学習通信040124
◎資本論を読む……工夫して読みつづけるということ。
 
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あともどりをしないということ
 
 さてそれでは、早速『資本論』そのものの学習をどうやって成功させるか、とりあえずまずこの大きな分量の著作をどうやってよみきってしまうか、その点での人々の経験はどうなっているのかという問題に、一直線に入っていくことにしましょう。
 
 わたしたちは、この冊子でかなり多くのことをのべるつもりでいますが、この冒頭の部分では、なによりもまず、自分でこの大作をよみきってしまい、つまり他人の解説をきいたり、読んだりすることで、『資本論』をつかんだとか、よんだということにするというようなことではなくて、はじめからおわりまで、たとえ第一巻だけにかぎってみるとしても、
 
自分の力でよみきってしまいたい、どこまでわかるかは二の次にして、そうしたいのだということを考えている人たち、そう決意している人たちにとって、こうすれば必ず自分でよみきることだけは必ずできるだろうと思われる、最小限のことだけを、のべてみることにしようと考えています。
 
 『資本論』をまなぶということのうちには、一つの深さ、デブスということがあって、それをどこまでやるかは、この大作とのつきあい方できまってくるようですが、なにはともあれ、ここではまず、その全体を(第一巻だけなら第一巻だけでも)、まずよみとおしてしまうということだけにしぼって、考えてみることにするということです。
 
 その最初のこととしてのべたいのは、よみはじめたら途中ではじめにもどってやりなおすということをしないということが、よみとおしに成功した人の普通の経験になっているということです。
 
わかってもわからなくても、とにかくわかるところ、わからないところを区別せずに、つまりわからないところがあっても、そのまま日をつぶって、断固としてとばしてしまって、とにかくさいごまで、場合によってはわかるところだけをさがすようなことになるかもしれないと思いながらでも、
 
とにかく、恥ずかしさもやましさも気にかけずに、たとえめくっているというようなことと、かわりはないとさえ思えたとしても、それでもかまわずに、とにかくそのことに集中して、さいごまでよみきってしまうということ、これこそこの大作をよんでいくうえでの原則といえるようです。
 
 途中で中断して、中断してしまってから数十日もたってしまっていて、はじめによんだところをことごとく忘れてしまっているというようなことは、いたるところでおきていることですが、たとえ何一つおぼえていなくても、そんなことを気にすることになれば、結局はこの大作をよみとおすとか、つかみきるということにはならない、むしろ失敗のはじまりと考えて、とにかく「もどらない」ということでやれば、そのうちによめるということのようです。
 
 要するに一言でいえば、第一原則は「もどるな」ということのようです。ひたすら前にいくということです。よみとおすことを目標にするならこれは当然のことでしょう。
(吉井清文著「どうやって『資本論』をよんでいくか」清風堂書店 p41-43)
 
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本を読む木の家
 
 子供の時、いろいろ本を読むための工夫をしました。中学校のなかばから終わりにかけてのころで、自分の読みたい本がなんとか手に入るようになってのことでした。もっとも、本が面白いから、というのでもなかったのです。
 
読みはじめればすぐ夢中になるような本だと、工夫はいりません。ところが、先生や年上の友達から話を聞いて、読んだ方がいい、読みたい、とやっと手に入れたのに、実際とりかかってみると読み続けにくい本がありました。
 
 自分で読んでみて、これは立派な学者や作家が書いた本にはちがいないが、自分にはムカない、とわかる本ならいいのです。読むことをあきらめるか、後に延ばすかします。もう、そうした本をいれる本箱も持っていました。もっと成長して、その本が面白くなった時に読めばいいし、それでも興味がわかなければ、自分の責任だ、と考えればいいのです。
 
 ところが、自分でもこれは読んだ方がいいとわかるのに、なかなか続けて読むことのできない本がありました。いますぐ思い出すのは岩波文庫のトルストイの日記です。そして私には、どんな本でも十ページ読んでから最後まで読めないのは、ハジだ、という思いこみがあったのでした。
 そこで工夫が必要になるのです。私はそういう特別な本を読むための場所をつくりました。
 
──略──
 
 さて私は、その木の上の本を読む家で、例の、なかなか読み続けられない本を読むことにしたのです。そうでなくても、一日に一度は、木の上の家の具合を調べなければなりません。その際には、この本を持って木に登る。そこでは他の本は読まない。そうすると、いつの間にか、次のやはり難しい本に移ることができている、というふうになったのでした。
 
 いまの私にとって、本を読む木の家の代わりをしているのは、電車です。大人になると、これは大切な本だということが、経験によって正確にわかるようになります。それでも、やはり読み続けることの難しい本はあるのです。私は週に幾度かゆく水泳クラブへの電車で、そのような本を読みます。
 
水着とゴーグルをいれたリュックに、その本と、それが外国語の本ならば辞書と、書き込み用の鉛筆しかいれておかないので、電車に乗ってしまえばその本を読むことになります。そのうち、水泳を始める前にクラブの談話室で読み続けるようになれば、もう心配はありません。
 
 そのようにして電車に乗り合わせる中学生や高校生諸君が、しばしば漫画雑誌を読んでいるのを見かけます。そうした面白いものは、勉強机に向かっていても──授業の間ですらも──読めるのじゃないでしょうか?
 
