学習通信040119
◎人が育つということE……青春・思春期「人間が成熟しなければならない時期」……
 
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はじめに
 
 思春期・青年期の臨床に関わっていると、個人の病理に限らない、さまざまな問題が見えてくることがあります。この、人生の中で最も不安定な一時期は、人間性のさまざまな本質が、いちばん純粋な形であらわれやすい時期でもあります。また、社会や文化、時代の影響を真っ先に、最も鋭い形でこうむるのも、この時期の特徴のひとつです。
 
 最近、十代の青少年による動機の不可解な犯罪や、インターネットで知り合った若者の集団自殺など、「若者の心」 の問題が新聞やテレビをにぎわす機会が増えたように思います。また、これに限らず、不登校やひきこもり、家庭内暴力、摂食障害、非行など、さまざまな若者の心をめぐる問題が、ときには「社会現象」として、関心を集めています。
 
 こうした思春期の心の問題は、しばしば個人の病理ということで説明されてしまいがちですが、単純に病気として個人を治療すれば済むとは限りません。さらに言えば、必ずしも治療が必要とも限らない。問題の原因にしても、本人の心の中にだけあるとばかりは言えません。本人を取り巻く環境、すなわち家族、あるいはその外例の社会などを考慮に入れながら、本人とともに考えていく必要があるのです。
 
 一般に貧しい国、発展途上の国では、思春期・青年期は存在しないか、ごく短期間と言われています。そこでは子どもたちは、少し大きくなると、すぐに大人と同様に扱われ、労働力の中に組み込まれていきます。一方、社会が豊かになり、経済的にも時間的にもゆとりが生まれ、社会が全体として成熟していくにつれて、人間が成熟しなければならない時期も、少しずつ遅れていきます。
 
 この成熟の遅れとともに、さまざまな新しい問題が見えてきます。思春期・青年期が本来はらんでいる境界性は、それまで存在しなかったような悩みや葛藤をもたらすでしょう。たとえば「自分が何ものであるか」について、これほど多くの若者が悩む時代が来ることを、誰が予測しえたでしょうか。そして、これほど多くの「大人」が、思春期の心を捨てきれないままに成熟を遂げるということも。
 
 悩みや病理の存在しない社会はありえません。その意味で、彼らの悩みをぜいたく品扱いすることは無意味です。私は、こうした問題を考える際、原因を単に個人の資質や性格のみに帰するのではなく、家族・社会をも含み込んだ「システムの病理」という視点からとらえようとします。具体的には、システムを構成する要因と、その作動条件を知り、どうすれば機能不全を脱し、よりよい作動に結びつくのか、そのことを考えていきたいと思っています。そのためには、常に彼らに「関わりつつ考える」必要があります。
 
 この講座では、現代の若者がどのような「心のSOS」を発しているのか、その現状と背景を探るとともに、どのように関わり、どのように対応するか、そうしたサポートのあり方についても考えていきます。若者の心の危機を見つめることにより、現代という時代を浮かび上がらせるシリーズとしたいと思います。
(斉藤環著「若者の心のSOS NHK人間講座」NHK p2-3)
 
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性教育攻撃を許すな 保護者、専門家ら許え
<東京で集会>
 
 男女平等の教育や性教育に対する攻撃が強まる中、教育現場でどんなことが起きているかを知り、一人ひとりが大切にされる男女平等教育を実現していこうと「いま、教育が危ない」(主催・同実行委員会)と題した集会が十八日、都内でおこなわれ、教職員、父母など二百五十人が参加しました。
 
 都教育委員会による性教育に対する「調査」で教材を没収され、教員が処分を受けた都立七生養護学校(東京・日野市)の保護者の会の母親が報告。「自分の体を大事にすることを学び、性被害に遭わないようにと始まった授業があって良かったし、授業内容も事前にらされていたので安心だった」と語り、当局のやり方は「『調査』ではなく攻撃を目的としたものだ」と批判しました。
 
今までどおりの授業の再開などを要望する署名は七千人分集まりました。子どもたちが学習権を奪われたとして現在、東京弁護士会に人権救済申し立てをしており、国境を越えて三千人の弁護士が賛同しているといいます。
 
 講演した「人間と性」教育研究所長の高柳美知子さんは、性教育への攻撃の不当性とともに、議員を含めた右派勢力が一体となった攻撃の強まりを指摘。共同の輪を広げ、こうした攻撃をはね返していくことを呼びかけました。
(しんぶん赤旗 040119)
 
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 いまここで問題にしている転換期についてのいくつかの重要な考察からはじめよう。子ども時代から思春期への移り変わりの時期は、それほどはっきりと自然によって定められているものではなく、個人にあっては体質によって、国民にあっては風土によって、ちがってくる。
 
