学習通信040106
◎青春とはなんだ@……
 
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 今の日本は、「今のままでは皆が貧乏になってしまう、そうならないよう、一握りのエリートが国を動かし、その他大勢はそのおこぼれをもらうことによってそこそこの暮らしができる、そんな国へと作り変えよう」、という動きの中にある。
 
その一握りのエリートとは無論、能力を持った人間であるわけだが、しかし、最近あちこちから、実は今の日本とは、「能力の獲得&発露」自体にそれなりの階層の出身であることが要求される社会であることが指摘されている。つまり、私程度の「女」には、国を動かす側にまわる術はほとんどないというわけだ。
 
 が、もしも私が、国を動かす側にまわることができたなら、はたして何を望むだろうか。
 
 少なくとも、『バトル・ロワイアル』を子供に見せるな、とは決して言わないであろうと思う。だって、支配される側が、ああいった映画を見て育ってくれれば、「決まっちゃったことはしょうがない、なんとかその枠の中で生き残れるようがんばろう!」と考える人間たち
 
(=「もしかして、枠組み自体が間違っているのではないか? 自分が戦うべき相手とは、枠組みを作った人間に『殺せ!』と命じられた相手ではなく、自分に『人殺しをしろ』と命じた相手こそ、ではないのか〜」とは決して考えない人間たち)
 
が、世の中の多数を占めてくれるようになるに違いないのだから。
 
 大局的にものを見ることのできない民衆ほど、支配する側にとってありがたいものはない。であるからこそ、「大局的にものを見ることのできない民衆を当たり前の存在として肯定してくれている大衆向け娯楽作品」ほど支配する側にとってありがたいものはないのであり、もしも私が「アメリカのイラク攻撃マンセ!!」なタイプだったなら、きっと素直に「ブラボー!『バトル・ロワイアル』!」と言うことができたろう。
 
 が、私は「アメリカのイラク攻撃マンセ!」と言える人間ではなく、ゆえに「ブラボー!『バトル・ロワイアル』!」 とは言えないのである。
 
 しかし、ではどうすればいいのだろう。
 私が今思いつけることとは、たとえば、「決まっちゃったことはしょうがない、その枠の中でなんとか暮らすことができればそれでいい」、こんなふうに考え、そして同様の価値観を他者にも押し付けようとする、そんな輩がいた時、「『決まっちゃったことはしょうがない』っていう考え方はおかしいんじゃないの! もう決まっちゃってようが、まだ決まってなかろうが、そういうことには関係なく、『本当に良い結果をもたらすためにはどうすべきなのか』を考えることこそ大事なんじゃないの!」
 
 こんなふうに言える人間が、私よりも若い世代の人たちの中にも、もっともっとたくさん出てきてくれたらいいなあ、ということである。
 
 なんだかくどくどしい言い方になってしまったが、私が、私よりも若い世代の人たちに対してとりあえず言いたいこととは、つまりはこういうことである。
 
 「『決まっちゃったことはしょうがない』 って言うな!」
 大人に向かってそう言えることこそより若い世代の特権、のはずなのだから。
 
 つまり、「怒るべき時には怒れ!」、そう言いたいわけである。
 しかし、じやあ、どうやって〜
 それをこれから探っていこうと思う。
(荷宮和子著「若者はなぜ怒らなくなったのか」中公新書ラクレ p32-35)
 
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──要するに、子どもと大人との間に単純に荒々しく引かれていた境界線が取り払われ、それまでは半ばどうでもいいものとして無造作に考えられていた子どもが、もっと細心な視線を注がなければならない存在として、大人たちの意識のなかにクローズアップされてきたのである。そしてその結果、子ども期は、いくつかの段階を抱え持ちつつ、次第に大人になってゆく「過程的な」存在とみなされるに至ったのである。
 
 このまなざしが洗練と細分化の道を進めば進むほど、子どもはいったい、いつになったら大人になるのかがわからなくなった。気づいてみると「いつの間にか」「何となく」大学生になっていたり、学校を卒業して社会に出なければならなくなったりしている。自分は今日から大人になった、と本当に自覚できるような契機がない。
 
 また現在では、二十歳の成人式を過ぎても、学生であるために経済的に親におんぶしていたり、三十歳をすぎても結婚せずにいつまでも親元にとどまっていたりするのはあたりまえのことになっている。しかしかれらは身体的にはとうの昔に大人と呼ぶにふさわしい状態になっているし、また、性体験などもはやばやとすませている例が多い。
 