 ほかにすることがなくて、三十分がまんしていなくてはならない時間が、通学の際、毎日二度ずつあるとしたら、その時間を、日ごろは読みにくい本をカバンに入れておいて読むことをすすめます。
 
 ところが私も、電車のなかで本を読むのをやめて、耳をすましていることがあります。長野県で新しい知事が選ばれた翌週のことでした。女子中学生たちが、知事から渡された挨拶の名刺を折り曲げた局長のことを、テレヴイで見て話していました。
 
 そのうち、ひとりの女子中学生が、
 ──子供のような、といったので、私は興味をひかれたのです。
 子供の時、自分はこの問題を考えたことがあるな、高校に入ってから、辞書引いて英語の場合を調べさえしたものだ、と思い出してもいました。
 
 最初、私の気になったのは、「子供らしい」というのと「子供っぽい」というのと、二っの形容詞があって、前の方だと、そういわれてもあまり気にならないのに、後の方は腹がたつ、それはなぜだろう、ということでした。
 
 国語辞典を見て、「子供っぽい」というのには、子供でないのに子供じみていると、はっきり悪い意味も示してあるので、自分の感じていることがわかりました。子供に対して「子供っぽい」ということがあるけれど、それはあまり良いものではない子供らしさについてなのだろう、とも考えました。
 
 「子供らしい」というのは、悪い意味でいう言葉ではないけれど、自分は子供なのだから、好意的にであれ大人に「子供らしい」といわれるようなことはしないでいよう。これは自分で作る規則に加えておこう、と思いました。もともと私は「子供っぽい」性格だと自分で感じていて、それをなおしたい、とも思っていたのでした。
 
 英語で「子供らしい」という場合、良い意味という感じのまさっているchildlikeと、その反対のchildishとがある、と高校生になって私は知ったのでしたが、アメリカの大学で仕事をする機会がかさなるうち、人の振る舞いや、議論での態度についてchildishといわれるのは、子供のころ感じたよりずっと強く、社会的に非難されていることだ、とさとることにもなりました。
 
 私が電車のなかで耳にした女子中学生の批評は、県庁につとめる大人がもらった名刺を折ったことを、childishな振る舞いだ、と批評したわけです。
 
 それに対して、もうひとりの女子中学生が、私の父もそういっていたのだけれども、と断ってから、
 ──しなやかな県政、というのがよくわからない、といいました。こんな抽象的な言い方をされては、困ると思う!
 
 プールに着いて泳ぎはじめてからも、私は考えていました。中学生や高校生から手紙をもらって、きみたちには勉強でも生活でもしなやかにやってもらいたい、と先生からいわれたが、抽象的でよくわからない、と質問されたとしたら、どう答えればいいだろう?
 
 私は、こう答えよう、と思ったのです。皆さんが先生の言葉を抽象的だと感じたら、ともかくそれとしてどんな意味かということを、辞書で調べてみるといい。「しなやか」なら、まず上品なさま、たおやか、と定義してあるものがあるけれど、これは古典を読む際に注意していればいい。
 
続いての、しなうさま、弾力にとんでたわむさまというのが、きみたちの生活のなかで生きている。語源のことがしっかり書いてある辞書だと、「しなふ」という古語の動詞とくらべてもあるだろう。草木が重さでたわむ、風に吹かれてたわみ、なびくこともこういう。それにたとえて、しなやかな様子をいう、とか書いてあるはずだ。それも、覚えておこう、と私はいうだろうと思います。
 
 さて、それから、きみたちが生きてゆくうえで、ひとつ具体的な問題を、きみたちのできる範囲で解決しなければならない、ということができてくるとしよう。中学生にも高校生にも、いまの世の中ではどのように生きるか難しい問題はいくらでもあるのだから。
 
 その時にね、しつかり考えてから、自分はこの問題に「しなやかに」取り組んでいるだろうか、ときみが検討してみるとする。それは確かに抽象的な言葉ではあるけれど、具体的な手がかりになるはずだよ。人間らしくということに近い言葉だということも実感できれば、それは、これからのきみの決定の仕方に光をあててくれるのじゃないか?
 
 それに加えてね、さきの古い言い方での「しなふ」が参考になる。力がかかってきても、ポキンと折れない、それがプラスの意味。私の知っているかぎり、自殺してしまった人たちのことを思うと、かれらにはかれら自身の重い問題が本当にあったと知りながらいうけれど、やはり「しなやかさ」をなくしていた、と残念に思わないではいられない。
 
 ところが、強い風になびくように、ということには、マイナスの意味もある。先生や親や先輩たちの圧力に──また、横からや、下からの圧力もあるから難しいんだが──すぐなびいてしまうということは、あまり良くない。そのことも覚えていてください。
(大江健三郎著「「自分の木」の下で」朝日新聞社 p135-144)
 
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◎「読んだ方がいい、読みたい、とやっと手に入れたのに、実際とりかかってみると読み続けにくい本」を読む……だれでも工夫してとりくんでいるのです。