学習通信031212
◎個性とはなにか? あなたは、小泉首相・ブッシュ米大統領・石原都知事……が輝いているとおおもいですか?
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「個性」を発揮すると
今、問題にしている「個性」を私が持っていたらどうなるか。つまり、私が極めて個性的な意見の持ち主で、それを人に伝えようとしている場合を考えてみる。
その場合、自分にとってのみ最も適切な言葉遣いで人にしゃべりかけると、多分、誰も聞いてないということになる。最も適切だと思う言葉が、今なら自然科学について語る場合、英語になる。そうすると、私が自然科学の話をするのは、英語でしゃべるのが当たり前になるはずでしょう。
が、そんなことをしたら、おそらく日本人の誰も聞いてくれません。仮にペルシャ語でしゃべるほうがもっと適切だと思って、講演会でそんなことをやった日には聴衆なんか一人もいなくなって、私を見つけるのは演台の上ではなくて救急車の担架の上、ということになる。
繰り返しますが、本来、意識というのは共通性を徹底的に追求するものなのです。その共通性を徹底的に確保するために、言語の論理と文化、伝統がある。
人間の脳の特に意識的な部分というのは、個人間の差異を無視して、同じにしよう、同じにしようとする性質を持っている。だから、言語から抽出された論理は、圧倒的な説得性を持つ。論理に反するということはできない。
松井、イチロー、中田
では、脳が徹底して共通性を追求していくものだとしたら、本来の「個性」というのはどこにあるか。それは、初めから私にも皆さんにもあるものなのです。
なぜなら、私の皮膚を切り取ってあなたに植えたって絶対にくっつきません。親の皮膚をもらって子供に植えたって駄目です。無理やりやるとすれば、免疫抑制剤を徹底的に使うなんてことをしないと成功しません。
皮膚ひとつとってもこんな具合です。すなわち、「個性」なんていうのは初めから与えられているものであって、それ以上のものでもなければ、それ以下のものでもない。
産みの親とだって、それだけ違うのに、何で安心して、違う人間に決まっていると言えないのか。逆に意識の世界というのは、互いに通じることを中心としている。もともと人間、通じないものを持っているに違いない。だから、アラブとイスラムの考えはわかるけれど、そういう「個」というものを表に出した文化というのは、必ず争いごとが起きている。
こう考えていけば、若い人への教育現場において、おまえの個性を伸ばせなんて馬鹿なことは言わない方がいい。それよりも親の気持ちが分かるか、友達の気持ちが分かるか、ホームレスの気持ちが分かるかというふうに話を持っていくほうが、余程まともな教育じゃないか。
そこが今の教育は逆立ちしていると思っています。だから、どこが個性なんだ、と私はいつも言う。おまえらの個性なんてラッキョウの皮むきじゃないか、と。
逆に今、若い人で個性を持っている人はどういう人かを考えてみてください。真っ先に浮かぶ名前は、野球の松井秀喜選手やイチロー選手、サッカーの中田英寿選手あたりではないでしょうか。要するに身体が個性的なのです。
彼らのやっていることは真似できないと誰でも思う。それ以外の個性なんてありはしません。
彼らの成功の要因には努力が当然ありますが、それ以上に神様というか親から与えられた身体の天分があったわけです。誰か二軍の選手がイチローの十倍練習したからといって、彼に追いつけるというようなものではない。私たちには、もともと与えられいるものしかないのです。
(養老孟司著「バカの壁」新潮新書 p48-51)
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個性について
「性格のない人間が、私にはガマンならない」とディドロはいった。私は、ディドロのこの言葉を好きだ。「個性のない人間が…」と訳し変えてもいいだろう。こんなふうにいえたということは、ディドロがほんとに人間らしい人間であったことの証拠だと思う。
個性的でない人間なんて、イヌにでもくわれろ。まして、個性的でない青春なんて、イヌもくうまい。
なぜなら、イヌだって一匹一匹の個性らしいものがあるのだから。勇敢なイヌに臆病なイヌ、賢い犬に愚鈍なイヌ、賢いけれどもずるいイヌに、愚鈍だけれども愚直愛すべきイヌ、というぐあいだ。
でも、ゴキブリに個性があるだろうか。
もちろん、ゴキブリにもいろんな種類がある。クロゴキブリとチャバネゴキブリでは体からしてまるでちがうし、ヤマトゴキブリはまたちがう。しかし、それは種ごとにちがいがあるというだけのことで、同じ種にぞくするゴキブリは、同じ鋳型からうちだされた製品のように、たがいになんらの本質的なちがいももたない。
その行動のおそらく九割九分までは、あらかじめ体内に生理的にくみこまれた本能のはたらきによる。これでは個性などほとんどありうるはずはなかろう。
