学習通信040126
◎人が育つということF……それは教師の罪ではないのか
 
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──略──心と行為は分けられるという、いびつな人間観ではなかろうか。特に歌を歌ったりピアノを弾いたりするという行為は、人間の情感に密接にかかわる。楽しく歌を歌うなら、歌う人も聴く人も楽しい。逆に歌いたくもない歌を強要されたり、情感のこもらないピアノを聴かされるほど苦痛なことはない。
 
 思想・良心は、行為として外部に現れて、はじめて意味を持つ。人間は、心のないロボットではない。
 
 判決は、教師(公務員)は、心を殺して、あるいは心を偽って、子どもたちの前に立て、という。ロボットに人が教えられるだろうか。子どもたちが、それを見抜かないとでも思うのだろうか。
 
 教師をロボットにしてしまおうと狂奔しているのが、東京都教育委員会である(「世界の潮」槙村哲氏)、昨年一〇月二三日、入学式、卒業式等における「日の丸・君が代」の実施や会場設営の仕方まで事細かに決めた指針を決定し、各学校に通達、「校長の職務命令に従わない場合は、服務上の資任を問われる」と教職員を脅迫するにいたった。
 
 各学校の周年行事には、都教委職員がやってきて、ゲシュタポまがいに俳梱し教職員を監視するという異常な事態になっている。校長の中には、「君が代」を練習する高校生に「声が小さい」と大声を上げたり、養語学校では「肢体不自由児といえども(教員が抱えて)起立させろ」と発言する者まで出たという。
 
 学校における民主主義の破壊である。国民から直接選ばれたわけでもない地方教育委員会に、ここまで傍若無人なことをする権限があるのか、大いに疑問だが、ここには、「教育基本法」を徹底して無視した教育行政の姿がある。
 
 本年の政治的テーマの一つである基本法改悪がなれば、教師はロボットにされ、子どもたちは学ぶ主体ではなく、国家から「教え込まれる」対象にされる。日本社会は、いよいよ「育てる」という営為から遠ざかることになるだろう。
(岡本厚 月刊:世界 04年2月号編集後記)
 
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 子ども時代にすることはたいしたことではない。そこに忍びこんでくる悪には対策がないわけではない。そして、そこに生まれる善はおそくなってからでも生まれてくるものだ。
 
しかし、人間がほんとうに生きはじめる最初の時期についてはそうはいかない。この時期は、そのあいだになすべきことをするのに十分なくらい長くつづくことはけっしてないし、しかも、これは重要な時期だから、たえまない注意を必要とする。
 
だからこそ、わたしはこの時期を長くひきのばす技術について強調するのだ。すぐれた栽培法のもっとも有益な数えの一つは、なにごともできるだけおくらせるということだ。
 
ゆっくりと確実に前進させるがいい。青年が大人になるためになすべきことがなにも残っていないことになるまで、大人にならせないようにするのだ。肉体が成長しつつあるあいだに、血液に芳香をあたえ、筋肉に力をあたえることになっている精気がつくられ、精製されていく。
 
あなたがたがそれにちがった道をとらせるなら、そして、ある個体を完成させることになっているものが別のものをつくることになるなら、二つのものはいずれも無力な状態にとどまり、自然の仕事は完成されないことになる。
 
精神のはたらきもまたやがてそういう変質を感じさせることになる。そして魂は、肉体と同じように弱々しく、無気力で衰弱した機能しかはたさないことになる。
 
太い頑丈な手足は勇気も才能もつくりだすことにはならないし、また、魂と肉体をつなぐ器官がうまくできあがっていなければ、魂の力は肉体の力にともなわないということもわかる。
 
しかし、その器官がどんなにうまくできあがっていたとしても、そのもとになるものが無気力な乏しい血液、体のあらゆる機構に力とはずみをあたえる実体を欠いた血液にすぎないなら、その器官はやはり弱いはたらきしかしないことになる。
 
一般に、若いころ、早期の堕落からまもられていた人たちには、ふしだらな生活をすることができるようになるとすぐにそういう生活をはじめた人たちにおけるよりも、豊かな魂の力がみとめられる。
 
そして、これは疑いもなく、よい風習をもつ国民が、ふつう、そうでない国民よりも、良識においても、勇気においても、まさっていることの理由の一つだ。
 
後者はただ、かれらが才気とか明敏とか繊細とか呼んでいるなにかよくわからないつまらないおしゃべりの才能で知られている。
 
けれども、りっぱな行為、美徳、ほんとうに有益な仕事によって人間をすぐれたものにし、かれに尊敬をはらわせることになる、知恵と理性にもとづく偉大な、高貴な営みは、ほとんど前者においてのみみいだされる。
 
 教師たちはこの時期の激しさが青年を手におえなくすることを嘆いている。それはわたしにもわかる。
 
しかし、それは教師の罪ではないのか。ひとたびあの激しい火を官能にそそぎこませたら、それを別のところへ導いていくことはもうできないことをかれらは知らないのだろうか。
 
