学習通信040131
◎最初、社会主義思想は……。
 
■━━━━━
 
挫折の理想モデル
 
 イギリス産業革命が、労働者ばかりか婦人・児童まで貧困と不衛生のなかに引きこみ、道徳的にも彼らを退廃させていたとき、二十九歳の青年工場主が人道主義的理想に燃えて、事態の解決に立ちあがった。ロバート=オーウェン(一七七一〜一八五八)その人である。一八〇〇年、彼は自分が買収したスコットランドのニューラナークの大紡績工場で、人道主義的な経営を試みはじめた。
 
彼は、人間の性格は生まれながらのものであると同時に、とりわけ発育期における環境の産物である、と考えていた。労働者たちの子供は二歳になると幼稚園にいれられた(世界最初の幼稚園)。十歳以上のものには夜間学校をもうけ、生産労働と教育とを結びつけた。労働時間は十時間半であった(普通の工場では十三〜十四時間)。不況で休業したときも賃金は全額支払われた。こうしたやり方で収益も大いにあがった。彼の工場はヨーロッパ中の評判になった。
 
 だが、もし彼がここでとどまったならば、彼は温情あふれ、しかも経営も上手な資本家にすぎなかったであろう。彼は自分の人道主義的工場の労働者でも、「これらの人々は私の奴隷だ」と思った。彼は社会に向かって新しい提案を発表しはじめた。
 
一八一二年、彼は紡績工場で働くすべての婦人・児童の労働負担を軽くするための法案を提案し、議会に請願した。それは彼の希望通りではなかったが、一八一九年に法律として制定された(第二次工場法)。さらに一八二三年にはアイルランドの貧困をとりのぞくために、共産主義的集落をつくることを提案し、それの詳しい建設計画まで立てた。
 
こうした彼の考えはうけいれられず、一八二五年、彼は合衆国にわたり、インディアナ州のニューハーモニー村に二万エーカーを買収し、全財産を投じて「平等村」の建設にのりだした。この平等村では、全村が一家族となって、権利と義務の平等、財産の共有などを定めた村の憲法によって運営された。
 
だがブルジョア社会の一角に、このような共産主義的理想の村が成功のうちにつづくはずはなかった。四年間の苦闘のすえ挫折し、財産をなくしたオーウェンは、ふたたびイギリスにもどった。
 
 帰国後、協同組合や労働組合の運動にたずさわり、全国労働組合大連合の議長にもなった。そして一八三二年には「国民平等労働交換所」をつくり、労働時間にもとづいた生産物の交換を考えたが失敗した。若き日のオーウェンは、人道主義的な理想をもった工場主だった。その彼が、いまは共産主義的思想に生きる人となった。
 
だが社会の一角に理想モデルをつくり、それを成功させることによって、多くの人々に共産主義的な思想を広めていこう、というやり方は成功するはずはなかった。しかし彼の影響をうけた人々は、産業革命によってもたらされた豊富な社会の富を労働者の幸福に役立てよう、という彼の思想を、その後の労働運動や協同組合運動に生かしていったのである。
 
空想的社会主義
 
 オーウェンは、イギリス産業革命の渦中にある労働者を目の当たりに見ることができた。だがフランスの初期社会主義者サン=シモン(一七六〇〜一八二五)やシャルル=フーリエ(一七七二〜一八三七)は、産業革命がはじまったばかりのフランスに生きていたために、労働者独自の運動や組織の重要性には気づかなかった。
 
まずサン=シモンについていえば、彼は貴族の出身であったが、フランス革命の体験を通じて、「勤労者」と「不労者」の対立を見た。この「勤労者」のなかには、労働者だけでなく、工場主や商人や銀行家もふくまれていた。そして「不労者」とは、これまでの貴族や僧侶とともに、生産や商業にたずさわらない不労所得者を意味していた。
 
いまや「不労者」の時代は終わり、「勤労者」の時代になるのだ、と彼は考えた。つまり彼には、まだ資本家と労働者の対立が社会問題の中心とは考えられなかった。
 
 だが、それにもかかわらず、彼が初期社会主義者のなかに数えられているのは、社会においてもっとも人数の多い、もっとも貧しい人々の運命に深い関心を示したからである。彼が新しいキリスト教を唱えたのも、それによって金持ちたちが貧しい人々の幸福を増進させるため、利己的な利益のみを追求しないように、金持ちたちの道義心をめざめさせようとしたのである。
 
