学習通信040114
◎知るということ、無知ということの怖さ……。
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『バトル・ロワイアル』は反社会的な作品か
『バトル・ロワイアル』という作品がある。
「強い大人の復権」をめざすために制定された新世紀教育改革法・通称「BR法」により、三年B組の生徒たちは理不尽な生き残りを余儀なくされる……といった内容の作品で、「中学生たちが殺し合いをするシーン」が、公開前から話題となった。映画版のパートUが製作されていることからもわかるように、大層人気があるらしい。
が、個人的な「好き・嫌い」は別として(「あなたはどちらですか」と問われれば、「私は嫌いです」と答えることになるが)、この作品の読み取られ方が、私にはどうにも居心地が悪い。
この作品の賛美のされ方を見聞きする度に、「それって、勘違いなんじゃあ……」
こんなふうに思ってしまうからだ。
「もしも自分が、あんなくだらない法律のある社会で生きよ、と言われたなら」
こう考えることで、私の違和感はより鮮やかになる。きっと私なら、「まずは教師キクノを殺してやりたい」=「なんでおまえなんかに、自分の『生き死に』がかかったことを命令されなきゃいけないんだよ、ふざけんな!」、こう考えるに違いないからだ。
「殺し合いをしろ!」と命令されたら殺し合いをすることができる、そんな人間たちになぜ感情移入ができるのだろう、私などはそう考えてしまうのだが、世評ではそういった発想に基づいた意見は聞かれない。そう、いつの間にか「この国」は、あんなくだらない法律のある社会で生きよ、と言われたとしても、「決まっちゃったことはしょうがない」
こんなふうに考えるのが当たり前の人間が、多数を占める社会になってしまっていたのである。
故深作欣二監督は、十代の時に敗戦を迎え、「大人の言うことは信用できない」と思うようになったそうである。以後、その思いに基づいて、作品を作ってきたらしい。一見、「反社会的」なスタンスである。が、実は
『バトル・ロワイアル』は、「決まっちゃったことはしょうがない」と考える子供たちのお話でしかなかった。
「決まっちゃったことはしょうがない」
こう考える人間ほど、「『信用できない』と呼ばれる側」にとって御しやすい生き物はない。なんのことはない、深作監督は敵に塩をおくってしまっていたのだ。そんな第一印象を抱いてしまった私としては、今になって「すべての大人たちに宣戦布告!」と言われても「なんでいまさら……」な気分である。
私の世代の場合は、『バトル・ロワイアル』=「別にどうでもいい」というスタンスの人が多かったように思う。邦画というメディア自体にまったく関心を持っていない、というのが一番正しい見方かもしれない。
私個人のスタンスについて述べれば、「別に見たいとは思わない」であり、「見たい」という若者については「近ごろの若いもんはこういう設定の話が好きやねえ……私にはどうでもいいことやけど」と思い、「作りたい、若者に見せたい」という作り手については「『ボクたちは、人が無意味に(それも、できれば凄惨に!殺し合うさまを高見の見物するのが好きなんです!』っていうんなら、
『好きです』って素直に言えばいいのに……いちいち能書き垂れやがってウザいやつら」と思い、「子供には見せたくない」と言う人たちについては「どうしていつも『子供のために』っていう大義名分をほしがるんだか……おまえはどうなのか、それをまず言えよ、それが一番肝心なんだよ!」と思っていた。
『バトル・ロワイアル』の場合、「誰かを殺さなければ自分が殺される」、だから「人を殺すのもやむなし」、これが大前提なわけである。「緊急避難」を実行しなければならない状況に、国家によって強制的に追い込まれた、というわけだ。
「誰かを殺さなければいけない」、こういった状況に陥った場合、私ならば「一番殺してやりたいやつ」を殺す。『バトル・ロワイアル』の場合ならば、前述の通り、高見の見物をしている「教師キクノ」だ。殺すべき「唯一絶対の相手」はこいつである。「くびれの世代」の人間なら、この発想にうなずいてくれる人は多いと思う。
要するに、感情の発露の仕方が非常に「私的」なのだ。しかし、それがいけないことだとは私は思わない。「人を殺したい」という感情は、所詮個人レベルにとどめるべき感情である、すなわち、国家を筆頭とするなんらかの「組織」によって「人を殺したい」という感情の発露の管理が可能な状態をもたらしてはならない、そう私は考えているからだ。
