学習通信040110
◎家族を考える。
■━━━━━
第10章 結婚、愛、ロマンス
一夫一婦制、つまり男と女がひとりずつでペアを作る方式は、いつのまにか私たちの生活の基本になっている。ただし、男がお気に入りの女をひとりだけ、または能力に応じてそれ以上確保しつつ、外でほかの女と一回かぎりの性的関係を結ぶことも、社会のなかでは暗黙の了解だろう。
いまのような結婚形態は、ユダヤ教とキリスト教に端を発していて、そこには信者獲得という明快な目的があった。神の教えにしたがうという誓いのもとに、男と女をめあわせれば、二人のあいだに生まれた子どもは自動的に信者になるからだ。
しかし人間のやることは、ややこしい儀式やら宣言やらがともないはじめると、たいてい不自然な方向に向かいはじめるのが常だ。小鳥が「結婚する」のに凝った儀式は必要ないし、ヒツジのように多婚性の動物が、一匹のメスと生涯をともにするという契約を結ぶこともない。
もちろん、現代社会に結婚制度がそぐわないと言っているのではない。この本を書いている私たちも現に結婚している。とはいえ結婚制度の歴史や、人間の生態との関係を知っておいても損はない。──略──
なぜ女は一夫一婦を望む?
いまや欧米社会では、結婚制度はほとんど意味を持たない。それでも女は結婚したがるし、九割以上の人は実際に結婚している。女が描く結婚像とは、ひとりの男に「特別な人」と見なされ、二人で生きていくことを世間に宣言することだ。自分が「特別」な存在だという感覚は、女の脳にめざましい作用をもたらす。──略──
古い世代の人たちが感じているように、若者たちは結婚制度なんて時代遅れだと思っているのだろうか? 一八〜二三歳の大学生二三四四人(男女が同数ずつ)を対象にした一九九八年の調査を見ると、どうもそうではなさそうだ。いずれ結婚したいと答えた人が、女で八四パーセント、男でも七〇パーセントいた。結婚が時代遅れだと答えたのは、男で五パーセント、女は二パーセントしかいなかった。
別の調査では、性別に関係なく回答者の九二パーセントは、性的関係より友情が大切だと考えていた。ひとりの相手と一生連れそうという考えについても、女の八六パーセント、男の七五パーセントが賛成していた。また親世代の男女関係より、いまのほうが良いと答えた人は三五パーセント程度である。
また女にとって裏切りはゆゆしき問題らしく、三〇歳未満の回答者の四四パーセントは、男が浮気したら別れると答えている。もっともこの割合は、回答者の年代が三〇歳代になると三二パーセントになる。年齢が上がるにつれてこの数字はどんどん下がり、四〇歳代で二八パーセント、六〇歳代では一一パーセントしかない。つまり若い女ほど、一対一の誠実な関係を重視しており、よそ見をする男に厳しいということだ。
男には、女のこういう考えかたがまったく理解できない。男はセックスと愛情を分離できるので、たまに火遊びしたぐらいでパートナーとの関係は揺らがないと思っている。だが女の脳では、セックスと愛は表裏一体なのだ。男がほかの女とセックスをしたが最後、裏切りと見なして男との関係に終止符を打とうとする。
こんなに失敗する人が多いのに、なぜ私たちは懲りることなく結婚するのだろう? ひとりで生きていくもよし、家族や友人と同居するもよし、恋人といっしょに暮らしてもよいはずなのに。その疑問の答えは二つある。ひとつは、満ちたりた結婚生活を続けることが、健康で幸福な子どもを育てるいちばん確実な方法だから。
そしてもうひとつは、結婚がもたらしてくれる癒しの効果だ。目が回るスピードで進む日常生活のなかで、結婚生活は嵐のなかの避難港のような役割を果たしてくれる。結婚生活が営まれるところは「家」であり「家庭」でもある。そこはストレスから逃れて休息を取り、英気を養える場所なのだ。
(アラン・ビーズ+バラ・ビーズ著「話しを聞かない男、地図を読めない女」主婦の友社 p301-305)
■━━━━━
さらにまた、バッハオーフェンが、彼のいわゆる「婚外性交」ないし「沼沢生殖」から個別婚への移行は本質的には女子によってなしとげられたと終始一貫して主張しているのは、無条件に正しい。
経済的な生活諸条件の発展につれて、したがって古い共産制の掘りくずしと人口密度の増加とにつれて、古来の性関係が森林時代の原始的な素朴なその性質を失っていけばいくほど、この性関係は女子にとってますます屈従的で抑圧的なものに思われざるをえなかったし、彼女たちは、貞操権、つまりただ一人の男との一時的ないし永続的な婚姻の権利をますます痛切に救いとして求めざるをえなかった。