この点について暑い国と寒い国とのあいだにみとめられるちがいはだれでも知っているし、血の気の多い体質はそれほどでないものよりもはやくできあがることもみんなが知っている。けれども、原因がまちがって考えられていることもあるし、道徳的なことのせいにしなければならないことが、肉体的なことのせいにされていることもしばしばある。
 
これは現代の哲学にもっともひんぱんにみられる誤りの一つだ。自然の教えはおそくなってからはじめられ、ゆっくりとすすめられる。人間の教えはほとんどいつも時期に先だってあたえられる。自然の場合には官能が想像をめざめさせる。
 
人間の場合には想像が官能をめざめさせる。想像は官能をはやくからはたらかせるが、これはまず個人を、やがては人間ぜんたいを弱く無気力にせずにはおかない。風土の影響ということよりも、もっと一般的に、そしてもっと確実にみとめられる事実は、教養のあるひらけた国民のあいだでは、無知で野蛮な国民のあいだにおけるよりも、思春期と性の能力がかならずいっそうはやくあらわれることだ。
 
子どもは特有の明敏さをもって、礼節のあらゆる猿まねのかげに隠された悪い風習を見破ってしまう。人が子どもにつかわせる洗練されたことば、かれらにあたえる品をよくするようにとの教訓、かれらの目のまえに張りめぐらそうとする神秘の幕(とばり)、これらはすべて好奇心を刺激するものとなるにすぎない。
 
この点において人がやっていることをみれば、子どもに隠すつもりでいることをかれらに教えているにすぎないことは明らかだ。しかも子どもにあたえられるすべての教えのなかで、それがいちばんよくかれらの身につけることなのだ。
 
 経験に照らして考えてみるがいい。そういう考えのないやりかたがどれほど自然の仕事をいそがせることになり、体質をそこなうことになるかがわかるだろう。これこそ都会に住む人間を退化させる主な原因の一つだ。青年は、はやくから生気を失って、体が小さく、弱く、十分に発育しないままに、成長しないで老いこんでしまう。春に実をならせたぶどうの木が秋を待たずにしおれて死んでしまうのと同じことだ。
 
 粗野で単純な国民のあいだで暮らしたことがなければ、そういう国では幸福な無知がどれほど長いあいだ子どもの純真さをもちつづけさせるか知ることはできない。そういう国の男女が青春の美しい盛りになんの不安も心に感じないで子ども時代の無邪気な遊びをつづけ、かれらの親しげな様子そのものがけがれのない楽しみを示しているのを見るのは、感動的でもあり、ほほえましくもなる光景だ。
 
そういう愛すべき若者たちがやがて結婚することになると、夫も妻もたがいにういういしい肉体を相手にささげ、そのためになおさらたがいにいとしい存在になる。健康で強壮な多くの子どもがどんなことがあっても変わらない結びつきの保証となり、若い時代の知恵の果実となる。
 
 人間が性を意識することになる時期は自然の作用と同じ程度に教育の結果によってもちがってくるとするなら、子どもの育てかたによってその時期をはやめたりおくらせたりすることができるわけだ。
 
そして、その歩みをおくらせるかはやめるかによって体が文夫になったりならなかったりするものとすれば、その歩みをおくらせるように努力すればするほど青年はいっそうのたくましさと力を獲得することにもなるわけだ。いまのところわたしはたんに肉体的な結果について語っているだけだが、結果はそれだけにとどまらないことはすぐにわかるだろう。
 
 これらの考察から、わたしは、よく論議されている問題にたいする解答をひきだす。それは、子どもの好奇心のまとになっていることについてはやくからかれらに説明してやったほうがいいか、それとも、お上品なうそでかれらをだましておいたほうがいいか、という問題だ。そういうことはどちらもしてはならない、とわたしは考える。
 
だいいち、そういう好奇心はきっかけをあたえなければ子どもに起こってこない。だからそういう好奇心をもたせないようにしなければならないのだ。つぎに、解答をあたえる必要のない問題は、それについて質問する者をだますことを必要としない。うそをついて答えるより、黙らせたほうがいい。
 
どうでもいいようなことではいつも黙らせることにしていれば、そう命じられても相手は別に意外とは思うまい。それに、答えてやろうと決心したばあいには、できるだけ率直に、はっきりと答え、困ったような顔を見せたり、微笑を浮かべたりしないことだ。子どもの好奇心は、刺激するよりも満足させてやったほうが、はるかに危険が少ない。
 
 答えはいつもまじめに、かんたんに、きっぱりとあたえなければならない。ためらっているような様子をけっして見せてはならない。真実を告げなければならないことは言うまでもない。
 
大人にうそをつくのは危険であることを子どもに教えるなら、大人としても、子どもにうそをつくのはなおさら危険であることを感ぜずにはいられない。先生が生徒に言ったことが言でもうそだとわかれば、教育の効果は完全に失われることになる。
 