 フーリエは裕福な商人の家に生まれたが、彼自身は破産して行商人としての生活にはいった。そこから彼は、商業の虚偽と無秩序の批判者として登場する。たとえば彼はリンゴが産地の値段よりも一〇〇倍もの値段で売られている、という商業の詐欺的な性格を鋭く批判している。さらに彼は、文明社会(ブルジョア社会)についてつぎのように指摘する。
 
「文明化された秩序は、未閑時代に単純な仕方で行われたあらゆる悪業に、複雑な、裏表のある、あいまいな、偽善的な存在の仕方をとらせる。」
 
 そしてこの文明社会は、ありあまる過剰と豊富を達成しょうとするが、じつはその反対に貧困をつみあげている、と批判している。また文明社会が女性を隷属化させている、と指摘し、社会における女性解放の程度は、全般的解放の尺度である、と言明した。
 
このようにフーリエは、文明社会=ブルジョア社会の悪徳を、さまざまな角度からあばき出している。こうした状態から解放される道を、彼は「ファランジュ」という小所有者、職人、労働者をあわせた自給自足の協同団体をつくることのなかに見出そうとした。
 
財産とは盗みである
 
 十九世紀前半期のフランスでは、産業革命がイギリスほど荒々しく貫いてはいなかった。そのため手工業者、職人、小商人、中小農民などが広範に存在した。しかし彼らは、産業革命が進行すると没落していく危険におびやかされていた。そこから彼らは資本主義への反感や批判に走る傾向をもった。彼らのこのような気分を一つの思想にまで結実させた社会主義思想家の一群が登場してくる。
 
ルイ=ブラン(一八一一〜八二)は、『労働の組織』(一八三九年)で社会主義者として有名になったが、彼は国家の援助によって「社会作業場」をつくり、これによって私企業を競争で圧倒して、経済の無秩序をなくしていこうと考えた。そして他方で鉄道や鉱山などを国有化すべきだと考えた。こうした方法によって小生産着たちを大資本から守ろうとしたのである。彼は一八四八年の二月革命に参加し、臨時政府に入閣し、国立作業場をつくったが失敗し、イギリスに亡命する。
 
 ブランキ(一七九八〜一八五四)は、革命家としてパリのあらゆる暴動に参加し、その生涯を通じて三十年間近くの獄中生活を体験した。彼の思想と行動は、広範な大衆を基礎におかず、少数の精鋭分子による武力革命方式を基本にしていた。彼は秘密結社「季節協会」を労働者たちのなかに組織し、一揆をおこすなど「革命の扇動者」であった。
 
 フランス社会主義思想史のうえに大きい影響をあたえたのはプルードン(一八〇九〜六五)である。彼は父のビール工場が倒産し破産したのち、印刷工などをやりながら、独学でフーリエの思想などを学び、三十一歳で『所有とはなにか』を発刊し、一躍有名となった。彼の思想の出発点は、「所有(財産)とは盗みである」という命題である。
 
ここでいう「盗み」の意味は、働かないで得た収入、つまり不労所得のことである。この所有は人間による人間の搾取によって生み出されたものだという。このように彼は資本主義のもとでの私有財産制を攻撃する。だが私有財産制そのものを否定するのではなく、労働者を小生産者化することを理想とした。そのために分配の平等、小経営の維持、人民銀行の創設などを説いた。
 
そして共産主義に反対し、相互主義と連合主義を主張する。相互主義とは、生産手段の平等のうえに自由に商品を交換する生産者の社会という主張である。連合主義とは、地方的に自主権をもったコミューンを基礎に地方共和国をつくり、それらが連合してフランス連合をつくる、という構想である。彼が無政府主義の創始者といわれる理由はここにある。
 
 以上、十九世紀前半期におけるイギリスとフランスにおける主要な社会主義思想家の群像を見てきたが、これらの思想家は、いずれも産業革命の進行によって生まれた社会問題──労働者や小生産者の貧困──にとりくみ、それぞれ独自な回答を提示しようとした。
(講談社「世界の歴史」16 p117-123)
 
