学習通信040115
◎人が育つということD……思春期
 
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無言の人
 
 平成一二年九月一二日付日本経済新聞の夕刊に、「若者に広がる『対面無言症候群』」と題された記事が載っている。面と向かっての対話を避けたがる若者や子供が最近増えており、あながちマナーや躾けの問題だけとも思えないのでそれを差し当たって「対面無言症候群」と命名し、その不気味さや原因についてレポートしたものが記事として発表されていたのである。
 
 同紙に挙げられていた実例を幾つか引用してみよう。
 
●スーパーのレジに並んでいた若者に、レジ係の女性が特典付きのスタンプが欲しいかどうかを訊ねたところ、若者はまったく返事をすることなく立ち去った。レジ係によれば、こういった若者が近頃は多いという。
 
●学習塾を経営している人物が言うには、「今日は学校どうだった」と生徒に問いかけても、淡々とした表情で一言も発しない小学生が目立つという。「以前から恥ずかしくて無口という子はいたが、今は様子が違う。会話する能力が乏しいようだ」。
 
●甲南女子大学の島田博司助教授によると、講義中に「以前は質問して答えられないとき『わかりません』とはぐらかす学生が多かったが、『知りません』に変化した」。どうやらコミュニケーションを回避する態度のあらわれとみられ、これを「避語(ひご)」と名付けて発表したところ賛同の声が多く寄せられた。
 
 口を利いて相手とやりとりすることを面倒がり、それを失礼だと思ったり相手がどんな感情を抱くかを想像出来ないらしいところに、荒涼とした世相を実感したということであろう。確かにわたしも相手が無言で通そうとすると立腹する(相手が患者の場合は話は別であるが)。
 
機嫌が悪いときだと相手の胸ぐらを掴んで「そんなに返事をするのが嫌なら、返事をしたくても出来ないようにしてやろうか〜」と囁いてやりたくなる。それでも黙っている薄馬鹿がときおりいて、何だか昆虫と向かい合っているかのような無気味さに囚われることがある。実に嫌な体験である。
 
 この対面無言症候群の理由については、案の定、ITだとかバーチャルに理由を求める意見が載せられていた。なお、最初の例(スタンプが入用かと訊ねたら返事をしないで立ち去った)については、道端でチラシやティッシュを配っていてそれを無視しょうが貰おうが、どちらも無言のまま本人次第といった昨今の風潮と決して無縁ではないような気がする。
 
 教育評論家の尾木直樹は電子メールによって大学生らの悩みの相談にのっているが、内容が複雑なときには電話を寄こすように言っても、決して電話はしてこないという。「メールだと親友のように何でも話すのに」。そして「以前は人付き合いが下手だと寂しいので、なんとかしょうと努力した。今はバーチャル(仮想)な世界で代替してしまう若者が多い。九〇年代半ば以降の現象だ」と語っている。
 
 子ども調査研究所の高山英男所長は「地域社会の崩壊などが進み、子供が異質な他人と対話する機会が減ったことも一因」と指摘している。
 
 プチ・ひきこもり
 
 実はわたしもこの記事でインタビューを受けている。そのときには、おそらく黙々とメールを打ち込んでいる若者の姿と関連づけた意見が出てくるだろうが、若者論については何でもかんでもITやバーチャルリアリティーに原因を求めてしまう傾向に疑問があったので(まったく否定する気はないけれども、それだけで説明しきれるほどヒトの心は単純ではないと思っているので)もっと別なことを言ってみたいといった気持ちがあった。
 
 で、わたしの頭には三つのことが思い浮かんだのである。ひとつは、必ずしも彼らは対話を拒絶しているわけではないだろうということ。ただし「上手く言葉が見つからない」「どうすればソツなくこの場をクリア出来るかが分からない」「年長者にああだこうだと言われるのは面倒だし」といった具合に、煩わしさを感じているのも事実だろう。もうひとつは、彼らは沈黙に対する耐性が強いということ。
 