 つまり、ここには、近代社会が作り出した、人間の成長・成熟に関する大いなる「ずれ」が存在する。「生理的大人」と呼ぶにふさわしい年齢と、「社会的大人」と呼ぶにふさわしい年齢との間に、途方もないギャップが開いてしまっているのだ。
 
これは、「子どもから大人になる」とは私たちの社会にとって、いったい何を意味するのか、社会は、年少者に対して、どの時点、どの契機をもって「おまえは大人になった」「今日からおまえは一人前だ」と一般的に宣言できるのか、そういうことがわからなくなってしまったということでもある。
 
 同じことを、成長していく個人の側から言いかえると、私たちの時代は、自分が大人になったという自覚を、ある外面的な形式によってあたえられるのではなく、それぞれが自分の体験的・内在的な契機から見つけ出していかなくてはならない時代であるということになるだろう。そしてそれは、人により著しく異なった多様なかたちでしかたしかめられないことなのである。
 
 生理的大人と社会的大人の「ずれ」、また同じことだが、「子どもが大人になる節目の一般的な消失」という近代が作り出した状態はまた、家族関係において、親の子離れ、子どもの親離れがスムーズにできにくくなり、現代特有のさまざまな親子問題、養育問題を引き起こす原因ともなっている。
 
 世に、ピーターパン症候群とか、幼形成熟とかいって、若者の幼児性を批判するむきが多いが、そうなるにはなるだけの社会的必然があるのだ。だから、若者の幼児性、非社会性を倫理的に非難してもはじまらない。私たちはいわばみんな共犯者であり、同時にある場合にはその共犯の被害者自身なのである。
(小浜逸郎著「大人への条件」ちくま新書 p12-14)
 
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青年期の歴史的誕生
 
 青年期はいつの時代にもあったのではない。イギリスの社会史研究者のジョン・ギリスによれば、ヨーロッパにおける青年期の発見は、一八七〇年から一九〇〇年までのあいだである。
 
 ヨーロッパの中世でも、若者はいた。七、八歳くらいから二〇代半ばないし二〇代後半の結婚前までのひとたちである。家父長制(家長権をもつ男子が家族を統制し支配する家族の形態)のもとでは、家長権を相続することが、生活を成り立たせるうえで重要であった。
 
親は引退するときに、相続するかわりに、子どもに扶養の義務を負わせた。子どもは財産を得てようやく結婚することができたのである。
 
 乳幼児死亡率が高いために、若者になるまで生存する確率は低かった。そのために多産であり、多くの子どもをかかえた家族は子どもを養いきれなかった。子どもは必ずしも親と一緒に住んでおらず、多くは孤児となった。あるいは、遍歴時代といって、親から離れ、徒弟制度のもとで職人になる訓練を受けていた。徒弟制度とは職人の親方の家に住み込んで職業訓練を受けることをいう。
 
封建制下の農村では、「蛙の子は蛙」というように身分や出身によって職業が決まっており、今日のように職業選択を考える余地はなかった。
 
 図1 に示されるように、中世では、今日いわれるような青年期はなかった。子どもか大人かのどちらかであった。若者期は、大人になるために準備をする時期であった。結婚とそれに伴う相続によって、子どもではなくなり、大人社会に入っていった。子どもは小さな大人であって、固有の意味を持たなかった。若者は当時の社会体制に適応していくことが求められた。
 
 近代になって、フランスの哲学者のジャン・ジャック・ルソーは、子どもや青年に、古い世代を乗り越える権利を与えた。大人になるとは、今ある社会の体制のなかに子どもや青年が順応していくことではないとした。子どもや青年のなかに、今ある社会を乗り越えていく可能性を見る見方を準備した。
 
 青年期の誕生に重要な役割をもったのは、産業革命である。イギリスの産業革命は一八世紀後半に始まる。産業革命は、封建制で土地にしばりつけていた人々を解き放ち、都市へと流入させた。生産力の向上により、人々の生存率が高まり、人々は産児制限をするようになった。
 
機械化に伴い、未熟練労働が可能となり、低年齢のときから劣悪な工場労働に従事するようになった。遍歴時代の徒弟制もかたちばかりになり、親方は技術を教えて育てるというより、無権利状態にある住み込みの労働力を安価に酷使するだけに変わってしまった。
 
 このころ、下層社会の治安の維持や必要な労働力の確保のために、国民教育制度が整備された。宗教的教義を中心とする道徳教育、一定の読・書・算の基礎知識の教授など、選挙権をもった民衆が支配層に無害なものとして行使するように導くものが中心だった。
 