 ある種の事柄についてはぜんぜん知らないでいるのが子どもにはいちばんいいのかもしれない。けれども、いつも隠しておくわけにはいかないことは、はやくから教えてやるがいい。ぜったいに好奇心をめざめさせないようにするか、でなければ、危険をともなわないうちに好奇心をみたしてやるか、どちらかにしなければならない。
 
生徒にたいするあなたがたの態度は、この点においては、生徒の個人的な境遇、かれをとりまく社会、いずれかれがおかれることになると予想される状況などに大きく依存している。ここではなにごとも偶然にまかせないことがたいせつだ。そして、十六歳になるまで性のちがいということについてなにも知らせないでおける自信がなければ、十歳になるまでにそれを教えてやるようにするがいい。
 
 事物をそのほんとうの名称で呼ぶことをさけようとして、子どもにむかってあまりにも洗練されたことばをつかったり、子どもにはすぐにわかってしまうのだが、まわりくどいことを言ったりするのをわたしは好まない。そういうことについては、品行の正しい人々はいつもひじょうに率直な態度を示している。
 
ところが、不徳によってけがされた想像力は耳を敏感にし、たえず表現に細かく気をつかうことになる。粗野なことばづかいをしても、それはたいしたことではない。みだらな観念こそ遠ざけなければならない。
 
 羞恥心は人間にとって自然のものだが、子どもはそれを自然にもつわけではない。羞恥心は悪を知ることによってはじめて生まれてくるのだが、子どもは悪を知らないのに、知るはずもないのに、その知識の結果である感情をどうしてもつことができよう。
 
恥を知れとか、品行を正しくせよとか子どもに教えるのは、世間には恥ずかしいこと、ふしだらなことが行なわれているのを教えることになる。そういうことをしりたいというひそかな欲望を感じさせることになる。
 
おそかれはやかれ子どもはその望みをとげることになり、想像力にふれる最初の火花は官能が燃えあがるのを確実にはやめる。顔を赤らめる者はすでに罪を犯しているのだ。ほんとうに純真な者はなにも恥ずかしいとは思わない。
 
 子どもは大人と同じような欲望をもたない。けれども、大人と同じように、感覚に不快を感じさせる不潔なことをしないわけにはいかない。この必要だけからでも子どもはやはりたしなみということを教えられる。自然の方針に従っていくがいい。
 
自然はひそかな快楽の器官と不愉快な必要の器官と同じ場所におくことによって、あるときはある観念によって、またあるときは別の観念によって、大人には慎しみということによって、子どには清潔さということによって、ちがう時期にも同じような心づかいをさせることにしている。
 
 子どもに純真な心をももつづけさせるよい方法は一つしかないと思われる。それは、子どものまわりにいるすべての人が純真なものを尊重し、愛することだ。そういうことがなければ、子どもにたいしていくら慎重な態度をとろうとしても、いずれはぼろがでてくる。
 
ちょっとしたうす笑い、目くばせ、不用意な身ぶりが、子どもには言うまいと思っていることをなにもかも話してしまう。そういうことを知るには、人がそれを隠そうとしていることがわかるだけで子どもには十分なのだ。
 
お上品な人たちがおたがいのあいだでつかっている繊細な言いまわしやことば、子どもはもつべきではない知識を予想したうえでの言いまわしやことばは、子どものいるところではまったく場ちがいのものだ。ところが、子どもの単純さを心から尊重していれば、子どもに話しかけるときには、かれらにふさわしい単純なことばを容易にみいだせるのだ。
 
無邪気な者にふさわしいことば、かれらを喜ばせる素朴なことばづかいというものがある。それが危険な好奇心から子どもを遠ざける正しい話しかただ。なにごとについても率直に語れば、まだ自分に話さないでいることがなにかあるのではないかと子どもに疑いをもたせるようなことはしないですむ。粗野なことばにはそれにふさわしい不快な観念を結びつければ、想像の火はたちまち消しとめられる。
 
そういうことばを口に出したり、そういう観念をもったりすることをとめられなくても、知らないうちに子どもはそういうことばや観念を呼び起こすことに嫌悪をおばえるようになるのだ。こういう素朴な自由は、それを自分の心からひきだして、いつも言っていいことを言い、いつも感じたとおりのことを言う人々に、どれほど多くの当惑をまぬがれさせることだろう。
(ルソー著「エミール -中-」岩波文庫 p14-19)
 
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◎「人間が性を意識することになる時期は自然の作用と同じ程度に教育の結果によってもちがってくるとするなら、子どもの育てかたによってその時期をはやめたりおくらせたりすることができる」と。
 
◎性教育に対する東京都の「議員を含めた右派勢力が一体となった攻撃」が人間が育つことにとって、道徳的に見てもどのような意味があるのか。社会の状態によって「人間が成熟しなければならない時期も、少しずつ遅れていきます」と。社会必然性とともに青春・思春期をとらえなければならないと思います。