だが、イヌなどのような高等哺乳類になると、本能のほかに、生まれてからのちの「学習」をつうじて身につけていく行動様式がかなりにきいてくる。お手をおぼえたり、チンチンをおぼえたり、というぐあいだ。個性とはこのように、自分を自分で新しくつくりだしていくところにあらわれるものなのだろう。
でも、このように自分を自分でつくりだしていける範囲は、イヌなんかの場合、やはり全体としては、せまくかぎられたものでしかない。しかもそれは「自分で自分を新しくつくりだす」というよりは、飼主などによって新しくつくりだされるといったほうが正確であるような、そんな性格のものだ。
飼イヌの性格はじつによく飼主の性格を反映するという。顔つきまでが似てくるという。たしかにそんな気がする。本格的な個性をもちうるのは、やっぱり人間だけであるようだ。
人間の主体性について
もちろん人間にだって、環境によってつくられる面はある。北国の人と南国の人とでは気質がちがうし、山の民と海の民、砂漠の民と沃野(よくや)の民とではまたちがう。自然的な風土のちがいが影響するというだけではない。都会育ちと田舎育ちのちがいは、たんなる自然的な風土のちがいではあるまい。
だが、人間はそれだけではない。人間は飼主しだいの飼イヌではない。このように環境によってつくられるという面をもちながらも、それだけにとどまりはしないというところに人間の人間たるゆえんがあるだろう。
環境が人間をつくるだけではない。その環境は人間がつくる。つまり、人間は環境にむかってはたらきかける。そこに、人間の主体性が発揮される。個性はそこに形成されていくのだ。
私たちの顔が田中角栄の顔に似てきたり、福田赳夫の顔に似てきたり、ということがあってはならないだろう。おたがいの心の顔が『週刊文春』や『週刊新潮』などのイミテーションになってしまうことがあってはならないだろう。
「全体主義」とは、みんなの顔が共通の飼主の顔に似てくるような体制のことだ。
だから、「全体主義」は必ずしも「ミリタリ・ルック」のかたちをとってあらわれるとはかぎらない。「今年の流行は個性を生かすことです≠ニいうことで、どなたも個性がなくなっちゃう」という皮肉な現象について、いぬい・たかしさんが指摘していたことを思いだす(『私の中の私たち』いかだ社)。
だから、ファッション雑誌からぬけでてきたような服装をして街を歩いてみても、それがすなわち個性的、ということには少しもならない。たとえそれがどのように人目をそばだたせる奇抜なものであったとしても、だ。
たんに他人とちがっていることがすなわち個性的、ということなんかでは少しもないのだ、と思う。ピカソの絵が個性的だというのは、目玉がうしろについていたり、目玉が三つも四つもあったりするような顔を好んで描くからではあるまい。かりに私が、目玉が三〇も四〇もある人間の顔を描いてみたところで、そんなものを誰が「個性的」と認めるだろうか。そんなのは反対に「サルまね」というのだ。
マスコミでマスプロされてくるタレントたち、そのおおくは強烈な「個性」を売り物にしてデビューしてくる。そしてある種の週刊誌などは毎号、これでもか、これでもかといわんばかりに、そのタレントたちの強烈な個性的生活ぶりや言動についての記事を満載してくる。だが、ちょっと冷静に見なおしてみると、こうした記事のなんとおそるべく千篇一律の絞切り型であることか。
固有名詞をどういれかえようと、ほとんどそのままで通用しそうな、そんなのばかりだ。ということは「個性」の仮面をかぶって出てくるものの、その仮面をはがした裏にあるものは、かぎりなく無個性に近いなにか、ということではあるまいか。
人生の総合芸術
六代目尾上菊五郎のことばにこんなのがあった。
「見せよう、見せようって、一人でやっちやいけない。芝居は一人でやるのじゃないんだから、一人だけよくっても、しかたがないんですよ。そこが総合芸術なんです」
人生のドラマもやっばり同じだ、と思う。
ここのところをまちがえるならば、人生の名優になることはけっしてできないだろう。
『荒野に育つつくしんぼ』(清水住子、さ・さ・ら書店)という本を読んだ。滋賀県大津市のつくし保育園の実践記録だが、もっとも感動したのは、健康な園児たちのなかに障害児が入ってきて、園生活をともにするなかでなにがおこったか、というところだった。
障害児が明るく生きいきとしてきたのは、いうまでもない。が、それ以上に、ふつうの健康な園児たちの「こころ」が、それによって大きくゆたかに成長していく姿、それに私は感動した。
歩けないユミちゃんの片手をのぶちゃんがとって、水道のところまでつれていこうとする。ユミちゃんはその手を払いのける。「ユミちゃん、のぶちやんが手をもつてあげようといっているんよ」と保母さんが声をかけて、もいちど手をにぎらす。そうして、保母さんがしばらく他の用にかかっていると、のぶちゃんの声があがる。
「センセ、ほら!」ユミちゃんが手をとられて歩いていた!