要するに、組織が人間に向かって「人殺しをしろ!」と命令してはいけない、そう私は考えているのであり、ゆえに私は非戦論者なのである。
ところが、団塊の世代は違う。団塊の世代の問題点とは、こういった状況の時には、「殺すべき相手をみんなで殺しましょう」、と主張した点にある。そう、「全共闘」、である。
この発想は、結局は、「殺すべき方法をみんなで考えましょう」「殺すべき相手をみんなで決めましょう」へとつながり、結果……というわけである。
が、私はつるむのが嫌いだ。
誰かを殺すための算段を「みんなで」するぐらいなら、「一人で」殺しにいって刺し違えるほうがましだからだ。たとえ成功する確率が、「みんなで」やる場合よりも低かろうとも。
けれども、こういった発想をする人間は、やはり少数派であるらしい。(荷宮和子著「若者はなぜ怒らなくなったのか」中公ラクレ p10-13)
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君子は豹変す−−新しい自分が生まれる
古典を読むと、逆ですよ。人間が変わるということを示す言葉は、枚挙にいとまがないくらいです。そういう言葉が世間から消えていったことがよくわかります。たとえば「君子豹変」と昔はいいました。これなんか、いまではたぶん悪い意味でしょ。昨日までああいっていたのに、今日は違うことをいいやがって。そういう意味だと思ってるんじゃないんですか。
それは違います。君子は豹変するんです。いままで気づかなかったことを学べば、ガラッと考えが変わる。それでいいのです。末期ガンで、保っても半年です。そう医者にいわれたら、豹変しておかしくないでしょ。自分が仮にそういわれたとして、なにを思うか、いまからわかりますか。わからないでしょう。
そのときにならなければ、わからないんです。そのときの自分とは、いまの自分とは「違う自分」じゃないですか。いまの自分にはとうてい理解できない人なんですよ。それがどうして「同じ自分」なんですか。
「朝に道を間かば、夕べに死すとも可なり」。『論語』にそういう言葉があります。朝学問をすれば、夜になって死んでもいい。学問とはそれほどにありがたいものだ。ふつうはそう解釈されてるんじゃないでしょうか。でも、若い人が聞いたら、バカじゃないかと思うんじゃないんですか。朝学問をして、その日の夜に死んじゃったら、なんの役にも立たないじゃないか、つて。
私は解釈が違うんです。学問をするということは、いわば目からウロコが落ちることです。つまり自分の見方がガラツと変わるわけです。自分がガラッと変わると、どうなるか。それまでの自分は、いったいなにを考えていたんだと思うようになる。前の自分がいなくなる、たとえていえば「死ぬ」わけです。
わかりやすいたとえは、恋が冷めたときじやないですか。なんであんな女に、あんな男に、死ぬほど一生懸命になったんだ。いまはそう思う。じつは一生懸命だった自分と、いまの自分は「違う人」なんですよ。一生懸命だった自分は、「もう死んで、いない」んです。
人間が変わったら、前の自分は死んで、新しい自分が生まれているといってもいいのです。それを繰り返すのが学問です。ある朝学問をして、自分がまたガラッと変わって、違う人になった。それ以前の自分は、いわば死んだことになります。それなら、夜になって本当に死んだからって、いまさらなにを驚くの。そういう反語なんです。それで正しい解釈か?つて。そんなこと、知りません。私はそう思っているというだけです。
いまの人は、そんなことはもうまったく考えないでしょう。だって、私は私で、変わらないはずなんですから。だから自分が変わった覚えもないでしょう。
要するに知ることは自分が変わること、その常識が消えてしまっただけのことです。だから知ることの意味がまったく違ってきました。そういう世界で学生を教えていたから、なんだか変だなあと思うようになったわけです。
自分が変わったとたん、ある種の知識は意味を持たなくなっちゃうでしょ。あと半年で寿命が終わりだと思ったら、会社の人がどんな噂話をしてようが、関係ないよ、そんなもの、と思うんじゃないですか。昨日までは自分もー緒になって、ワイワイいってたのに。でもそれで当たり前でしょ。(養老孟司著「養老孟司の<逆さメガネ>」PHP新書 p138-141
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野村──自分を限界づけるのは不遜である
新庄は素晴らしい素質に恵まれた選手です。肩は強い。脚は速い。反射神経は鋭い。だれが見ても惚れ惚れします。だから、阪神の歴代監督はだれもが彼に期待しました。しかし、期待され続けて、すでに九年です。守備には素晴らしいものを見せるが、打撃が低迷したままです。