沈黙に伴う気まずさ、相手に失礼ではないかといった配慮、不安感などが希薄であり、これはたんにそういったものが欠落しているというよりはある種の適応形態に近いのではないか。昔、ラジオか何かで聞いたことのある話なのだが、ハンバーガーの自動販売機についてのエピソードなのであった。ハンバーガーの自動販売機を作ったところ、商品を温めて取り出し口へ出すまでに三〇秒近くかかる。
 
ところがその間に、客は果たして機械がちゃんと作動しているのかどうか強い不安に駆られてしまうので、わざとゴトゴトと音を出したり時間経過に従ってパイロットランプが次々に点灯していく仕掛けを付け加えたというのである。昨今のコンピュータに順応した人たちには、そうしたブラックボックスに対する素朴な不信感や不安感が薄く、そういった心性が沈黙に対する耐性とリンクしているのではないか。
 
 そしてもうひとつは、対面無言症候群はいわばミニチュア版の「プチ・ひきこもり」に近いものではないかということであった。対面の場において、自分自身の中にひきこもってしまう訳である。喋ること自体が煩わしかったり興味が湧かなかったり面倒なとき、とにかくそれを回避してしまうというのは一つの立派な方法論であろう。
 
ただしそれを実行してしまうと、いろいろと厄介なことになったり損をしかねない。だが、「ひきこもり」という選択肢が異常とか不適応といった烙印を押されるよりはむしろ人生におけるペンディング状態とみなされるようになった現在においては、ひきこもり的な態度は決して相手をないがしろにするとか非常識とかいった文脈には属さないのだろう。その延長に、「プチ・ひきこもり」として対面無言症候群だか避語といったものが発生しているのではないか。
 
 あえてITとかバーチャルリアリティーとは別なところで考えてみたかったために、そのような発想をしてみたのであった。わたしの考えが間違っているのか牽強付会なものなのかはともかく、「ひきこもり」といった事態があまねく広がっている事実はおそらく若い人を中心にして、物事の価値観や優先順位の決定においてかなり強い影響を与えている筈である。(春日武彦著「17歳という病」文春新書 p80-84)
 
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 思春期とは
 
 ではその前に、ここで当然のように語られている「思春期」について、簡単におさらいしておきましょう。思春期とは、子どもから大人へとうつりゆく人生の一時期を指す言葉です。だいたい小学校高学年から中学にかけてはじまるとされています。この時期には、体の上では二次性徴があらわれ、これにともなって異性への関心や恋愛感情などが生じてきます。しかし、もちろんそれだけではありません。
 
ものの考え方が抽象的、観念的になり「自分とは何か」「生きるとはどういうことか」といったことについて真剣に考えたり悩んだりするようになるのもこの時期です。この時期には、心と体の成長の速度に不釣り合いが起こりやすく、しばしば心身ともに不安定な状態になりやすいのです。
 
 思春期にはまた、それまでの人間関係のあり方も大きく変わります。たとえば、それまでは素直だった子が、急に両親に対してよそよそしい態度をとるようになったりします。親と外出することを嫌がったり、部屋に入られることを嫌がるようになる場合もあります。対社会的にも、体はもう成熟して大人と同等であっても、まだ一人前としては扱われないという、中途半端な立場にあります。
 
一方、同世代の仲間とのつき合いはいっそう親密になり、仲間内の信頼関係が親子間のそれ以上に高い価値を持つようになります。異性の視線を意識するようになり、それまで仲良くしていた異性の友人から遠ざかるようになり、同性のグループで固まるようになります。そうした同性の親密な関係を経てから、ようやくおずおずと、異性との恋愛関係のほうへと歩み出していくのです。
 
 前述したとおり、思春期は心身ともに不安定になりやすい時期です。「思春期危機」という言葉がありますが、まさにこの時期の不安定さは、ときとして極端なものとなり、精神的危機に陥りやすくなるのです。思春期とはむしろ、不安定なのが当たり前という時期なのかもしれません。
 
