学習通信040105
◎言葉……「人にものをいうときは、考えてからしゃべれ!」……と。
 
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僕らはネタを作って、それで笑いをとっているわけではない。
 
 我々は料理人みたいなものなのだ。
 たとえば、普通のおじさんが喋ったことを、一般の人はおもしろいと感じない。
 
 でも、我々は、その人がいったことをおもしろいと感じるのだ、勝手に。なぜおもしろいと感じるのかというと、その話を自分の中で変化させているからだ。
 
 漁船から港に陸上げされる大量の魚を見て、「美味そうだ……」という人もあまりいないだろう。そのただの魚を、誰も想像もできなかったような料理に完成させるのが僕らの技術であり、感性なのだ。
 
 普通の人から見たらなんでもないような素材から、笑いを生み出す。材料はどこにでも転がっていて、それは永遠になくならないわけだから、料理が作れる限りは続けられるはずなのだ。
 
 僕らが話をするのを聞いて、どうしてそんなおもしろい経験ばかりしているのだろうと、一般の人は思うかもしれない。
 けれど、それは違う。
 
 僕らだって、普通の人と同じように、平凡な普通の日常を生きている。その平凡の中から、素材を見つけ出し、料理しているだけなのだ。
 
 逆にいえば、本当のおもしろい現実、完成されたおもしろい話ほど、話をする場合にはおもしろくできない。
 
 おばさんがバナナの皮ですべって転んで、買い物籠の中のタマネギがごろごろ転がって、クルマがスリップして、銭湯につっこんで、女湯から裸のばあさんとじいさんがぞろぞろ飛び出してきた……なんて現場に実際に僕が居合わせて腹を抱えて笑ったとしても、きっとその話はテレビでしないと思う。
 
 そのおもしろさを一〇〇パーセント伝えるのは難しい。
 その現実以上に話をおもしろくすることはできないし、それを喋っても、おもしろさは現実よりどうしてもパワーダウンしてしまうのだ。
 それは、そこに僕が介在して、料理することができないからだ。
 
 これはへ理屈といえばへ理屈だけれど、僕はあまり本を読まないのだが、その理由もそういうところにあるのかもしれない。
 本というものは、つまり調理済みの料理みたいなものだから。
 料理人が興味があるのは、誰かが料理したものではなく、生の素材なのだ。
 だから僕は、どんなおもしろい小説を読むよりも、普通のおじさんと喋っている方が、ずっとおもしろかったりする。
(島田・松田著「哲学」幻冬舎 p108-111)
 
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 ──大阪と東京の笑い、言葉の違いをお二人はどんなふうにご覧になっているかを……。
 
米朝 わたしは本質的には遠わへんと思うんです。ただ、受け方なり、どこで笑うかということはだいぶ違いますで。そりやお客が違うんで。このところ、ずっと落語会で喋ることが多いさかいね。漫才があって浪花節があってコントがあってというのんの間に出るということは、もうずっと前からわたしにはない。
 
こっちで、そういう寄席がなくなりましたからね。東京は落語中心の寄席がありますやろ。そこへ出て喋ったら同じですわ。ごったな混成演芸場てなことになると、東西だいぶ遠います。このごろだいぶ変わってきたかな。もう、わたしがズレてんのやろな。落語というもんに対する認識がだいぶ変わってきたからね。こつちでも、要するに「聞こう」という姿勢で聞いてもろうたら、そんなに違わないと思いますよ。言葉が違うだけでね。
 
 ただ、こつちの芸人は「もうひと押し」というところがある(笑)。充分受けてるのに、もうひとえぐりしたいという気持ちがあるんやな。東京もそうなってきてるんやないかな。昔は「そこで止めておきやいいのに」ということを言う先輩がおりました(笑)。
 
円生さんとか、彦六になった正蔵さんとかが、「そこをもうひと押しするからいけねえんだ」とかね(笑)。わからない客が三分の一くらいおっても、「かまわないじゃないか」「あとで考えてもらえばいいんだ」ってね。上方では、もうひと押ししてわかってくれるんならもうひと押ししてしまおうと、そういうところはあるでしょうな。
 
 それと、このごろだいぶ変わってきたけど、東京の芸人がこつち来て受けなんでも、えろう恥とは思わなんだ。「大阪はこういうとこや」ってなもんで。ところが、こつちの芸人が東京に行って受けなんだら恥になった(笑)。そんな気風があったように思う。
 