人を動かすには三つの方法がある、といいます。一つは、利益を与えて動かす。一つは、論理で動かす。一つは、感情で動かす。野球監督が選手に金を与えて、ああやれ、こうやれというのもおかしな話ですから、論理か感情で動かす、ということになります。
私の見るところ、彼は論理はだめです。考えるタイプではありません。感情で動くタイプです。すると、感情を刺激しなくてはなりません。彼に投手をやらせてみたのは、感情を刺激するための手段です。
新庄は肩が強い。それに尻が張っていて手足が長くて、投手の体型です。だから、投手をやらせてみることにしたのです。
正直にいって、彼がプロに入ったとき、つまり九年前に彼に出会いたかったと思います。そうしたら、外野手との二刀流ではなく、投手に専念させたでしょう。間違いなく、それ相当の投手になったと思います。
だが、すでに九年が経っています。これから本格的に投手に専念させるには時間がない。だから、外野手と投手の兼業にさせたわけです。
彼の二刀流は、基本的にダメモトだと私は思っています。彼に投手を継続させる条件は、百四十五キロから百五十キロの直球でストライクが取れ、ボールの威力だけで打者を抑えられることです。それがクリアできなかったら、投手専門でやっている選手がいっぱいいて、それのほうがましですから、彼は外野至本にもどします。
彼の守備力と走力は投手をやったことで少しも損なわれませんから、ダメモトというわけです。
私としては、彼に投手をやらせることで、何かを感じてくれることを一番期待しているのです。投手としての結果がどうであれ、何かを感じてくれれば、それが変わる糸口になると思うのです。
それにしても、考える行為が苦手というのは困ったものです。考えないから気づかない。気づかないから、変わらない。変わらないから、いつまでも同じことをやっている。同じことをやっている限り、出てくる結果が変わるはずはないのです。
結果が出ないとどうなるか。限定、妥協、満足、諦めに入ります。そうなったら、絶対に一流にはなれません。二流のままで終わるしかありません。
新庄も打撃が低迷したまま、いくらやっても結果が出ないものだから、最近、
「自分はこんなものです」
「自分に期待されても困ります」
といった発言をするようになっていました。限定、妥協、満足、諦めの世界に入りかけている現れです。二流の道を歩きかけているのです。
よく「自分は才能がないから」といいます。技術的な分野で限界を感じたときに、こういう台詞を吐きます。だが、「才能」というのはもう一段上の世界のことなんです。素質や能力の世界でやっていて、才能というところまでいっていない。それなのに、素質や能力の世界でやっていながら、「才能がない」などという。
だいたい、考、える行為が苦手というのは、感じない、鈍い、そういうところがあります。鈍感なんですな。伸びないやつにはどうも鈍感というか感性の鈍さというか、そういう共通項がありますね。
鈍感では一流にはなれない。だから、素質の世界でやっていながら、技術的な限界を感じると、「才能がない」などというのです。何か感じるものがあったら、自分は一段低いところでやっていて、もう一つ上の世界があるということに気づくはずです。気づけば、上の世界に入ろうとして、何とかしょうとしますよ。そこから少しでも才能の世界が開けてきて、志への通が見、葺くるに違いないんです。
こういう鈍感さが、どうも新庄にはあるのではないか。そんな気がします。それと共通したものを、ヤクルトの池山などにも感じるんでね。
「限界だな。俺はこんなものだな」というレベルの、もう一段上のところでもがき、戦うのが「プロの戦い」なんだが、そこに行く前に簡単に限定、妥協、満足、諦めの線を引いてしまう。それが二流止まりのラインになるのです。
だいたい、自分をこれまでと思うのは大変なことなのです。一つの領域でとことんやってみる。それでだめだったら、方向を変えて徹底的に努力してみる。それでも結果が出ないときは、また違う努力の方向で限界までやってみる。そういうことをいくつも積み重ねて、初めて自分はこれまでだといえるのです。そして、それだけのことをやったら、必ず突破口が見つかるものです。
それだけのことをやらないで、ただ何も考えないで同じことを繰り返していただけで、自分はこんなものだ、などとは不遜というべきです。自分を限界づけてしまうのは、実は大変なことなのだ、ということを知るべきです。