また、資本による過酷な利潤追求や親権の濫用のなかで、過酷な児童労働を規制する必要も生まれた。生産力の向上は生存率を高め、ひとびとは産児制限を始めた。夫婦単位の近代家族の誕生で、数少ない子どもを大切に育てることに関心が向き始めた。
 
 一九世紀末になっても絶えることのない捨て子の救済と保護のために、社会福祉的施策がとられるようになった。フランスでは、一九〇四年の法律で児童救済制度が大きく発展し、イギリスでは一九〇六年に子ども法が成立し、アメリカでは一九〇九年に児童保護のための第一回ホワイトハウス会議が開かれた。
 
 こうしたなかで、労働の義務が猶予され、将来の職業や人生を選ぶための準備期間としての青年期が誕生した。近代の青年期の意義は役割実験である。役割実験とは、青年期までに親との同一視によってつくられた自己像を、社会的な役割や現実に当てはめて、その役割を演じたり、その世界の現実を体験してみたりして、修正していくことをいう。
 
ここでの役割は、あくまでも実験的であり、暫定的なものなので、いつでも止めることができる。アルバイトやボランティア活動や旅行などがそれにあたる。青年期は、自分なりの試行錯誤や探索を行い、大人社会に入る準備をする。
 
 青年期は、近代市民社会にとって、特別な意義をもつ。近代市民社会は、互いに対等な関係のなかで互いが自律的な個人として自立していくことを前提としている。青年期は友人関係のなかで対等な関係を切り結び、相手のなかに自分を発見したり、自分のなかに相手を発見したりして、互恵的であることを知る時期でもある。社会の担い手としての主体に育っていくことが青年期には期待される。
 
 近代では、人々は職業選択の自由も獲得した。図1 に示されるように、青年期は人生を自ら選んでいくための探求の時期であり、新しい社会の担い手としての主体に育っていく時期である。子どもは固有の意味と権利をもつ。こうして、今日いわれるような青年期が誕生した。
(白井利明著「大人へのなりかた」新日本出版社 p21-24)
 
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 わたしたちは、いわば、二回この世に生まれる。一回目は存在するために、二回目は生きるために。はじめは人間に生まれ、つぎには男性か女性に生まれる。女を未完成の男と考える人たちはたしかにまちがっている。けれども外見的な類似を考えればそれは正しい。
 
思春期にいたるまでは、男の子も女の子も、見たところ全然ちがわない。同じ顔だち、姿、顔色、声、なにもかも同じだ。女の子も子どもだし、男の子も子どもだ。こんなによく似ている生きものは同じ名称で呼んでさしつかえない。
 
その後も性の発達をさまたげられている男性は一生のあいだそういう類似をもちつづける。かれらはいつまでたっても大きな子どもなのだが、女性は、そういう類似を失うことがないので、多くの点において、けっして子どもとは別のものにならないようにみえる。
 
 しかし男性は、一般に、いつまでも子どもの状態にとどまっているようにつくられてはいない。自然によって定められた時期にそこからぬけだす。そして、この危機の時代は、かなり短いとはいえ、長く将来に影響をおよぼす。
 
 暴風雨に先だってはやくから海が荒れさわぐように、この危険な変化は、あらわれはじめた情念のつぶやきによって予告される。にぶい昔をたてて醗酵(はっこう)しているものが危険の近づきつつあることを警告する。
 
気分の変化、たびたびの興奮、たえまない精神の動揺が子どもをはとんど手におえなくする。まえには素直に従っていた人の声も子どもには聞こえなくなる。それは熱病にかかったライオンのようなものだ。子どもは指導者をみとめず、指導されることを欲しなくなる。
 
 気分の変化を示す精神的なしるしとともに、顔かたちにもいちじるしい変化があらわれる。容貌が整ってきて、ある特徴をおびてくる。頬の下のほうにはえてくるまばらな柔かい毛はしだいに濃く密になる。声が変わる。というより声を失ってしまう。かれは、子どもでも大人でもなくそのどちらの声も出すことができない。
 
目は、この魂の器官は、これまではなにも語らなかったが、ある言語と表情をもつことになる。燃えはじめた情熱が目に生気をあたえ、いきいきとしてきたそのまなざしにはまだ清らかな純真さが感じられるが、そこにはもう昔のようにぽんやりしたところがない。目が口以上にものを言うことをかれはもう知っているのだ。
 