筒井 ぼくは米朝師匠の独演会で、米朝一門が東京に見えたときに、噺も聞きたいけど、東京のお客さんがどんな反応を見せるかを知りたかった。東京の人はあるところまでくると、引くことがある。妓雀さんが「鷺(さぎ)とり」をやった。あれ、気が違ったようになるところがあるでしょう。
 
見物人が走りながら俄をやるとこ。「俄かいな」「俄やがき「俄じゃ俄じゃ」あそこで引くんですよ。で、あとで聞いたら、「面白いけど、あれにつきあってずっと笑っていたら気が違う」(笑)。やっぱりシュールなところがある。東京も、志ん生さんにはシュールなとこあるんですけど、また適うんですね。
 
 志ん生さんの晩年、「本所七不思議」という変な噺を聞いた。ろれつがまわらんようになってて言葉がようわからんから、よけい怖い(笑)。
 娘が幼いときに、走ってきて囲炉裏(いろり)の火に倒れ込んで顔突っ込んで、顔にひどい火傷して凄い顔になったところへ、そのあと疱瘡(ほうそう)になるんですよ。松皮疱瘡いうて、ふた目と見られん顔になった。旅人が来て、ひと晩その家に宿とって、酔って寝て、夜中にその娘が来た気配がある。
 
 朝、日が醒めてから「しまった。おれは、やったなあ」(笑)。それから娘が妊娠する。それを捨てて逃げ出す。娘が自殺し、行く先先へ幽霊になって、幽霊だからどこへでもウワッと出てくるという気持ちの悪い噺(笑)。言葉がようわからんのでこまかいところはわからない。変な噺があるなあと思うた。
(桂・筒井著「対談 笑いの世界」朝日新聞 p206-209)
 
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言葉というもの
 
 私たちの生活の中で話≠するという仕業ほど大切なものはないでしょう。
 朝、目ざめて、夜になり寝るまで、オハヨウに始まり、おやすみなさいに至るまで。(寝ていてシャべってる人もあるにはありますが)。
 
 言葉≠ニいうものを使って、自分の意志(考え)を相手に伝える仕事、それが話≠ニいうものですが、人間の生活が進んで来るに従って、その話し方も様変りして来ました。
 
「人にものをいうときは、考えてからしゃべれ!」
 なんて小言をいわれることもあるくらい。もっとも、何も考えないでしゃべるはずはないのですけれど、それでも尚、うっかりしゃべった不用意の一と言が、人の生命取りになった、なんてことは山ほどあるのですから。
 その反対に、うっかりいった一と言が、その人の出世につながったなんてこともあるに違いありません。
 
 話≠ノよって人を殺す、おだやかではない言葉ですがあるのです。
 そして言葉は、その人を大きく生かすこともあります。
 話≠ニはそんな重要なもの。だのに世の人びとは、日常それほど気をつかって話≠してはいない。だからいざというとき言葉が出て来ないのです。
 
 当然のことでしょう。あなたが言葉に冷たく当たれば、言葉の方だってそっぽを向かざるを得ないでしょう。
 日常の生活の場では、それこそ眠っている時をのぞいて、″話≠フ連続でしょう。
 
 仕事をしていても、電話をしていても、人と人との対話は当然あるのです。その対話のとき、すでに話し方≠フ鍛練(たんれん)の場があたえられているのです。そのことをうっかり見過ごしてしまうから、練習の場がほしいなんてことを考えます。話≠ヘ毎日の生活の中で
鍛練するもの。さてその日常の生活の場でどのような話≠フ鍛練をするのかです。
 
 話≠ノ気をつける。そんなことは小さいころから親にさんざ注意をされています。
 しかしそれは、ものの云い方、しやべり方。人間が世の中に出て生活するために必要な心がけもふくめ、箸の持ち方、座り方、おじぎの仕方、歩き方、ものの云い方、挨拶の仕方。そういうものをふくめて教えられる。
 
 それも大切なことには違いありませんけれど、何かの時に、人前で語をする、そんなことは誰も教えてはくれません。
 しかしこの世の中の人たちは、みんな何となく話に馴らされて、いつしか話¥緕閧ノなるものなのです。
 
 が上手になるには、それだけの昔労もし、恥かしい思いもして成長して来たことでしょう。その恥かしいところを、うまく通り越して、そんな思いをしないで、それでいて他の人より上手になる、それをこれから、お話ししてゆこうと思うのです。
 
 今一度申します。話≠フ鍛練、勉強、は生活の場の中で。
 そうなんです。人間社会の生活の場のすべてのものが、実はすぐれた教師≠ネのです。
(大空ヒット著「笑いの話術」新日本出版社 p31-33)
 
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派兵計画に懸念 9条の原点に戻れ
北良治・北海道奈井江町長
 