米長先生にもこれまでいろいろな壁があったはずです。そこを考えて、努力の方向を変えて、乗り越えてこられたはずです。そして、将棋界の項点に立たれた。
それでもなお、自分はこんなものだ、自分はこれまでだ、などとは少しも思っていない。少年たちを集めて、その中で一棋士として新しい挑戦に向かっていこうとされている。
それは米長先生流にいうなら、米長先生はいまでも、自分に勝った棋士の強さを認め、その強さを尊敬しておられるからです。尊敬する相手のようになりたいと思っておられるからです。
それが一流というものです。
私もヤクルトスワローズでは六十点しか取れなかったが、自分はこんなものだ、などとはいささかも思っていません。だからこそ、阪神タイガースの監督になって、新しく挑戦しょうとしているのです。技術に限界はあっても、挑戦は無限です。
これは自分の容量を少しでも大きくする戦いでもあります。それが自分を一段上のレベルに引き上げ、やがては一流に至る道だと思っています。(野村克也・米長邦雄著「一流になる人 二流でおわる人」致知出版社 p230-236)
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無知の魔物性と隠れ頭巾の特殊な用法
それにしても、なぜ 「一つの魔物」なのでしょうか。
こうした場合の「一つの」というのは、一つ、二つ、三つ……という場合の「一つ」と必ずしも同じではなく、「……ともいうべき性質の」といったふくみのことばです。そして「魔物」とは「魔力をそなえた魔性のもの」ということです。
つまり、無知が「一つの魔物」だというのは、それが魔力ともいうべき性質の力をそなえた魔性のものだということ、あるいは、そうした魔性の力そのものだということですが──なぜ「魔力」であり「魔性の力」 なのでしょうか。
「人を破滅にみちびくおそろしい力」という意味がそこにふくまれているだろうことは、いまさらいうまでもないとして──しかし、ただそれだけでしょうか。
それだけではない、と思います。それが人を破滅にみちびくことがもしはじめからわかっているのなら、あえてそれに身をゆだねる人はいないでしょう。誰が好んで破滅への道をえらぶでしょうか。それが破滅への道とは見えないからこそ、人はそれに身をゆだねるのです。
魔物はつねにおそろしい顔をしている、とはかぎりません。無知という魔物は、けっしておそろしい顔はしていない──反対に、気やすい顔、気さくな顔、つきあいやすい顔をしているのだと思います。だからこそ、人は気やすくそれに身をゆだねるのであり、そのようにして悲劇的な結末に──おそるべき破滅にいたるのです。
それがそのような結末に通じるものであることをうすうす承知している場合でさえ、あえてそのことに目をふさいで、すすんでそのとりこになることを人にえらばせる──そこにその「魔力」たるゆえんがある、とつけ加えてもいいでしょう。
「世の中のことをあまり知りすぎるとこわくなるから、知らないままでいる方が気楽だ」というのは、このような魔力の端的な、そしてきわめて一般的なあらわれです。
ところでマルクスは、好んで無知をえらびとるものの姿を『資本論』第一版への序文(一八六七年)のなかで、次のようにえがいています。
「ベルセウスは怪物を追跡するために隠れ頭巾をかぶった。ところがわれわれは、隠れ頭巾をまぶかにかぶって目をも耳をもおおうことにより、怪物の存在を否認しえたつもりでいる」
引きあいにだされているのは、ギリシャ神話の一節です。怪物というのは、髪の毛の一本一本がみな蛇で、その素顔を見たものは恐怖のために石になる、というメドゥーサのこと。英雄ベルセウスは隠れ頭巾で身をかくしてメドゥーサが眠っているあたりに近づき、左手にもった青銅の盾にうつるメドゥーサの像をたよりに後むきにこれに迫って、その首を切りおとした、とされます。
「イギリスの社会統計にくらべると、ドイツその他の西ヨーロッパ大陸のそれは貧弱である。それでもなお、その社会統計は、その背後にメドゥーサの頭のあることを感づかせるには十分なほど、ベールをまくり上げている」──ここでメドゥーサにたとえられているのは、資本主義の野ばなしの発展が労働者大衆を否応なしにたたきこんでいく惨状であり、そこから生じるであろう地獄絵巻のことです。
隠れ頭巾というのは、もともと自分の体を他人に見えなくするためのものでしょう。怪物の目から自分を隠すために、ベルセウスはそれをかぶったのです。ところが「われわれ」は、怪物の姿を自分の視野から消すために、この頭巾を深々とかぶって目や耳をおおい、見ざる聞かざるをきめこむ──この「われわれ」とは誰のことでしょう?