衒学者の冷やかな長ったらしいお説教が、わかってきた快楽の姿を生徒の心から消すことになるだろうか、かれを苦しめている欲望を心から追いだすことになるだろうか。
 
そのもちいかたを知った熱い血を冷ますことになるだろうか。その観念をもっているただ一つの幸福をさまたげようとするものにたいして、かれはいらだつことにならないだろうか。
 
そして、人が命じても理解させることのできないきびしい掟のうちにかれはなにを見ることになるだろう。自分を苦しめようとしている一人の人間の気まぐれと憎しみを見るだけではないか。
 
かれが反抗するとしても、かれのほうでもその人間を憎むことになるとしても、それはふしぎなことだろうか。
 
 ゆるやかな態度をとることによってそれほどやりきれない存在にならないようにすることはできるし、表面的には権威をもちつづけることもできる、ということはよくわかる。
 
しかし、押さえなければならない悪いことを助長しなければ生徒にたいして保てない権威がなんの役にたつのか、わたしにはあまりよくわからない。それは、あばれ馬を静めるために、馬丁が馬を断崖にとびこませるようなものだ。
 
 青年の情熱は教育のさまたげになるどころではなく、それによってこそ教育は仕上げられ、完成されるのだ。
 
青年があなたがたよりも力において劣る存在ではなくなったとき、それこそかれの心をつかむ手がかりをあなたがたにあたえるのだ。
 
かれの最初の愛情は、それによってあなたがたがかれの心のあらゆる動きを導く手綱となる。かれは自由だったのに、いまでは服従することになるのだ。
 
なんにも愛していないあいだは、かれは自分自身と自分の必要にしばられているだけだった。
 
愛するようになるとすぐに、かれはその愛着にしばられることになる。こうして、かれをその同類に結びつける最初の絆がつくられる。
 
あらわれはじめたかれの感受性をそこへ導いていきさえすれば、かれはいきなりあらゆる人間を抱擁するなどと思ってはいけない。
 
人類ということばがかれにとってなんらかのものを意味することになると考えてもいけない。
 
そんなことはない、その感受性は、はじめはかれの仲間にむけられるだけだろうし、かれにとっては、仲間とは知らない人ではなく、自分に関係のある人たち、
 
習慣によって親しいものになっているか、必要になっている人たち、明らかに自分と共通の考えかた、感じかたをしていると思われる人たち、自分が悩んだ苦しみにさらされていることが、自分が味わった喜びを感じることがわかっている人たち、
 
一言でいえば、本性の同一性がほかのものにおけるよりもいっそうはっきりあらわれていて、たがいに愛し合おうとする気持ちを、ほかのものよりもいっそう強く感じさせる人たちをさす。
 
天性をいろんなふうに育てていったのちにはじめて、自分白身の感情と他人のうちに観察される感情について多くの反省をしたのちにはじめて、かれはその個人的な観念を人類という抽象的な観念に一般化するにいたり、かれをその同類に同化することができる愛情を個人的な愛情に結びつけることができるようになるのだ。
 
 愛着をもつことができるようになると、かれは他人の愛着に敏感になり、それだからこそ、その愛着のしるしに注意ぶかくもなる。あなたがたには、かれにたいしてどんな新しい影響力が獲得されることになるか、おわかりだろうか。あなたがたは、かれが気づかないうちに、かれの心の周囲にどれほど頑丈な鎖をめぐらしてしまったことになるか。
 
目をひらいて自分をながめ、あなたがたがかれのためにしたことを知るとき、自分を同じ年ごろのほかの青年にくらべ、あなたがたをほかの家庭教師にくらべてみることができるようになったとき、かれはどれほど多くのことを感じることか。
 
かれが知るとき、とわたしは言ったが、あなたがたのほうからなにかかれに言わないようにすることだ。あなたがたが言えば、かれはもう知ろうとはしまい。あなたがたがかれにしてやったことのかわりに服従をもとめるとすれば、かれは、あなたがたはだましたのだと考えるにちがいない。
 
あなたがたは無償で親切なことをしているようにみせかけて、かれに負債をおわせ、かれが同意した覚えのない契約でかれをしばりつけようとしたのだ、と考えるにちがいない。
 
あなたがたが、かれにもとめていることは、かれ自身のためになるばかりだ、とつけくわえたところでむだだろう。とにかく、あなたがたは要求しているのだし、かれが承認していないのにしてやったことを盾にとって要求しているのだ。
 
貧しい男が相手がくれるという金をもらって、そのために心ならずも軍隊に入れられたとしたら、それは正しいことではない、とあなたがたは叫ぶだろう。生徒が承知していなかったのに、世話をやいたからと言って、その代償をもとめるあなたがたはなおさら不正なことをしているのではないか。
 
