学習通信031223
◎自分で学ばなければならない……かれはその知識においてではなく、それを獲得する能力において、普遍的な精神をもっている
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自分で学ばなけれはならないかれは、他人の理性ではなく、自分の理性をもちいることになる。意見にたよらないようにするには、権威にたよってはならないのだ。
そしてわたしたちの誤りの大部分は、わたしたちから生じるよりもむしろ他人から生じることが多いのだ。そういうたえまない訓練からは、労働と疲労によって体にあたえられるたくましさと同じような強い精神力が生まれてくる。
もう一つの利益は自分の力に応じてのみ進歩していくことだ。精神も肉体と同じように、もつことができるものしかもたない。悟性が事物を自分のものにしてから記憶にとどめるなら、あとでそこからとりだすものは自分のものだ。ところが、悟性が知らないうちに記憶をいっぱいにしても、そこからは自分のものはなに一つとりだせないということになる。
エミールはわずかな知識しかもたない。しかし、かれがもっている知識はほんとうにかれのものになっている。かれはなにごともなま半可に知っているということはない。
かれが知っている」そして十分によく知っている少しばかりのことのなかで、なによりも重要なことは、自分はいま知らないがいずれ知ることができるたくさんのことがあるということ、ほかの人は知っているが白分は一生知ることがないもっとたくさんのことがあるということ、さらに、どんな人間もけっして知ることができないことがほかにも数かぎりなくあるということだ。
かれはその知識においてではなく、それを獲得する能力において、普遍的な精神をもっている。それは開放的な聡明な精神、あらゆることに準備ができていて、モンテーニュが言ってるように、教養があるとはいえなくても、とにかく教養をうけられる精神だ。
かれがするあらゆることについて、「なんの役にたつか」を、そして、かれが信じるあらゆることについて、「なぜ」を、かれがみいだすことができるなら、それでわたしは十分だ。
もう一度いえば、わたしの目的はかれに学問をあたえることではなく、必要に応じてそれを獲得することを教え、学問の価値を正確に評価させ、そしてなによりも真実を愛させることにある。こういう方法をとれば、人はあまり進歩はしないが、一歩でもむだに足を踏みだすことはないし、あと戻りしなければならなくなることもない。
エミールは純粋に物体的な自然についての知識しかもたない。かれは歴史という名詞さえ知らないし、形而上学とか倫理学とかいうものがどういうものかも知らない。事物にたいする人間の基本的な関係は知っているが、人間対人間の倫理的な関係についてはなにも知らない。
観念を一般化することはほとんどできないし、抽象化することもほとんどできない。ある種の物体に共通の性質はわかっているが、その性質自体について考えることはしない。
かれは幾何学の図形の助けをかりて抽象的な空間を知っている。代数学の記号の助けをかりて抽象的な量を知っている。それらの図形や記号はそういう抽象のささえであり、かれの感官はそれらにすべてをまかせている。
かれは事物をその本性によって知ろうとはせず、ただかれの関心をひく関係によって知ろうとする。かれの外部にあるものはかれにたいする関連によってのみ評価する。しかし、その評価は正確であり、確実である。
そこには気まぐれとか、しきたりとかいうことは全然はいってこない。かれは自分にとっていっそう役にたつものをいっそう重くみる。そして、こういう評価のしかたからけっして離れないかれは、人々の意見に全然たよらない。
エミールはよく働き、節制をまもり、忍耐心に富み、健気で、勇気にみちている。けっして燃えあがることのないかれの想像力は、危険を大きくして見せるようなことはない。かれは苦しいことをほとんど気にしないし、平然と耐え忍ぶことができる。
運命に逆らうことを学ばなかったからだ。死ということについては、それはどういうことかまだよく知らない。しかし、反抗せずに必然の掟をうけいれることになれているから、死ななければならないときには、うめき声をあげたり、もだえたりすることもなく、死んでいくだろう。それがすべての人に恐れられているこの瞬間において自然が許していることのすべてだ。
自由に生き、人間的なものにあまり執着しないこと、それが死ぬことを学ぶいちばんいい方法だ。
一言でいえは、エミールはかれ自身に関係のある徳はすべてもっている。社会的な徳ももつためには、そういう徳を必要としている関係を知ることだけが残されている。かれの精神がまもなくうけいれようとしている知識だけがかれには欠けている。
かれは他人のことは考えないで自分を考える。そして他人が自分のことを考えてくれなくてもいいと思っている。かれはだれにもなにももとめないし、だれにもなに一つ借りてはいないと信じている。かれは人間の社会において孤独であり、自分ひとりだけをあてにしている。かれはまた、ほかのだれよりも自分をあてにする権利をもっている。
かれはその年齢にあって人がありうるすべてであるからだ。かれは過ちをしない。したとしても、それはわたしたちにとってさけがたいことだけだ。かれは悪い習慣をもたない。もっていたとしても、それはどんな人間にもまぬがれられないことだけだ。
かれは健康な体と軽快な手足をもち、偏見のない正しい精神、自由で情念に煩わされない心をもっている。あらゆる情念のなかでいちばん基本的で、いちばん自然的な情念、自尊心も、かれの心にはまだかすかに感じられるにすぎない。
だれの休息をみだすことなく、かれは、自然が許してくれたかぎりにおいて、満足して、幸福に、自由に生きてきたのだ。こんなふうにして十五歳になった子どもが、それまでの年月をむだにしたことになると考えられるだろうか。
(ルソー著「エミール -上-」岩波文庫 p374-377)
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◎「かれがするあらゆることについて、「なんの役にたつか」を、そして、かれが信じるあらゆることについて、「なぜ」を、かれがみいだすことができるなら、それでわたしは十分だ。」と。
◎エミールの(上)の最後の3ページです。学ぶとはどういうことなのか、教師とは、働きかけるものが身につけなければならない観点とはなにかをとらえることができます。