 賛成の声もよく聞いて
 
 派兵反対の運動を広げるには、自衛隊派遣しなくてはという人の詰も聞くことが大事だと思います。なぜそういっているんだろう、発想の原点は何なんだろう、そこをきちんと聞いて、「派兵しないと石油がこなくなるのだろうか」「日本が孤立してしまうんだろうか」「其の国際貢献とはどんなものだろうか」とかを科学的に解明し、わかりやすく説明していく必要があります。
 
 「しんぷん赤旗」にも、そんな記事を期待しています。
 国を思う気持ちから派兵賛成の人もいます。そういう人が「これは本当の国際貢献にはならない」「日本のためにもならない」ことがわかるとがらっと変わる。賛成だった人がわかると強い。逆に行動に移します。
(しんぶん赤旗 031210)
 
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 小森 心理のあおり立てに対して、どうやって理論を取り戻せるのか。どういう言葉で語ればいいのか。私自身も含めて、そういう働きかけをやろうとする人たちが、いま一番そこを悩んでいると思うんですが、相手に自分で考えてもらうしかないんですよね。論破するとか、説得するとかではなく、ごく当然の疑問に対して自分で答えを出してみることが大切です。
 
 例えば、北朝鮮は絶対にテポドンをうってくるという人と話したら、そうですかと、そこは認めてね。ではもし、金正日が日本にテポドンをうつとどうなるでしょうかと問う。当然アメリカが反撃するということが、相手から出てきて、それを金正日は願っているでしょうかとなると、あれ、違うなとなる。二間か三間で、思考への回路は回復できると思うんですが…。
 
 池澤 ソクラテスのような対話ですね。それと、広告の心理作戦に対して論理をつきつけていくのは、やっぱり文章ですね。もちろんしゃべるのもいいけれど、まず、本を読んでほしいし、雑誌を読んでほしい。それから自分でメモでも書いてほしい。やっぱり自分の言葉を持つということです。ちなみに、戦争と宣伝を密接に結びつけて成功したのがナチスでした。
 沈黙のらせん
 
 小森 ナチスは宣伝戦略として「沈黙のスパイラル(らせん)」を極めて組織的に行ったことが、後の研究で明らかになっているんです。
 
それは、ある主張を出すとすると、第一段階では極めてファナティック(狂信的)に、大声で、確信を持った出し方をして、反論を出させない。
 
第二段階ではその主張がどういう中身を持っているのかということが吟味すらされない。
 
第三段階では敵と味方、彼らとわれわれという二分法が入ってきて、その主張に反論することがはばかられてくる。
 
第四段階で大衆が動員され、勝ち馬に乗らないと自分が排除されるという恐怖心から、その主張に大衆が吸引されていく。かつての日本も、そうやって戦争に反対するのは非国民だと排除された。
 
その沈黙のスパイラルに現代の日本もさしかかっているという気がしてならないのです。
 
 池澤 報道について育つと、バグダッドでは開戦間近になって、日本の大きなメディアがみんな特派員を引き揚げてしまった。先進国の中で日本だけです。
 
ぼくはこの夏、ヨーロッパでジャーナリストとの会議に出たんですが、その話をするとみんなあきれるわけです。部数一千万の大新聞が、人を出さない。それはどうしてかときかれて考えたんですが、結局、日本人は関心がないのだと。メディアも悪いけれど、視聴者が見たい知りたいと要求したらメディアもいくわけです。
 
 バグダッドにいたメディアの力は大きかった。アメリカもひどいことをしたけど、彼らが見ていたので、あの程度しかできなかった。抑止力になったんですよ。米軍はそれが非常に腹立たしいから、ついにアルジャジーラ(カタールのアラブ系衛星放送テレビ)のオフィスを直撃して人を殺したでしょう。
 
メディアがもつ危険性も大きいけど、逆の役割もあるし、効果もあるんです。日本がそれから降りてしまったのはとても残念なことでしたね。そのくせアメリカ軍の従軍報道はやるんだもの。それはないだろうと思いますよ。
 
 小森 私たちはもう一度どういう言葉で日々のできごとを考えているのか、どういう言葉を信用し、どういう言葉に疑いを持って自分なりの判断をしているのか問い直すべきです。
(しんぶん赤旗 小森・池澤対談 040105)
 
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──「言葉≠ニいうものを使って、自分の意志(考え)を相手に伝える仕事、それが話≠ニいうもの」
 
──「どういう言葉で日々のできごとを考えているのか」
 
◎生活に根ざさない肩をはった言葉≠ノ力はありません。言葉≠ェ問われています。