そうでなくても、男というものは事実上の集団婚の快適さをあきらめようなどとはいまだかつて一度も、今日にいたるまでも、ゆめゆめ思わなかったのだから、その理由からだけでも、この進歩が男の側から起こることはありえなかった。女によって対偶婚への移行が実施されたあとではじめて、男が厳格な一夫一婦婚──もちろん女にとってだけの──を採用できたのである。
(エンゲルス著「家族・私有財産・国家の起源」新日本出版社 p73-74)
■━━━━━
「男女の相互協力」を教える時代に
さて、私たちが書いた「家庭科一般」は九七年度の検定(九九年度に使う教科書)には無事、合格した。合格教科書と不合格教科書では、どんな点が違うのか、一例を紹介したい。
《家族とは》
◆不合格教科書の記述
家族とは何だろうか。一緒に暮らしている親や兄弟姉妹、単身赴任中の父親、離婚してわかれた親、ときどきあう祖父母、親がわりの里親、それぞれによって思いうかべる家族は異なるだろう。従来は、血縁や同じ世帯に属していることなどにより、家族を定義しようとしてきたが、こんにちでは家族の普遍的な定義をすることはむずかしい。
家族法にも家族の定義はない。これまで典型的な家族としてイメージされてきた夫婦と子どもからなる核家族も、欧米ほどの速度ではないが、少しずつその役割は減少しており、家族形態が多様化してきている。
◆合格教科書の記述
家族とは、夫婦や、親子など血縁のある者どうしが、親密な関係をきずいて生活をともにする小さな集団であるといわれる。しかしほかにも、単身赴任中の親、ときどきあう祖父母、離婚してわかれた琴親がわりの里親など、それぞれが思い浮かべる家族はさまざまなはずである。
時代あるいは地域によっても家族はさまざまなはずであり、家族を普遍的に定義することはむずかしい。しかし、形はちがっても、家族は私たちの大きな心のよりどころであり、大切なものであることにかわりはない。
《家族・家庭の役割》
◆不合格教科書の記述
人は家族に対して、心のやすらぎ、経済の安定、日常生活1必要な家事、子どもをうみ育てること、性愛の充足などさまざまな役割を求めてきた。いっぽう社会の側からみれば、家庭は、休養によって労働力を再生産し、消費生活によって経済を活性化させるなどの機能を有している。これらの役割はいずれも、家族がたがいを尊重しあえてこそ十分に発揮される。
◆合格教科書の記述
農林業などを中心とする社会では、家庭は生活物資を供給する生産の場であり、教育・医療・冠婚葬祭などもになうひろい役割をはたしている。しかし、産業化・都市化が進んだ社会では、核家族化がすすみ、同時に家族の人数も減り、家庭の機能も縮小している。
こんにち、人が家族に最も期待する役割は、心の安らぎという情緒面での安定をえることである。このほか家族は、生活の共同による経済的安定、性愛の充足、子をうみ育て、高齢者や障害者等を扶養・介護する、などの重要な役割を果している。いっぽう、社会からみれば、家族は、労働力を提供し、種族を保存し、文化を保持・伝承し、社会を安定させるという役割をになっている。
《家族とは》については、客観的に家族の多様化を指摘した不合格本と遠い、合格本は「多様化」という表現が消えている。代わって家族が心のよりどころとか、いかに大切かといった点に比重を移している。これは、この部分に限らないが、全体に家族の定義、機能が十分に善かれていないという指摘を受けたためである。
家族の機能については、学習指導要領のなかで、「家族と家庭生活」の記述にあたっては、まず第一番目に解説するように、という指導がある。では「家族の機能」とは何かだが、高等学校学習指導要領解説の家庭編には、家庭が社会に果たす役割、あるいは社会が家庭に果たす役割を歴史的、文化的、社会変化との関連から理解させる、と善かれている。
意訳して考えれば、本来家庭とは育児の場であり、安らぎの場であるということを、きちんと書き込んでほしいということなのだろう。《家庭・家族の役割》の合格本は、そのあたりを、不合格本に比べて詳しく記述している。
(鹿島敬著「男女摩擦」岩波書店 p245-247)
■━━━━━
