の自分を悲しく思うのは、本来王位にあるべき身が、王位にいないからだ。

 同様に、片眼の人が自分を不幸だと感じるのも、本来人間が二つの眼を備えているはずなのに、それを欠いているからだ。人間というものが、もともと眼を一つしかもっていないものだったら、片眼のことを悲しむ者はないに違いない。いや、むしろ二つ眼をもって生まれたら、とんだ片輪に生まれたものだと考えて、それを悲しむに相違ない。

 コペル君。このことを、僕たちは、深く考えて見なければいけない。それは僕たちに、大切な真理を教えてくれる。人間の悲しみや苦しみというものに、どんな意味があるか、ということを教えてくれる。

 僕たちは人間として生きてゆく途中で、子供は子供なりに、また大人は大人なりに、いろいろ悲しいことや、つらいことや、苦しいことに出会う。もちろん、それは誰にとっても、決して望ましいことではない。しかし、こうして悲しいことや、つらいことや、苦しいことに出会うおかげで、僕たちは、本来人間がどういうものであるか、ということを知るんだ。

 心に感じる苦しみや痛さだけではない。からだにじかに感じる痛さや苦しさというものが、やはり、同じような意味をもっている。健康で、からだになんの故障も感じなければ、僕たちは、心臓とか胃とか腸とか、いろいろな内臓がからだの中にあって、平生大事な役割を務めていてくれるのに、それをほとんど忘れて暮らしている。

ところが、からだに故障が出来て、動悸がはげしくなるとか、おなかが痛み出すとかすると、はじめて僕たちは、自分の内臓のことを考え、からだに故障の出来たことを知る。からだに痛みを感じたり、苦しくなったりするのは、故障か出来たからだけれど、逆に、僕たちがそれに気づくのは、苦痛のおかげなのだ。

 苦痛を感じ、それによってからだの故障を知るということは、からだが正常の状態にいないということを、苦痛が僕たちに知らせてくれるということだ。もし、からだに故障が出来ているのに、なんにも苦痛がないとしたら、僕たちはそのことに気づかないで、場合によっては、命をも失ってしまうかも知れない。

実際、むし歯なんかでも、少しも痛まないでどんどんとウロが大きくなってゆくものは、痛むものよりも、つい手当がおくれ勝ちになるではないか。だから、からだの痛みは、誰だって御免こうむりたいものに相違ないけれど、この意味では、僕たちにとってありがたいもの、なくてはならないものなんだ。──それによって僕たちは、自分のからだに故障の生じたことを知り、同時にまた、人間のからだが、本来どういう状態にあるのが本当か、そのことをもはっきりと知る。

 同じように、心に感じる苦しみやつらさは人間が人間として正常な状態にいないことから生じて、そのことを僕たちに知らせてくれるものだ。そして僕たちは、その苦痛のおかげで、人間が本来どういうものであるべきかということを、しっかりと心に捕えることが出来る。

 人間が本来、人間同志調和して生きてゆくべきものでないならば、どうして人間は自分たちの不調和を苦しいものと感じることが出来よう。お互いに愛しあい、お互いに好意をつくしあって生きてゆくべきものなのに、憎みあったり、敵対しあったりしなければいられないから、人間はそのことを不幸と感じ、そのために苦しむのだ。

 また、人間である以上、誰だって自分の才能をのばし、その才能に応じて働いてゆけるのが本当なのに、そうでない場合があるから、人間はそれを苦しいと感じ、やり切れなく思うのだ。

 人間が、こういう不幸を感じたり、こういう苦痛を覚えたりするということは、人間がもともと、憎みあったり敵対しあったりすべきものではないからだ。また、元来、もって生まれた才能を自由にのばしてゆけなくてはウソだからだ。

 およそ人間が自分をみじめだと思い、それをつらく感じるということは、人間が本来そんなみじめなものであってはならないからなんだ。

 コペル君。僕たちは、自分の苦しみや悲しみから、いつでも、こういう知識を汲み出して来なければいけないんだよ。

 もちろん、自分勝手な欲望が満たされないからといって、自分を不幸だと考えているような人もある。また、つまらない見えにこだわって、いろいろ苦労している人もある。

しかし、こういう人たちの苦しみや不幸は、実は、自分勝手な欲望を抱いたり、つまらない虚栄心が捨てられないということから起こっているのであって、そういう欲望や虚栄心を捨てれば、それと同時になくなるものなんだ。その場合にも、人間は、そんな自分勝手の欲望を抱いたり、つまらない見えを張るべきものではないという真理が、この不幸や苦痛のうしろにひそんでいる。