■━━━━━
 
 その間に社会主義的運動もまた前進する。ここではイギリスの社会主義を、それが労働者に影響を与えているかぎりにおいてのみ考察する。
 
イギリスの社会主義者は二〇〇〇人ないし三〇〇〇人の「国内入植地」において財産の共有制度を徐々にとりいれていくことを要求している。
 
そこでは工業と農業がいとなまれ、平等な権利と平等な教育が享受される──離婚は容易になり、完全な思想の自由をみとめる理性的な統治が樹立され、刑罰を廃止し、その代わりに犯罪人は理性的に処遇される。
 
これが彼らの実際的な提案である──理論的な原理はここではわれわれに関係ない。
 
──社会主義はオーエンという一工場主からはじまった。そのため、それは事実上はブルジョアジーとプロレタリアートとの対立をのりこえているにもかかわらず、形のうえではブルジョアジーにたいしてはたいへん寛大で、プロレタリアートにたいしてははなはだ不公平である。
 
社会主義者はつねに温和で平和的であって、正面から説得する以外の方法がすべて拒否されれば、現在の諸関係がどんなにひどいものであっても、これを正当なものとしてみとめるのである。
 
しかもそれだけでなく、彼らはきわめて抽象的であるので、彼らの原理がいまのままの形であるなら、正面から説得しても成功しないであろう。
 
そのさい、彼らはいつも下層階級の堕落を嘆いているけれども、社会秩序のこのような解体のなかにある進歩的な要素にたいしては盲目であり、有産階級のなかにある私利と偽善という堕落の方が、はるかに悪いということを考えていない。
 
彼らは歴史的発展をまったくみとめず、したがって、政治が自然に解体するという目標にまでつづくのを待たずに(英語版では「その政治的発展が、この転換を可能かつ必要とする点まで不可避に前進するのを待たずに」)、国民を一挙に共産主義的状態におこうとするのである。
 
たしかに彼らは、労働者がブルジョアにたいしてなぜ憤激しているのかということを理解しているけれども、労働者を前進させる唯一の手段であるこの怒りを無益なものと考え、イギリスの現状にとってはもっともっと無益な慈善や普遍的な愛を、お説教している。
 
彼らは心理的な発達しかみとめない。
 
それは過去との結びつきをいっさい断ちきった抽象的な人間の発達なのだが、しかし全世界はこういう過去のうえになりたっているのだし、個人もまた全世界とともに過去のうえになりたっているのである。
 
したがって彼らはあまりに学問がありすぎ、あまりに形而上学的で、ほとんど成果をあげていないのである。
 
彼らは一部は労働者階級の出身であるが、それはほんの一部分であって、もちろん、もっとも教養があり、もっともしっかりとした性格のものにかぎられている。
 
社会主義は現在の形のままでは、労働者階級の共有財産とはならないであろう。
 
社会主義はあえて程度を下げて、しばらくチャーテイストの立場へ戻らなければならない。
 
しかし、チャーティズムをとおりぬけ、そのブルジョア的要素を一掃した真にプロレタリア的な社会主義は、今日すでに多くの社会主義者や、ほとんど全員が社会主義者であるチャーテイストの指導者の場合にあきらかとなっているように、必ず、そして近い将来に、イギリス人民の発展の歴史において重要な役割を果たすであろう。
 
イギリスの社会主義は、その基盤の点ではフランスの共産主義をはるかにしのいでいるのだが、その発展の点ではおくれており、これを越えてすすむためにはしばらくのあいだフランスの立場に後退しなければならない。
 
もちろん、そのときまでにフランス人もまたいっそう発展しているであろう。
 
社会主義はまた同時に、労働者のあいだにひろがっている無宗教の、もっとも決定的な表現である。
 
それはきわめてはっきりとしているので、無意識な、たんに実際上でだけ無宗教の労働者は、こういう表現の鋭さにおどろいてしりごみしてしまう。
 
しかし、ここでもまた、労働者は困窮のために信仰を捨てざるをえなくなる。
 
信仰は自分たちを弱め、運命に身をゆだねさせ、自分たちを搾取している有産階級にたいして従順かつ忠実にさせるのに役立っているだけだということを、労働者はますます見ぬくのである。
(エンゲルス著「イギリスにおける労働者階級の状態 -下-」新日本出版社 p75-77)
 
〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓
◎此処で紹介される社会主義と科学的社会主義の違いをとらえよう。