 高利で恩を売るようなことがそれほど知られていなければ、恩知らずな行為ももっと少なくなるにちがいない。人は自分によいことをしてくれる者を愛する。
 
これはまったく自然な感情だ。忘恩は人間の心には存在しない。しかし、そこには利害の念がある。だから、利害を考えて恩恵をほどこす者よりも、恩をうけてそれを忘れる者のほうが少ない。あなたが贈り物をわたしに売りつけようとすれば、わたしは値段をまけろと言うだろう。
 
しかし、くれるようなふりをしていて、あとで高い値段で売りつけようとするなら、あなたは詐欺をはたらいているのだ。無償であればこそ贈り物にははかりしれないねうちがあるのだ。人の心は自分の掟のほかには掟をみとめない。人の心はつなぎとめようとすればはなれていき、自由にさせておけばつなぎとめられる。
 
 漁夫が撒き餌をすると、魚はやってきて、警戒もせずにそのまわりを泳いでいる。しかし、餌の下に隠された針にひっかかって、糸がたぐられるのを感じると、魚は逃げだそうとする。漁夫は恩恵をほどこしているのだろうか。魚は恩知らずなのだろうか。
 
恩人に忘れられた人がその恩人を忘れるようなことがあるだろうか。はんたいに、その人はいつも喜んで恩人のことを語り、恩人のことを考えるたびに感動せずにはいられない。
 
たまたまなにか思いがけない奉仕をすることによってその人がしてくれたことを忘れないでいる証拠を見せる機会がみつかれば、どれほど大きな心の満足を感じながら感謝の念を示すことだろう。どんなに快い喜びをもって自分はだれであるかを知らせることだろう。
 
どんなに大きな感激をもってその人に言うことだろう。やっとわたしの番になりました、と。これこそほんとうの自然の声だ。ほんとうの恩恵はけっして恩知らずをつくりはしなかった。
 
 そこで、感謝の念は自然の感情だとすれば、そして、あなたがたの過ちでその効果を無にしなければ、あなたがたの生徒は、あなたがたのほうから代償をもとめるようなことをしなかったなら、あなたがたの心づかいのねうちがわかってきて、それをありがたく感じるようになることは確実だと思っていい。
 
そして、あなたがたの心づかいは生徒の心のうえにどんなことがあっても失われない大きな権威をあたえることになるのは確実だと思っていい。けれども、そういう有利な態勢が確立されないうちに、生徒にむかってあなたがたの功績を誇ってそれを台なしにしないように気をつけるのだ。
 
かれのためにあなたがたがしたことを自慢すれば、かれにやりきれない思いをさせる。それを忘れてしまえば、かれに思い出させることになる。かれを大人としてとりあつかえる時期がくるまでは、あなたがたにたいするかれの義務というようなことをけっして問題にしてはいけない。
 
ただ、自分自身にたいするかれの義務を問題にすべきだ。かれを従順にするためには、完全な自由をあたえるがいい。あなたがたは身をかくして、かれにさがさせるがいい。かれの利害ということのほかにはけっして口に出さないで、感謝という高貴な感情にかれの魂を高めるがいい。
 
相手がしていることはかれの幸福のためだということをかれが理解できるようになるまでは、かれにむかってそれを言うことをわたしは望まなかった。そういうことを言えば、かれはそこにあなたがたの依存状態をみるだけで、あなたがたはかれの召使いにすぎないと考えたにちがいない。
 
しかしいまでは、愛するとはどういうことかわかりはじめてきたかれは、一人の人間を愛する者に結びつけるのはどんなに快い絆であるかということも知っている。そして、たえずかれのことを考えているあなたがたの熱意のうちにも、もう奴隷の愛着ではなく、友人の愛情を感じている。ところで、人間の心にとっては、はっきりとわかっている友情の声以上に重みのあるものはなにもない。
 
友情がわたしたちに語ることばはすべてわたしたちの利益のためであることがわかっているからだ。友人もまちがったことを言うばあいはある、しかし、友人はけっしてわたしたちにまちがったことをさせようとはしない、と信じていい。ときには友人の忠告を聞き入れないことはあっても、それを無視するようなことをけっしてしてはならない。
(ルソー著「エミール -中-」岩波文庫 p50-56)
 
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「新しい人」になるほかないのです。
 そしてそのためには、どんなに思いつめても、まず生き延びていなければならない。十字架にかかって、生きかえった人は、この二千年でただひとりです。
 
そしてこれからの新しい世界のための「新しい人」は、できるかぎり大勢でなくてはならないのです。
(大江健三郎著「「新しい人」の方へ」朝日新聞社 p181)
 
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◎大人はみな教師=B方法にめざとく付け焼き刃の考え方≠ナはお話にならない。大人が成長しなければ、新しい人≠ニしてすすみでる奮起こそいま必要ではないだろうか。
 
◎「中3長男─体重24`で重体─を食事抜き暴行」「殺人未遂容疑で父親等を逮捕」…………。現在の、未来に幻滅するのではなく、そこに、そのことに責任をもつ大人として成長しようではないか。