前後を読めばわかりますが、直接には、それはドイツ人のこと──もっと限定していえばドイツ・ブルジョアジーのことです。
そうだ、だからそれは私には関係がない、という人がもしいるとすれば、たぶんマルクスはいうだろうと思います──「これは君のことをいってるんだよ!」(他人事ではないのだよ!)と。
事実、先に引用した文章のすぐ前のあたりに、マルクスはそう書いています。もちろんここでも直接には、ドイツ・ブルジョアジーにむかって「君」といっているのですが……。
(高田求著「学習のある生活」『学習の友』社 p24-27)
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物理学者は、自然過程を、それがもっとも典型的な形態で、またそれが撹乱的な影響によってかき乱されることがもっとも少ない状態において現象するところで、観察するか、あるいは、それが可能な場合には、過程の純粋な進行を保証する諸条件のもとで実験を行なう。
私がこの著作で研究しなければならないのは、資本主義的生産様式と、これに照応する生産諸関係および交易諸関係である。その典型的な場所はこんにちまでのところイギリスである。これこそ、イギリスが私の理論的展開の主要な例証として役立つ理由である。
しかしもしドイツの読者が、イギリスの工業労働者や農業労働者の状態についてパリサイ人のように眉をひそめるか、あるいは、ドイツでは事態はまだそんなに悉くなっていないということで楽天的に安心したりするならば、私は彼にこう呼びかけなければならない、おまえのことを言っているのだぞ!″と。──略──
イギリスの社会統計に比べると、ドイツやその他の西ヨーロッパ大陸のそれは貧弱である。それでもなお、その社会統計は、その背後にメドゥーサの頭のあることを感づかせるには十分なはど、ヴェールを少しまくり上げている。
もしわれわれの政府や議会が、イギリスにおけるように、経済事情にかんする定期的な調査委員会を設置し、これらの委員会が、真実の探究のために、イギリスにおけると同じ全能の権限を与えられ、この目的のために、イギリスのエ場監督官や、「公衆衛生」にかんする医事報告者や、婦人および児童の搾取にかんする、住宅状態や栄養状態等々にかんする調査委員たちと同じような、専門知識があり不偏不党で容赦しない人々をみつけ出すことができるならば、われわれは自分自身の状態にぞっとするであろう。
ベルセウスは怪物を追跡するために隠れ帽子を用いた。われわれは、怪物の実存を否認してしまうためにこの帽子で目も耳も隠してしまうのである。(マルクス著「資本論」新日本出版社 p9-11)
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◎先日TVで新成人へのインタビューが放映されていた。「イラクへの自衛隊派遣をどうおもいますか? 」「しかたがいと思います。決まったことだから……」と。
◎040112で新撰組のことをとりあげました。私の思いですが。新撰組という組織は、小林多喜二など戦争に反対した多くの人を弾圧し拷殺させた特効警察≠謔閧熹ス動的な役割を果たした組織ではないでしょうか。それをアイドルを使うことによって……『バトル・ロワイアル』と同じ目線なのだろうか、と。