学習通信031216
◎子どもの犯罪……「子どもから大人に対する、暗黙の異議申し立て」

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 子どもの犯罪を耳にすると、いやな気分になる。これは人間に共通であろう。

 イギリスでも、子ども二人が小さな子どもを連れ去って、最後に殺してしまったという事件があった。この事件についての本を読んだことがある。徹底的に事件を調査したものだったが、そういう本が出版されるほど、イギリス社会への衝撃が大きかったということであろう。

 即座に出てくる意見の一つは、厳罰主義である。親は「引き回しのうえ、打ち首」という発言がそれであろう。犯罪に対して、相応の処罰を与えるのは当然である。ふつう、それは当たり前の前提とした上で、次の話になる。

 ところがいまでは、まずその前提が成り立たない。「打ち首」発言の裏には、これまで処罰が不十分だったという「感想」も含まれているはずだからである。さらにまたその裏には、処罰をすれば、犯罪が減るはずだという論理があろう。これ自体は誤っていると思うが、俗耳に入りやすい意見ではある。それを政治家が利用することも、十分にありうる。

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 そうかといって、「引き回しのうえ、打ち首」という簡単な話にならないことは、わかりきっている。しかし政治家がそう発言するということは、そうした発言が歓迎される世間の空気を、政治家が敏感に読んでいるということであろう。その面では政治家はプロのはずである。もしそうなら、危ない世の中である。

 この発言の問題点は明瞭である。子どもの犯罪は親の責任だと決めつけているからである。あの親では当たり前だよなというほど、当の家族をよく知っているならともかく、そうとは思えない。しかも子どもが犯罪を起こして当然という育て方をしているなら、周囲が注意して当然であろう。その「周囲」の責任はどうなる。

 そんな厄介な議論をするまでもない。「子どもを犯罪者に育てるような親は」というなら、そのまた親はどうなるか。「『犯罪者になるような子どもを育てる親』を育てた親」ではないか。というわけで、この種の論理は無限に続いてしまう。だからどこの世界でも、実行した本人の責任を問い、そこで終わりにするのである。未成年だと、それがなんとなく成立しないように思うから、それなら親の責任だと、乱暴に収めようとするのであろう。

──略──

 それなら答えは明白であろう。子どもを育てるなら、落ちるようなところに住んではいけないのである。もし住むなら、ちゃんと見張らなければいけないのである。近所のビルで高いところがあって、窓が開くなら、子どもの出入りは禁止である。安全を考えるなら、それで当然ではないか。そこで事件が起きたら、管理者の責任である。

 なにをバカなことを。そう思われるであろうが、自分の子どものことと思ってよくお考えいただきたい。戦後の日本は子どもの都合をいっさい無視してきた。動機となったのは、いわずと知れた経済優先である。だからまず「遊び場」がなくなった。いまではそんなことをいう人すらない。だから子どもはゲームで遊んでいる。あれは場所をとらないのである。子どもが集まる必要もない。たとえ集まっても、各人が座る場所があればいい。

 社会的に高度経済成長期以降、子どもはつねに二の次だった。胸に手を当てて考えれば、それがわかるはずである。そもそも子どもが大切だなどと、本音で思っているわけがないことは、極端な少子化を見てもわかるであろう。だから「引き回しのうえ、打ち首」なのであろう。

 私が腹を立てているのは、そうした安易さに対してである。ああいう犯罪が「子どもから大人に対する、暗黙の異議申し立て」かもしれないなどという考慮は、どこにもない。子どもの犯罪を耳にすれば、だれでもいやな気持ちになるとはじめに書いた。その気分をすっきりさせればいい。単にそれだけの表現が社会的になされる。ひょっとすると選挙日当ての人気取りの可能性すらある。それがやりきれないのである。

 この年齢になっても私が学生の相手をしたり、保育園の手伝いをしているのは、社会の未来は子どもにかかっているからである。そんなことはあまりにも当然ではないか。それならそれなりに子どもを大切にしたらどうか。