 この不安定さを、E・H・エリクソンは「自己同一性(アイデンティティ)」の危機として考えました。自己同一性とは「自分は何ものか」という、社会的な位置づけについての感覚です。また「自分は自分である」という一貫性を指すこともあります。思春期に入る以前の子どもは、親や家族をよりどころとして、安定した自己同一性を持つことができますが、思春期に入ると、自分なりの同一性を新たに作り上げなければならなくなります。しかし、それはしばしば、大きな困難をともなうのです。
 
 それまで「手のかからない良い子」と思われていた子どもたちが、思春期を迎えると、さまざまな精神的問題を生じることが多いのもこのためです。それまでは、家族を中心とした狭い社会の中で、「良い子」でさえいれば適応できました。
 
しかし、思春期になると、「良い子」であるだけでは自己同一性を保てないような、広い世界に向き合うことになります。このとき、自己同一性は大きく混乱させられてしまいます。それがときには、不登校、ひきこもり、摂食障害、非行、自殺など、さまざまな問題に結びつくこともあります。これらは精神的な問題とはいえ、それが医師による治療を必要とするかどうかの判断も、しばしば曖昧なものになりがちです。このことが問題の解決をいっそうむずかしくするところがあります。
(斉藤環著「若者の心のSOS」NHK人間講座 p10-12)
 
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 ある院生が、興味深いことを言った。「自分は違うが他人はそうだと言うのは、自分と自分の友達は違うが、ただ知っているだけというようなひとたちはそうだという意味だ。自分と自分の友達は違うというのは、興味や関心の同じひとが友達になるからかもしれない。他のひとたちを見ていると、やはりあまり考えていなかったり、つきあいも浅いみたいだと思う」と説明してくれた。
 
そして、さらに続けて、「だけど、そのひとたちがそれで満足しているなら、それでいいじゃないだろうか。他人がとやかく言う問題ではないし、そのひとたちが間違っているわけではない。価値観の違いだと言える。他のひとたちに自分の考えを押しつけたくないし、押しつけられたくもない」と言った。
 
この話を聞いていて、この最後の部分、「価値観の違い」とか「考えを押しつけない」とかというのが、今の若者を理解するうえで、キーワードになるだろうと思った。というのも、こうしたことばをしばしば耳にするからである。
 
 話は発展した。塾の講師をしている学生が、休んでいる友人のことを中学生に聞いた。すると、「休んでいる子は、それはそのひとの考えかただし、生きかただから、そっとしておいてあげるのが、一番いい」という回答が返ってきたという。彼は、「今の中学生は幸せだ。ぼくらの時は、学校に行かないという選択肢はなかった。だけど、今だったら、不登校もあるし、フリースクールもある。選択肢の幅が広いということだから、それだけ自由が広がった」といった。
 
 これらの話には、大人のような気配りや、互いを自分の価値観で評価して排除するなどといったことをしあわないという配慮が感じられる。これは大切なことのように思われる。これまでのように特定のありかたが正しいとする「押しつけ」よりも、一歩進んだ人間関係のありようのように思われたからである。
 
 しかし、他方でそこには、他者とかかわって、互いの共通性を確認していこうとする志向性はあまり感じられない。それは、「やさしさ」の一つの表現であっても、「かかわらないやさしさ」のように思われる。結局は、お互いにバラバラなままであり、「価値観の多様化」というのはそれを合理化しているだけのように思える。
 
 そこで、私は言ってみた。「ちょっと待てよ。本当に、自由が拡大したのだろうか。本当に、どんな生きかたをしても許される社会になったのだろうか。なぜ不登校が増大したのか、その原因についてもっと考えなければならないのではなかろうか。不登校になった後の選択肢はあるとしても、不登校にならない選択肢はその子にあっただろうか。それに、『休んでいる子は、それはそのひとの生きかただし、考えかただからいいのじゃないか』って、どこか、さみしくないか」といった。
 
