学習通信031208
◎太平洋戦争開始62年周年
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経済封鎖で追いつめられる日本
日本は石油の輸入先を求めて,インドネシアを領有するオランダと交渉したが断られた。こうして,アメリカ(AmericaのA)・イギリス(BritainのB)・中国(ChinaのC)・オランダ(DutchのD)の諸国が共同して日本を経済的に追いつめるABCD包囲網が形成された。
1941年春,悪化した日米関係を打開するための日米交渉が,ワシントンで始まった。日本はアメリカとの戦争をさけるため,この交渉に大きな期待を寄せたが,アメリカは日本側の秘密電報を傍受・解読し,日本の手の内をつかんだ上で,日本との交渉を自国に有利になるように誘導した。
7月,日本の陸海軍は南部仏印(ベトナム)進駐を断行し,サイゴンに入城した。サイゴンは,アメリカ領のフィリピン,英領シンガポール,蘭領インドネシアのすべてを攻撃できる,軍事上の重要地点だった。危機感をつのらせたアメリカは,7月,在米日本資産の凍結と対日石油輸出の全面禁止で対抗した。
米英両国は大西洋上で会談を開き,両国の戦争目的をうたった大西洋憲章を発表して結束を固めるとともに,対日戦を2,3か月引き伸ばすことを決めた。
日本も対米戦を念頭に置きながら,アメリカとの外交交渉は続けたが,11月,アメリカのハル国務長官は,日本側にハル・ノートとよばれる強硬な提案を突きつけた。ハル・ノートは,日本が中国から無条件で即時撤退することを要求していた。この要求に応じることが対米屈服を意味すると考えた日本政府は,最終的に対米開戦を決意した。
初期の勝利
1941(昭和16)年12月8日午前7時,人々は日本軍が米英軍と戦闘状態に入ったことを臨時ニュースで知った。
日本の海軍機動部隊が,ハワイの真珠湾に停泊する米太平洋艦隊を空襲した。艦は次々に沈没し,飛行機も片端から炎上して大戦果をあげた。このことが報道されると,日本国民の気分は一気に高まり,長い日中戦争の陰うつな気分が一変した。第一次世界大戦以降,力をつけてきた日本とアメリカがついに対決することになったのである。
同じ日に,日本の陸軍部隊はマレー半島に上陸し,イギリス軍との戦いを開始した。自転車に乗った銀輪部隊を先頭に,日本軍は,ジャングルとゴム林の問をぬって英軍を撃退しながらシンガポールを目指し快進撃を行った。55日間でマレー半島約1000キロを縦断し,翌年2月には,わずか70日でシンガポールを陥落させ,ついに日本はイギリスの東南アジア支配を崩したフィリピン・ジャワ(現在のインドネシア)・ビルマ(現在のミャンマー)などでも,日本は米・蘭・英軍を破り,結局100日ほどで,大勝利のうちに緒戦を制した。
これは,数百年にわたる白人の植民地支配にあえいでいた,現地の人々の協力があってこその勝利だった。この日本の緒戦の勝利は,東南アジアやインドの多くの人々に独立への夢と勇日本政府はこの戦争を大東亜戦争と命名した。日本の戦争目的は,自存自衛とアジアを欧米の支配から解放し,そして,「大東亜共栄圏」を建設することであると宣言した。日本に続いて,ドイツ・イタリアもアメリカに宣戦布告した。こうして,日・独・伊に対抗して,米・英・蘭・ソ・中が連合して戦う,第二次世界大戦が本格化していった。
緒戦の勝利に日本国民は酔っていた。だがここから先をどうするか,日本軍ははっきりした見通しをもっていなかった。
(「新し歴史教科書」扶桑社 p274-277)
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大いなる誤算
こうしたむずかしい曲がり角にあった日本にとって、一九二九年(昭和四)に始まる世界大恐慌は、あまりにも大きなショックであった。それは日本の輸出を急激に減少させた。たとえば、網の輸出は一九二五年の八億五千万円から三億四千二官万円へと減少した。絹は日本にとって全輸出の三五パーセントを占めるものであり、日本の農家の多くはその生産によって収入を得ていたから、彼らが受けた打撃はきわめて深刻なものであった。