そのユミちやんが、自分の足だけではじめて、三歩、四歩、歩くときがきた。
「歩いた、歩いた」
「ユミちやんが歩いた!」
「ユミちやん、ガンバレ!」
ユミちゃんが歩けたことをわがこととしてよろこび、手をたたいている子どもたち。私はあやうく涙がこぼれそうになった。
「仲間との連帯のなかで、彼が彼でなければ仲間にそうすることができないような独得なやりかたを発見すること」、そこに「子どもの個性」は育つのだ、といぬい・たかしさんがいっていた(『伝えあい保育・乾孝論集』新読書社)。そのとおりだ、と私は思う。
(高田求著「新人生論ノート」新日本出版社 p92-97)
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個性は何によって輝くか
社会とその歴史が法則によって動くとすれば、そこに生きている私たち個人の存在意義はどの程度のものかが問題になります。
一九世紀デンマークの実存主義の哲学者キルケゴールが、はじめはヘーゲル哲学に心酔していたのですが、やがてヘーゲルの哲学体系は偉大だがそこには「個人」の「主体性」が欠落していると考えるようになりました。ヘーゲルの哲学は森羅万象すべてのものごとを体系のなかに位置づけて説明しつくしている。
人間についても、人間一般について人間の本性について、つまり人間とは何であるか、ということについて完壁に説明しているが、個人について「この私」については説かれていない。私たちは人間一般として生き、人間一般として死ぬのではない、個々単独のかけがえのない個人として死ぬのではないかと彼は主張して、ヘーゲルを批判しました。
キルケゴールのヘーゲル批判にはあたっている面があります。ヘーゲルには「森だけ見て個々の樹を見ない」といわれるようなところがあり、個々人は「絶対理念」の「あやつり人形」のようだという批判は、ヘーゲルの客観的観念論への批判として的を射抜いているところがありそうです。
ヘーゲルは絶対理念を頂点とする観念論の体系をつくることに関心が向いていて、「体系化」にこだわり、自分の体系が全人頬の知識の総決算であるかのような「閉じた体系」をつくってしまいました。したがって彼の歴史哲学や社会哲学は、これからも発展しつづける未来に向けての「開かれた科学」という性格をもっていませんでした。ヘーゲルの弁証法を生かしつつ、彼の観念論の体系をのりこえていったマルクスたちの努力がまさに必要となっていました。
社会とその歴史における法則性を客観的科学的にとらえる社会科学の基礎の上に個人の主体性が真に発揮されると思われるのですが、キルケゴールはヘーゲルの体系性とともに科学性をも放棄してしまい、「森を見て樹を見ない」ヘーゲルとは逆に、いわば「樹を見て森を見ない」方向へ行ってしまいました。
個性ある個人の人格を本当に理解しょうとすれば、その個人を他の人びとや社会やその歴史と切り離して理解できるでしょうか。ある人を理解するには、その個人についてのデータだけではあまり有効ではありませんね。身長・体重や知能指数などわかっても、その人の人格のほんの一部しか理解したことにはなりません。むしろその人を取りまく周囲とその人との関係が重要な手がかりになります。
どんな家庭でどんな社会でどんな時代に生まれ、育ったか、どんな学校で何を学んだか、どんな就職をしてどんな仕事をしているか、どんな友人とどんなつき合いをしているか、職場や地域でどんな活動をしているか、これらはみんなその人の社会的つながりです。その人の社会的ありかたを理解することによって、その人の人格がはじめて生きいきと理解されるといえましょう。いわば「森を見て樹を見る」ということですね。