彼は、「確かにそうだ。中学生の考えかたは、ぼくとは違う。ぼくだったら、どうして塾に来ないのか、聞きに行くと思う。それが友達ってもんだし、実際にそうしている」という。
 
 ちょっとびっくりした。というのも、彼は反論してくるのかと思ったからである。「僕は違う」という。これは「みんなはそうだが、私は違う」という、まさにここで問題にしていることが、はからずもあらわれたからである。
 
 いとも簡単に前言を翻したことを考えてみると、「みんなはそうだ」と言うのは、とりあえず世間に同調しておこうということのようにも思えてくる。みんなが言うようなひとは多いだろうし、よくわからないが昔と比べればそうなのかもしれない。自分でもそういう面は否定できない。でも、若者の全員ではないし、自分の全部ではない。
 
つまり、「そうなってしまっているとしても、本当の自分は違うのだ」ということのあらわれではないのだろうか。
 
 別の学生が、「友達関係は、目玉焼きみたいなもの」といった。「とても仲のよい友達は、黄身。白身は知っているだけの友達。だけど、白身の友達もいないとさみしい」ということだった。いつの時代も、親しい友人と親しくない友人がいたに違いない。
 
しかし、今の若者は、親しくない白身の友人は、自分たちとはかなり違う別人のようになって、「何を考えているのかわからない」となってしまうのだろうか。現代青年の友人関係のありかたを考えてみる必要がありそうである。
(白井利明著「大人へのなりかた」新日本出版社 p46-49)
 
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 わたしたちの情念の源、ほかのすべての情念の初めにあって、そのもとになるもの、人間が生まれるとともに生まれ、生きているあいだはけっしてなくならないただ一つの情念、それは自分にたいする愛だ。それは原始的な、人が生まれながらにもつ情念で、ほかのあらゆる情念に先だち、ほかの情念はすべて、ある意味で、それの形を変えた私のにすぎない。この意味では、すべての情念は自然のものといってもいい。
 
しかし、そういう形を変えた情念の大部分は、外部的な原因をもつのであって、その原因がなければけっして生じてこない。そして、そういう形を変えた情念は、わたしたちにとって有益なものではなく、かえって有害ある。それは、最初の目標を変えて、その根元にあるものと反対のことをさせる。そこで人間は自然の外へ出ることになり、自分と矛盾することになる。
 
 自分自身にたいする愛は、いつでもよいもので、いつでも正しい秩序にかなっている。人はだれでも、とくに自己を保存しなければならないのだから、なによりも心がけなげればならないこと、いちばんだいじなことは、当然、この自己保存ということにたえず心をくばることだ。ところで、なによりもそれに関心をもつということがなければ、どうしてたえず心をくばることができよう。
 
 だからわたしたちは、自己を保存するために自分を愛さなければならない。どんなものよりもいっそう自分を愛さなければならない。そして、こういう感情の直接の結果として、わたしたちは、わたしたちの身をまもってくれるものを愛する。子どもはみな乳母に執着をもつ。ロムルスは乳を飲ませてくれた狼に執着をもっていたにちがいない。
 
こういう執着は、はじめは純粋に機械的なものだ。ある個人の快い生活を助けてくれるものは、その人をひきつける。有害なものは嫌悪を感じさせる。こういうことは盲目的な本能にすぎない。この本能を感情に変えるもの、執着を愛に、嫌悪を憎悪に変えるもの、それは、わたしたちに害をくわえたり、わたしたちの役にたったりしようとする明らかな意図だ。ほかからあたえられる衝動に従っているだけの無感覚な存在にたいしては、人はなんの情熱も感じない。
 
ところが、その内面の傾向から、その意志から、よいこと、あるいは悪いことが期待される人々、わたしたちのために、あるいはわたしたちに逆らって、自由に行動することがわかっている人々は、かれらがわたしたちに示す感情と同じような感情をわたしたちに起こさせる。人は、自分の役にたつものはもとめるが、自分の役にたとうとするものは愛する。自分の害になるものはさけるが、自分に害をあたえようとするものは憎む。
 