この大きな経済的危機に際して、日本の指導者と国民は勇気をもって対処していった。彼らは新しい市場を求めて、アフリカや南米やオーストラリアやヨーロッパに出かけていった。それは目ざましい成果を収めたのである。
たとえば、メキシコとキューバを含む北アメリカのラテン系諸国への輸出は、一九三一年から一九一二四年の間に一二〇〇パーセント、南アメリカ諸国へは五〇〇パーセント、そしてインドには一億一千万円から二億五千八百万円へと増した。イギリスへの輸出は二倍、オーストラリアへの輸出は四倍、南アフリカへの輸出は二倍、そしてニュージーランドへの輸出は四〇〇パーセントふえたのである。
全体としてみれば、一九三一年から一九三四年の間に、輸出は十一億五千万円から二十一億七千五官万円へと九〇パーセントも増大したのであった。それは日本という若い国家のエネルギーを示していた。
しかし、この危機を同じようなエネルギーをもって別の形で解決しようとした人びともあった。すなわち軍人たちの一団であり、彼らは一九三一年(昭和六)に満州において独断で軍事行動をとり、満州国建設へと日本を強引にひっばっていったのである。この行動の中心となった少壮将校や兵士たちは農村出身者が多かった。
彼らは満州にあって、日本人が日露戦争以後苦心して築き上げてきた満蒙の権益が危機にひんしたのをみて、幣原外相の外交に不満をもっていたが、一九二九年の世界恐慌の影響で、日本の農村の貧困がますます激しくなるのをみて、手段のいかんを問わず、この窮状を解決しなければならないと考えたように思われる。彼らは使命感にあふれていたが、しかし、世界の状況には暗かった。
それゆえ彼らが満州において武力行動をとり、世界各国が日本を非難はしても実際に有効な行動をとりえなかったことも、日本の政府がこの軍人たちの勝手な行動を断固として処置しなかったことも、軍人たちに対する統制力をいちじるしく弱め、軍人たちの勝手な行動を許す先例となった。
それ以後、国外においては、軍人たちは支那の国内混乱と弱体につけこんで満州から北支那へと実力によって勢力圏を拡大していったし、国内においては、クーデターによって軍部の指導権を確立していったのである。軍人たちの対外侵略を制約しうる政治家は不幸にしていなかった。
それはある程度までは責任ある場所に置かれた政治家たちの決断のなさによるものであるが、ある程度までは明治の政治体制の欠点の現われでもあった。明治憲法においては軍は天皇の統帥下に置かれ、首相は直接の権限をもっていなかった。
それゆえ、天皇と元老が実質的な指導力を発揮しなくなると、軍隊を統制するものがなくなるのであった。明治天皇が崩御され、元老が死亡したり、年をとって指導力を失ったことは、大きな欠点となって現われたのである。
それに一九三〇年代の国際政治は、変転きわまりない複雑な様相を示していた。それは世界的な視野からみて初めて理解されうるものであった。しかし、日本の政治を指導していた人びとの目は主としてアジアに限られ、ヨーロッパの政治の動きや、アメリカの考えを十分に理解できなかった。三国同盟を結べばアメリカに対する日本の立場は強くなるから、日本はアメリカから中国についての妥協を得ることができるというような誤った考えはそこから生まれた。
日本のなかには今上天皇をはじめとして戦争がおこるのをなんとか防ぎたいという気持ちをもつ人が少なくなかったのに、日本は一九四心年十二月、ついに米英両国との戦争に突入してしまった。それは、今までに述べてきたいくつかの要因の複雑なからまりからおこった大きな悲劇であった。
(吉田茂著「日本を決定した百年」日本経済新聞社 p64-69)
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第一二章 大元帥の試練
アメリカの石油禁輸により日本は軍事的に締めあげられ、中国での敗北を認め、したがって大陸における帝国の版図の大部分を放棄するかどうかの選択に直面して(そのことは、おそらく昭和天皇が継承した君主制を揺るがすことになっただろう)、天皇は第三の選択、すなわち対英米との戦争を選んだ。