いま他人を理解する例を述べましたが、自分本人の個性をどう発揮するか、個性は何によって輝くかといえば、それもやはりその個人の社会のなかのあり方によってきまると思います。社会のなかでのあり方というのは一口ではいいにくいですが、いろんな面から考えてみましょう。
まず社会のなかでのあり方といってもその人の学歴とか職場での地位とか、社交が上手とか下手かといったそのような社会的とか社交的なことをいっているわけではありません。
大事なことは、どんな職業の人でも、その人がその職業をとおして社会とどういうかかわり方をするのかということではないでしょうか。たとえば教員であるならば、たんに与えられただけの仕事をやり、可もなく不可もなしという程度に勤めるのか、そうではなく教育の仕事の重要性を自覚し、いま日本の教育がどんな状態なのかをよく見極めて、つねに最善の努力をするのかどうか、といったことが重要ではないでしょうか。
あるいは若い人たちは、これから職業を選ぶ時にどんな職業をえらぶかを十分考えると思います。もちろんそれは大事なことです。しかし教員になるにしろ会社員になるにしろ、サービス産業に勤めるにしろ製造業に勤めるにしろ、もっとも大事なことは、どんな教員になるか、どんな会社員になるか、サービス産業のどんな労働者になるか、製造業のどんな労働者になるのか、ということだと思います。
そして就職したらただ会社にいわれたとおりのことを惰性的にやるのではなく、自分と社会とのつながりを自覚し社会のなかでの自分の存在意義をどう見出していくかが大事ではないでしょうか。
ただ会社にいわれたことを惰性的にやるのではなく、といま書きましたが、それは会社にいわれた以上のことを使命感をもってやるかつての「猛烈社員」のように働けといっているのではありません。逆です。自分の労働のしかたはこれでいいのかということを社会とのかかわりで反省することも必要でしょう。
いま日本の労働者は働きすぎで、「会社人間」になりすぎていますから、人間らしさをとりもどすにはどうしたらいいかを考える必要があります。勤勉は本来けっして悪徳ではないはずですが、日本の労働者の働き方は世界中で問題になっています。日本資本主義のあり方全体が問題なのですが日本の労働組合も問題でしょう。労働組合のあり方を考えることも社会のなかでの自分の生き方を自覚する大事な要素ではないでしょうか。
社会とのかかわり方を自覚することが大事だといってきましたが、しかし社会とのかかわりがただ密着していればいいとか、距離をおいてはいけないとかいっているのではありません。一定の距離をおくのも現代においては社会とのかかわり方の積極的な一つのあり方かもしれません。問題は社会のどんな要素とかかわるのかということではないでしょうか。
これまで考えてきましたように、社会は変化・発展しつつあります。旧くて滅びつつある要素と新しい未来をきりひらきつつある要素とがあります。私たちは惰性的に生きるのでなく、この社会の未来をきりひらきつつある要素とのかかわりを大事にすることが大事なのではないでしょうか。私たちの個性は社会の未来をきりひらきつつある要素と結合したときにこそ輝くのではないでしょうか。
(鰺坂真著「哲学入門」学習の友社 p170-175)
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◎あなたは、小泉首相・石原都知事・ブッシュ米大統領を輝いているとおおもいですか? ……イラクの人民が自らの手で選んだ政府を自らの手で取り替えるのではなく、その人たちの人格≠否定する小泉・ブッシュ、それを応援する石原……彼らの個性=人格はまったく輝いているとは見えません。
◎総合コース「個性はなんによって輝くか」(鰺坂先生)の講義を受講した仲間は、「それを個性とは認めない≠ニいう言葉の意味をもっと重く深くとらえることが必要です。それはどんな意味をもち、どこにつながるのだろうか……。