かれは目を伏せたり、顔を赤らめたりすることができるようになる。なにを感じているのかまだわからないのに、それに感じやすくなる。理由もないのに落ち着かない気持ちになる。こういうことがすべてすこしずつあらわれてきて、あなたがたにはまだ十分に余裕があるばあいもある。
 
しかし、子どもの激しさがとうてい押さえることができなくなり、興奮が熱狂に変わり、瞬間的にいらだったり、感動したりしたら、わけもわからずに涙を流すようになったら、かれにとって危険になりはじめた対象に近づくと動悸が高まったり、目を輝かせたりしたら、女性の手がかれの手にふれると身をふるわせるようになったら、女性のかたわらにいるととりみだしたり、臆病になったりしたら、そのときは、オデュッセウスよ、おお、賢明なオデュッセウスよ、気をつけなければいけない。
 
おんみがあれほど用心して閉じておいた袋の口はあいてしまったのだ。もう風は吹きはじめている。ちょっとのあいだでも舵(かじ)を放してはいけない。でなければ、なにもかもだめになってしまう。
 
 これがわたしのいう第二の誕生である。ここで人間はほんとうに人生に生まれてきて、人間的ななにものもかれにとって無縁のものではなくなる。これまでのわたしたちの心づかいは子どもの遊びごとにすぎなかった。ここではじめて、それははんとうに重要な意味をもつことになる。ふつうの教育が終わりとなるこの時期こそ、まさにわたしたちの教育をはじめなければならない時期だ。
(ルソー著「エミール -中-」岩波文庫 p5-7)
 
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青春について
 
 人間にだけそれはある
 青春という時期は、動物にはない。人間にだけ、それはある。これは、たいへんに意味深い事実だ。
 人間にだけある青春期というものの姿、そこには動物と異なる人間の特徴が、圧縮したかたちで示されているらしい。
 
 もちろん、幼年期だったら動物にもある。そして、高等哺乳類ともなれば、イヌにしろ、ネコにしろ、ゴリラにしろ、その幼年期はじつにハツラツとしてヤンチャで、好奇心に富んでいる。生のよろこびを満喫しているといわんばかりだ。
 
 しかし、その時期はきわめて短い。急速度に幼年期をかけぬけて、一気にオトナになる。幼年期のおわりを示すものは、性的に成熟するということ。体の主な発育も、同時にほぼ完了しており、それでもう、動物としてできあがってしまう。
 
 それとともに、ハツラツとしたヤンチャさ、好奇心は姿を消す。イヌでもネコでも、腹がいっぱいであるかぎりは、ただウツラウツラして時をすごす。ゴリラだってそうだ。腹がいっぱいであるかぎりは、ただボーッとして憂鬱そうに時をすこすだけ。
 
 人間は、これとはなんとちがっていることだろう。
 まず第一に、コドモの時期がきわめて長い。これは、習得すべきものが人間の場合、あまりにもおおいことと対応しているのだろう。
 
 ところで、その長い幼年期も、性的成熟とともにおわりをつげる。この点では、動物とかわりないように見える。
 
 しかし、人間はそれでもって、人間としてできあがってしまいはしない。なによりのちがいはそこにある。体だってそうだ。その後にこそむしろ、爆発的なかたちでの成長がおこる。まして、精神の成長は! それは、青春期とともに、はじめて本格的に、つまり自覚的に開始される。
 
 人間における青春期とはこのように、人間が動物から決定的にはみだしている、まさにそこのところを象徴的に示している時期、その意味で決定的に人間的な時期だ。
 
 性的には成熟しながら、その他の点ではそうでない──文字どおり激動的な自己形成のさなかにあるというこの青春期の特徴は、この時期を特有のなやみ、不安、動揺でもっていろどることになる。
 
 だからこそ、青春はすばらしい。動物のオトナのように、もうできあがった存在として、完了形の現在だけを生きるところには生じない、そんななやみ、不安、動揺でそれはあるのだから。
 
 現在完了形ではなく、現在進行形であるということ、すなわちたえず明日にむかっていどみ、可能性に挑戦しつづけるということ、そこに青春期というものの姿がある。そして、そういう意味では、肉体的にはとっくに青春期をすぎても、精神的にはつねに若々しい青春のさなかに、どこまでもありつづけることができる。
(高田求著「新人生論ノート」新日本出版社 p25-27)
 
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◎青春とはなんだ。04年のテーマなのかもしれません。日本も世界も大きな歴史のワカレメ=B青春の生活そのものが厳しく迫られています。仲間と大いに論議してください。
 
対話から始まるのですから。