昭和天皇は多くの軍の最高指導部と同様、すでに全欧州を席巻したドイツがイギリスに勝利するであろうと考えていた。たとえ、生産能力や軍事力でアメリカに劣っていようとも、事前に定められた戦略計画が予定通り迅速に達成されれば、少なくとも引き分けに持ちこむことができるだろう。決断に際し、天皇は万難を排して勝利に向けて戦争を統轄、指導するため全力を尽くした。これこそもっとも求められていた務めであり、きわめて重大な役割であった。
とくに分散した権力構造を調整・統制し、内閣と統帥部の対立を調整するには、きわめて強力な人格によるリーダーシップが必要だった。しかし、昭和天皇は、おおよそそれには似つかわしくなかった。考えをまとめる際もあまりに慎重で遅いため、陸海軍の対立を克服することができず、そのため陸海軍の意思と力を統一することができなかった。これが後に大きな犠牲を生むこととなった。
昭和天皇は帝国への責任、突き詰めるならば皇室の利害に対する責任意識が強く、そのような観点から統帥部を監督していた。また、日本は本来、防御よりも攻撃において優れているという考えを支持していた。生来、楽観的なため、困難な軍事情勢に対しても、軍が懸命に戦えば勝てるとの態度で臨んでいた。
他方、作戦を裁可するまでは、用心深いのが常だった。昭和天皇は、戦況の悪化が懸念されることに目を光らせていた。そしてまさに悪化の兆候を看取するばかりか、実際、天皇が言ったとおりの措置を統帥部がとらなければ、どのような事態になるかまで予測していた。
日中戦争でなかなか、勝利することができなかったために、昭和天皇は非常に懐疑的な指導者となっており、参謀本部が指導する作戦に全幅の信頼を置いてはいなかった。天皇は、ときにかなり厳しく統帥部の誤りを指摘し、その自信過剰を批判した。
他の国の最高司令官と異なり、昭和天皇はけっして戦場を訪れることはなかった。しかし、作戦の企画と実施の双方において、天皇の関与は必ず現地の作戦に決定的かつ重大な影響力を及ぼしていた。日中戦争初期の四年間、昭和天皇は大本営で最上級の軍事命令を発してきた。
そして、天皇の名のもとに伝達される決定を下した会議に、しばしば臨席した。太平洋や中国の前線から帰ってきた陸海の将軍から拝謁を不断に受けていた。昭和天皇は、公に前線部隊(後には、銃後の組織も)を督戦し、嘉賞した。「お言葉」やそれを伝える勅使を前線に送りつづけ、そして勅語(それはアメリカの司令官に贈られる大統領の感〔謝〕状よりもはるかに名誉と権威を持つものであった)を軍功のあった将官に授けた。
昭和天皇は、勅語で用いられる言葉が正確にその意を伝えられるように、注意深く手直ししていた。基地、軍艦そしてさまざまな陸海軍の司令部に足を運んだ。軍学校を視察し、生産を高揚させるために産業界の指導者を引見し、兵器開発に非常な関心を寄せ、そして、国家の犠牲になることを正当化するメッセージを国民に徹底させていたのである。
しかし、戦時における昭和天皇の最大の力は、天皇生来の寡黙さや自制心をリーダーシップの資質に転換できた点にあるといえる。昭和天皇のカリスマ性はむしろ、普通の人の資質とは異なる天皇としての存在そのもの、つまり神代からの血統、幾世紀にもおよぶ皇位の伝統と義務、そして、近代になってから単にイメージ操作だけによって作り出された部分からなっていた。
天皇が戦争で生き残ることができたのは、彼がさまざまな方法で君主として欠くことのできない頑固なまでの一貫性や決意を持っていたからである。
一八八九年発布の明治憲法の設計者たちは、昭和天皇のように頑なな性格だが、制度の変更を認めてしまう天皇を予測することはできなかった。御学問所で進講した者も、昭和天皇が「大東亜戦争」を始め、指導し、そして長く迷った末に終結させることを予測できなかった。しかし、大元帥として軍事大権を持つ以上、宣戦布告、戦争の遂行、そして和平の実現については、天皇はただひとり最終的な責任を有する。
何世代も前の伊藤博文とその同僚は、天皇の地位にあるかぎり逃れようのない重責を、いまだ生まれていない昭和天皇に課すこととなったのである。
その一方で天皇は、神事──これこそ皇位の本質であるが──も執り行わなければならなかった。昔の天皇の中には、その煩わしさから、宗教的義務に悩むよりむしろ退位を選ぶ天皇がいたほどである。昭和天皇は、戦時においてさえ神事にこだわった。臣民が詠んだ歌を天皇や宮中職〔寄人〕が判定する歌会始のような年中行事も続けた。