こうして、個別家族がその歴史的な成立そのままの姿をとりつづけ、男の専制的支配によって表現される男女のあいだの抗争をはっきり表わしている場合にわれわれがこの個別家族のなかにみいだすのは、文明時代にはいってこのかた階級に分裂した社会が、解消も克服もできずにそのなかで動いている対立および矛盾と同じ対立および矛盾の縮図である。
私がここで言っているのは、個別婚のうち、婚姻生活が実際にこの制度全体の本源的な性格の命じるところにしたがってすすんでおり、だが妻が夫に反逆する、そういう場合についてだけなことは、言うまでもない。
すべての婚姻がそういうぐあいにすすむものでないことは、ドイツの俗物がだれよりもよくご存知で、彼は家のなかでは国家のなかでと同じほどには自分の支配権を護ることができず、だから、ズボンをはくだけの資格をもたない彼ではなくてその妻がしごく当然にもズボンをはくのである。
だがまたそのかわり彼は、自分などよりもっとしばしばはるかにひどいめにあっているフランスの同病者にくらべれば、ずっとましだと思っているのだ。
それはとにかくとして、個別家族は、いつでもどこでも、ギリシア人のもとで見られたような古典的峻厳(しゅんげん)さの形態で登場したわけでは決してない。将来の世界征服者として、ギリシア人ほど繊細なものではないにしてもそれよりは広遠な見識をそなえていたローマ人のもとでは、女子はもっと自由で、もっと尊敬されていた。
ローマ人は、妻の貞節が保証されるのには妻にたいする生殺与奪の権力をもっていることで間にあうと信じていた。そのうえ、ここでは妻も、夫と同じく自由意思で婚姻を解消することができた。だが、個別婚の発展のうえでの最大の進歩は、あきらかに歴史へのドイツ人の入場とともに生じたにちがいない。
それというのも、彼らのあいだでは、たぶん彼らが貧困だったためであろうが、一夫一婦婚が当時まだ対偶婚から完全には発展してはいなかったらしいからである。われわれは、タキトゥスが挙げている次の三つの事情からこのことを推論する。
すなわち、第一、婚姻がひじょうに神聖視されていたのであるが──「彼らは一婦にあまんじ、婦人たちは貞操の垣をめぐらしてくらす」──、それにもかかわらず権門の者たちと部族長にあっては一夫多妻が行なわれていたのであって、だから、対偶婚の行なわれていたアメリカ人の状態に似た状態だったわけである。
また第二に、母権から父権への移行は、ようやくちょっと前に行なわれえたばかりだったのであろう。というのは、母の兄弟──母権によれば同民族の男子のなかではもっとも近い血族──がまだ、ほとんど自分の父よりも近い血族だとみなされていたからで、これまたアメリカ・インディアンの立場に照応するものであり、マルクスは、彼がしばしば言ったように、われわれ自身の原始時代を理解する鍵をこのアメリカ・インディアンのもとにみいだしたのである。
また第三に、ドイツ人のあいだでは女子は高い尊敬をうけ、公的事項にも大きな影響力をもっていたのであって、この点は一夫一婦婚下の男子支配とは正反対である。これらのほとんどすべてにおいて、ドイツ人はスパルタ人と一致しているのであって、スパルタ人にあっても、すでに述べたように、対偶婚がまだやはり完全には屈服されていなかったのである。こうして、この点でもまた、ドイツ人〔の出現〕とともにまったく新しい一要素が世界を支配するようになった。
いまやローマ世界の廃墟のうえに諸民族〔部族団〕混合から発展してきた新しい一夫一婦婚は、男子支配をより温和な形態にくるみ、女子にたいして、少なくとも見かけのうえでは古典古代にかつて見られたものよりはずっと尊敬される、ずっと自由な地位をあたえた。
これによってはじめて、一夫一婦婚から──そのときそのときの事情に応じて、あるいは一夫ー婦婚のなかば、あるいはそれとならんで、あるいはそれと対立して──一夫一婦婚のたまものである最大の道徳的進歩が発展しうる可能性があたえられた。最大の道徳的進歩とは、従前の世界全部が知らなかった近代的な個人的異性愛である。
(エンゲルス著「家族・私有財産・国家の起源」新日本出版社 p93-95)
〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓
◎「個別家族のなかにみいだすのは、文明時代にはいってこのかた階級に分裂した社会が、解消も克服もできずにそのなかで動いている対立および矛盾と同じ対立および矛盾の縮図」と。
学習通信031007・031102 と合わせて深めよう。