 もっとも、ただ苦痛を感じるというだけならば、それは無論、人間に限ったことではない。犬や猫でも、怪我をすれば涙をこぼすし、寂しくなると悲しそうに鳴く。からだの痛みや、餓えや、のどの渇きにかけては、人間もほかの動物も、たしかに変りがない。

だからこそ僕たちは、犬や猫や馬や牛に向かっても、同じくこの地上に生まれて来た仲間として、しみじみとした同感を覚えたり、深い愛情を感じたりするのだけれど、しかし、ただそれだけなら、人間の本当の人間らしさはあらわれない。

 人間の本当の人間らしさを僕たちに知らせてくれるものは、同じ苦痛の中でも、人間だけが感じる人間らしい苦痛なんだ。
 では、人間だけが感じる人間らしい苦痛とは、どんなものだろうか。

 からだが傷ついているのでもなく、からだが饑(う)えているのでもなく、しかも傷つき饑え渇くということが人間にはある。
 一筋に希望をつないでいたことが無残に打ち砕かれれば、僕たちの心は眼に見えない血を流して傷つく。やさしい愛情を受けることなしに暮らしていれば、僕たちの心は、やがて堪えがたい渇きを覚えて来る。

 しかし、そういう苦しみの中でも、一番深く僕たちの心に突き入り、僕たちの眼から一番つらい涙をしぼり出すものは、──自分が取りかえしのつかない過ちを犯してしまったという意識だ。自分の行動を振りかえって見て、損得からではなく、道義の心から、「しまった」と考えるほどつらいことは、恐らくほかにはないだろうと思う。

 そうだ。自分自身そう認めることは、ほんとうにつらい。だから、たいていの人は、なんとか言訳を考えて、自分でそう認めまいとする。しかし、コペル君、自分が過っていた場合にそれを男らしく認め、そのために苦しむということは、それこそ、天地の間で、ただ人間だけが出来ることなんだよ。

 人間が、元来、何が正しいかを知り、それに基いて自分の行動を自分で決定する力を持っているのでなかったら、自分のしてしまったことについて反省し、その誤りを悔いるということは、およそ無意味なことではないか。

 僕たちが、悔恨の思いに打たれるというのは、自分はそうでなく行動することも出来たのに──、と考えるからだ。それだけの能力が自分にあったのに──、と考えるからだ。正しい理性の声に従って行動するだけの力が、もし僕たちにないのだったら、何で悔恨の苦しみなんか味わうことがあろう。

 自分の過ちを認めることはつらい。しかし過ちをつらく感じるということの中に、人間の立派さもあるんだ。「王位を失った国王でなかったら、誰が、王位にいないことを悲しむものがあろう。」正しい道義に従って行動する能力を備えたものでなければ、自分の過ちを思って、つらい涙を流しはしないのだ。

 人間である限り、過ちは誰にだってある。そして、良心がしびれてしまわない以上、過ちを犯したという意識は、僕たちに苦しい思いをなめさせずにはいない。しかし、コペル君、お互いに、この苦しい思いの中から、いつも新たな自信を汲み出してゆこうではないか、──正しい道に従って歩いてゆくカがあるから、こんな苦しみもなめるのだと。

 「誤りは真理に対して、ちょうど睡眠が目醒(めざ)めに対すると、同じ関係にある。人が誤りから覚めて、よみがえったように再び真理に向かうのを、私は見たことがある。」これは、ゲーテの言葉だ。

 僕たちは、自分で自分を決定する力をもっている。
 だから誤りを犯すこともある。
 しかし──
 僕たちは、自分で自分を決定する力をもっている。
 だから、誤りから立ち直ることも出来るのだ。

 そして、コペル君、君のいう「人間分子」の運動が、ほかの物質の分子の運動と異なるところも、また、この点にあるのだよ。
(吉野源三郎著「君たちはどう生きるか」岩波文庫 p249-257)

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◎あやまり≠ノついての学習通信040430・040506……どうでしたか。あやまり≠燻ゥ覚できない青春……人生、そうなりたくはないとすれば……。