 子どもの最初の感情は自分自身を愛することだ。そして第二の感情は、この最初の感情から生じてくるのだが、かれに近づく人々を愛することだ。無力の状態にある子どもは、助けをうけ、世話をされることによってのみ、人々を知ることになるからだ。
 
最初は、乳母と付き添いの女にたいする子どもの執着は習慣的なものにすぎない。彼女たちをもとめるのは、彼女たちを必要とするからだし、彼女たちがそばにいるとぐあいがいいからだ。それは好意をもつことではなく、むしろ知り分けることだ。彼女たちが自分にとって役にたつばかりでなく、役にたとうとしていることを理解するまでには、長い時がかかる。そして、それを理解したときにはじめて、子どもは彼女たちが好きになる。
 
 そこで子どもは、生まれながらに人に好意を感じる傾向をもつ。かれに近づくすべてのものがかれを助けようとしていることがわかるからだし、それに気がつくことによって、自分と同じ人間にたいして好感をおぼえる習慣を身につけるからだ。
 
けれども、子どもがその関係、必要、能動的または受動的な依存状態を拡大していくにつれて、他人との結びつきという感情がめざめ、義務とか好き嫌いとかの感情が生まれてくる。そこで子どもは、命令的になり、嫉妬を感じるようになり、人をだましたり、仕返しをしたりするようになる。服従をしいられると、命令されていることがなんの利益になるのかわからない子どもは、それを気まぐれのせいにしたり、わざと自分を苦しめようとしているのだと考えたりして、それに反抗する。
 
他人のほうでかれの言いなりになっていると、なにかかれに抵抗するものがあると、すぐにそれを自分にたいする反抗とみなし、わざと抵抗しようとしているのだと考える。いうことをきかないからといって、かれは椅子や机をたたく。自分にたいする愛は、自分のことだけを問題にするから、自分のほんとうの必要がみたされれば満足する。
 
けれども自尊心は、自分をほかのものにくらべてみるから、満足することはけっしてないし、満足するはずもない。この感情は、自分をほかのだれよりも愛して、ほかの人もまたかれら自身よりもわたしたちを愛してくれることを要求するのだが、これは不可能なことなのだ。こうして、なごやかな、愛情にみちた情念は自分にたいする愛から生まれ、憎しみにみちた、いらだちやすい情念は自尊心から生まれるのだ。
 
だから、人間を本質的に善良にするのは、多くの欲望をもたないこと、そして自分をあまり他人にくらべてみないことだ。人間を本質的に邪悪にするのは、多くの欲望をもつこと、そしてやたらに人々の意見を気にすることだ。この原則によれば、子どもと大人のあらゆる情念を、どうすればよいほうに、あるいは悪いほうにむけることができるか容易にわかる。
 
たしかに人間は、いつもひとりで暮らすことはできないから、いつも善良でいることはむずかしい。このむずかしさそのものが、人間関係がひろがるにつれて必然的に大きくなっていくのだ。そしてとくにこの点において、社会のいろいろな危険は、新しい必要から生まれる堕落を人間の心に生じさせないようにするための技術と心づかいを、わたしたちにとっていっそう不可欠のものにしているのだ。
 
 人間にふさわしい研究は自分のいろいろな関連を知ることだ。肉体的な存在としての自分だけしかみとめられないあいだは、事物との関連において自分を研究しなければならない。これは子ども時代にすることだ。道徳的な存在としての自分が感じられるようになったら、人間との関連において自分を研究しなければならない。これは今わたしたちが到達している地点からはじめて、一生かかってすることだ。
 
 伴侶を必要とするようになれば、人間はもう孤立した存在ではない。かれの心はもう孤独ではない。人間にたいするかれの関係はすべて、かれの魂の愛着はすべて、それとともに生まれてくる。かれの最初の情念はやがてほかの情念を醗酵させる。
 