昭和天皇は国家の命運と国体の護持を戦争に賭するようになってから、前にもまして、神道の神々に祈願するようになった。
(ハーバード・ビックス著「昭和天皇 -下-」講談社 p73-76)
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太平洋戦争開始62年周年
歴史の教訓に学ばぬ首相
一九四一年十二月八日は、天皇制政府がマレー半島への上陸とハワイの真珠湾への奇襲攻撃によって太平洋戦争に突入した日です。その六十二年後、小泉内閣は、開戦記念日の翌日にあたる九日にも、戦後初めて戦場に地上部隊を派遣する自衛隊イラク派兵計画を閣議決定しようとしています。
軍事同盟絶対視
今年七月、イラク特措法の国会審議で、日本共産党の吉岡吉典参院議員は中国東北部への侵略(一九三一年)から太平洋戦争開始(一九四一年)にいたる侵略の歴史を踏まえ、「かつての教訓を生かした判断を、いま、日本政府も与党も野党もすべてがおこなわなければならない重大な時期だ」と訴えました。
一つは、軍事同盟を絶対視した見通しの誤りです。
小泉純一郎首相は先の特別国会で「現在の状況においても、自衛隊の派遣は無理だと断定する状況にない」「米英はじめ三十数カ国の部隊が協力・している」(十一月二十五日、衆院予算委)とのべました。米国の先制攻撃戦略に無批判に追随した日本が、すでに軍隊を送って米国に忠誠を示している三十数ヵ国に遅れをとることがあってはならないといわんばかりです。
第二次世界大戦にすすむ過程で、日本がナチスドイツと軍事同盟を結んだときも同じような状況がありました。
吉岡氏の「日本の侵略と膨張」によれば、防衛研究所元戦史部長の序文入りの『日本の戦争−図解とデータ』は当時の状況について、次のようにのべています。
「一九四〇年五月のドイツの電撃作戦の大成功・仏・白蘭の屈服は日本にとって暗雲の中に光を見るように受けとられた。英国の屈服も近いと見られ、この機に乗ずれば懸案の解決も可能になろうと思われた」。そして」「『バスに乗りおくれるな』が時代のスローガンとなり」(『新版日本外交史辞典』)、一九四〇年九月、日独伊軍事同盟を締結したのです。
いま、小泉首相らが「ひるんではならない」と盛んに口にするのと似ています。
吉岡氏は、「それに似た誤った見通しの下でアメリカは戦争を開始して、早くも泥沼状況。他国が軍隊を送ってそこに新しい自分らの思うような政権をつくるなんということは、歴史上も成功したことはない」(七月二十二日、参院外交防衛委)と指摘しました。
大義なき戦争へ
もう一つの教訓は、大義なき戦争につきすすむことの重大さです。太平洋戦争につながる中国侵略は、旧日本軍(関東軍)による謀略で開始されました。そのことは、外務省監修の『日本外交百年史』でも指摘されています。
「昭和六年九月十八日夜十時奉天郊外柳条溝(ママ)で満鉄線が爆破される突発事件が起った。…中国側は迅速に事件の経過を発表しているのに反し、日本側は沈黙を守っているのであるから、世界の疑惑の目は日本に集中する有様であった。それもそのはずで爆破事件は関東軍の陰謀によるもので、関東軍を牛耳る板垣征四郎を始め二、三の間にこの計画が隠密の中に進められ(た)」
イラク戦争でも「イラクによる大量破壊兵器保有」という米英軍の大義は成り立たなくなっています。米英両国では政府による情報操作の疑いが大問題にもなりました。
吉岡氏は、同じように謀略で侵略戦争が開始されたことをあげ「謀略的なやり方で始まった戦争、そしていま、泥沼化しつつある、首相自身が安全なところがあるといえないところへ、自衛隊を送ってはならない」(七月二十五日参院外交防衛委)と訴えました。
いま、日本の実力阻織が「殺し、殺されるかもしれない」(小泉首相)地へと送りこまれるかどうかの腰戸際に立っています。歴史の教訓から何を学ぶべきかをもう一度考えてみるときです。(藤田健記者)
(しんぶん赤旗 031208)
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◎黙っていては いけない。日本はいま歴史の岐路にたっている。