 私が関係する保育園が引っ越したいと思って、適当な場所があったから土地の交換を申し入れた。そうしたら、保育園はダメだという。ウルサイというのである。ご本人は市に寄付した土地だから、法的に反対の権利があるわけではない。しかし保育園にするなら反対運動をするという。

無理をしても、子どものためにはならない。だからあきらめたが、一事が万事であろう。こちらはべつに悪いことをしようと思っているわけでもないし、自分の利益を図っているわけでもない。給料をもらっているわけでもない。逆に、だから意見が通らないのかもしれない。

 子どもを大切にするとは、べつに甘やかすことではない。だからウルサイと嫌われたっていいのである。欲をいうなら、私はせめて「ウルサイけど」の「けど」が欲しいだけである。ウルサイけど、子どもたちのためだ、まあ仕方がないか。大人にその余裕がなくなったら、国の将来は危うい。

 子どもはウルサイけれど、この貧乏国には、資源といえば、それしかないんですよ。「銀(しろがね)も金(くろがね)も玉も何せむに」という気持ちなどもはやどこを押しても出てこないのであろう。それなら「引き回しのうえ、打ち首」でよろしい。ただしその対象は、日本国の大人全員であろう。自分だけは別だとよく思えるなあ。自分の子どもはずいぶん立派に育っているんだろうなあ。それが今回の発言への私の感想である。
(養老孟司著「まともな人」中公新書 p221-227)

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 こうしてすこしずつ子どもの精神のうちに社会関係についての観念が形づくられる。子どもがじっさいに社会の能動的な一員になれる以前に、すでにその観念が形づくられる。エミールは、自分がつかう道具を手に入れるためには他人のつかうものも必要であること、そのおかげで自分に必要なもので他人がもっているものを交換によって手に入れることができるのを知る。わたしは容易にそういう交換の必要をかれに感じさせ、それを利用できるようにしてやる。

 「閣下、わたしは生きていかなければならないのです。」あるめぐまれない諷刺作家はかれのいやしい職業をとがめた大臣にむかってそういうこと言った。「わしはその必要をみとめない。」高官は冷淡に作家に答えた。

こういう返事は大臣のことばとしてはけっこうだが、どんな人にせよ、ほかの人の口から出たとしたら、残酷なことばであり、まちがったことでもある。

あらゆる人間は生きなければならない。この主張に人はその人間愛の多少に応じて多かれ少なかれ切実な若菜をあたえるのだが、自分自身についてそれを主張する者にとっては、これは争いがたいことだとわたしは考える。自然がわたしたちに感じさせる嫌悪のなかで、いちばん強いのは死にたいする嫌悪なのだ。

したがって生きるためにほかにどうにも手段のない者にとってほ自然によってどんなことでも許されている。有徳な人が生命を軽んじて、自分の義務をつくすために生命を犠牲にすることを学ぶようになるいろいろな原則は、右のような原始的な素朴さからはるかにかけはなれたことだ。

なんの努力をしなくても善良でありうる民族、そして徳をもたなくても正しい人になれる民族はしあわせだ。もし世界のどこかに悪いことをしなければだれも生きていかれないようなみじめな国、市民たちが必要のために悪者にならなければならないような国があるとするなら、絞首刑にしなければならないのは、悪事をはたらく人間ではなくて、悪事をはたらくことを余儀なくさせている人間だ。
(ルソー著「エミール -上-」岩波文庫 p344-345)

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◎悪事をはたらくことを余儀なくさせている人間……。

 二〇〇二年に認知された刑法犯の件数が三百六十九万件に達し、戦後の最多記録を七年連続で更新したことが、二十八日に閣議決定した犯罪白書で分かった。強盗や殺人など凶悪犯罪の増加が目立っている。一方で交通事故を除く一般刑法犯の検挙率は二〇・八%と前年より〇・九縛回復したものの、依然として低水準にとどまった。(日経新聞夕刊 031128)