 本能にもとづく好みははっきりと決まってはいない。一方の性が他方の性にひきつけられる。これが自然の衝動だ。よりごのみ、個人的な愛着は、知識、偏見、習慣からつくられる。わたしたちに恋愛が感じられるようになるためには、時と知識が必要なのだ。判断をしたあとではじめて人は恋をする。くらべてみたあとではじめて人はよりごのみをする。その判断は気がつかないうちに行なわれるのだが、とにかく、それは現実に行なわれるのだ。
 
ほんとうの恋愛は、人がなんと言おうと、いつも人々から敬意を寄せられるだろう。恋愛の興奮はわたしたちの心を迷わせるにしても、恋愛はそれを感じている者の心からいまわしい性質を失わせることにならないにしても、そういう性質を生みだすことさえあるにしても、それにしても恋愛はいつも、すぐれた性質のあることを示しているのであって、それなしには人は恋愛を感じることはできないのだ。
 
理性に反したことと考えられている選択は、じつは理性から生じてくるのだ。愛の神はめくらだといわれている。この神はわたしたちよりもするどい目をもっているからだ。そして、わたしたちにみとめられない関連を見ぬいているからだ。すぐれた点とか、美しさとかいうことについてなんの観念ももたない者にとっては、どんな女性でもけっこう、ということになり、最初に出会った女性がかならずいちばん好ましい女性、ということになる。
 
恋は自然から生まれるなどとは、とんでもないことだ。それは自然の傾向を規制するもの、そのブレーキになるものだ。恋を感じればこそ、愛する対象を除けば異性はなんの意味もない存在になる。
 
 特別の愛着をもてば、相手からも特別の愛着をもたれたいと思う。恋愛は相互的なものでなければならない。愛されるには愛すべき人間にならなければならない。特別に愛されるためには、ほかの者よりもいっそう愛すべき者にならなければならない。ほかのだれよりも愛すべき者にならなければならない。少なくとも愛の対象の目にはそう映らなければならない。
 
そこではじめて自分と同じような人間に注目することになる。そこではじめて、自分をかれらにくらべてみる。そこから競争心、嫉妬心が生まれてくる。ある感情にみちあふれている人は、自分の心をうちあけたいと思う。愛人を必要とする気持ちから、やがて友人を必要とする気持ちが生まれる。
 
愛されることがどんなにうれしいことかわかっている者は、すべての人から愛されたいと思うだろうが、だれもかれも特別に愛されることを願うとすれば、その願いをかなえられない者がかならずたくさんできてくる。恋愛と友情とともに、不和、敵対、憎悪が生まれてくる。
 
こういう多くのさまざまの情念が渦巻くなかに、憶見が揺がしがたい王座をうちたて、愚かな人間たちは、その権威にしばられて、かれら自身の生活をひたすら他人の判断のうえに築いている、そういう光景をわたしは見ている。
(ルソー著「エミール -中-」岩波文庫 p8-13)
 
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(一八)見方によっては、人間も商品と同じである。人間は、鏡をもってこの世に生まれてくるのでもなければ、私は私である、というフィヒテ流の哲学者として生まれてくるのでもないから、はじめはまず他の人間に自分自身を映してみる。
 
人間ベーターは、彼と等しいものとしての人間パウルとの関連を通してはじめて人間としての自分自身に関連する。だが、それとともに、ベーターにとってはパウルの全体が、そのパウル的肉体のままで、人間という種属の現象形態として通用する。
 
※〔フィヒテ「全知識学の基礎』、第一部、第一章「端的に無制約な第一根本命題」のはじめに出てくる命題。木村素衛訳、岩波文庫、上巻、一〇七ページ以下〕
(マルクス著「資本論@」新日本出版社 p90-91)
 
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◎人とひととの関わりは人間として育つ不可欠な要素なのだと。
 
◎「愛されることがどんなにうれしいことかわかっている者は、すべての人から愛されたいと思う」……と。