学習通信031204
◎歴史に責任をもつと。……私が恐ろしいと思うのは、
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新聞の記事を見るかぎりでも、質問と答えはよくかみあっていたと思います。
私が大切なことだと感じたのは、「一九九五年に(当時の)村山富市首相が概括的にアジアの人々に謝罪したが、日本はすべての公式文書の中で一度も中国に対し侵略戦争について謝罪していない」という、朱首相の具体的な指摘でした。
私は日本の政府の高官といわれる人たちが、外国に行ってする──とくにアジアの国々に行ってする──あいまいな内容を美しい言葉で包んだ挨拶がいつも気になります。包装はきれいだけれども、開けてみると、自分の欲しいものはなにも入っていないお客さんのお土産に、内心がっかりしたことを、みなさんは覚えていませんか?
私は中国の首相の、それを聞いて良い気持にさせてもらう、というのじゃないけれど、しっかりと内容のある言葉を、あの討論に出た、またそのテレヴィを見た若い人たちは、よく覚えてゆかれるだろう、と思います。
もともと、この首相の答えは、日本人の参加者から出た、「いつまで日本に謝罪を求め続けるのか」という問いかけに対してのものでした。あわせて朱首相は、「いつまでも日本に謝罪を求めないが、謝罪するかどうかは日本人自身の問題だ。考えて欲しいと思う」ともいわれました。
これも、しつかりした内容のある言葉だと思います。本当に、それは日本人の問題です。そして、日本人が(自分で)謝罪する決心をし、実行することが、なぜ(自分に)必要なのか、と皆さんに質問されるなら、私はそれが(自分の)誇りのためだ、と答えます。
日本人が、中国に攻め込み、女性に暴行したり、子供をふくむ多くの人を殺したりしたのです──南京大虐殺は、そのひとつ──。それは、皆さんからいえば、お祖父さんの世代か、あるいはさらにそれより年上の世代の日本人のやったことです。だから、自分たちには関係がないとは、あなたたちに誇りがある以上、いわないだろうと思います。
これまでそれをよく知らなかったとしたら、学ぶことができます。そうすれば、(自分たち)日本人のやったことである侵略戦争を、国の公式文書で謝ることに、あなたたちは反対しないはずです。あなたたちの仲間で、弱い相手にひどいことをした人が、いつまでも謝らないとしたら、あなたたちは、その人を勇気のない人間だと考えて軽蔑するでしょう。
まだあなたたちが生まれて来ない以前から、いまにいたるまでずっと、歴史の新しい教科書を作ろうといってきた、私と同じ年ごろの老人たちがいます。そして、それは日本の子供たちに──あなたたちにですよ──誇りを持たせるためだ、というのです。どのようにしてでしょうか? 歴史の教科書から、中国はじめアジアの国々を自分の国が侵略したことについての文章を消してしまうことで!
私はあなたたちの多くが、それは話が逆じゃないか、と感じられると思います。そういう逆の話を(自分たちのために)しないでもらいたい、と腹をたてる人もいるはずだと思うのです。日本の中学校、高校のすべての歴史の教科書から、日本人がアジアの国々に対してした、ひどいことの記述が消されてしまい、日本の子供たちがみんなそれについて知ることができなくなったとしても、日本をかこむアジアの国々の子供たちは、それを知っているのです。そして将来、あなたたちはかれらと話しあって仕事もし、新しい世界を作ってゆかなければならないのです。
私が恐ろしいと思うのは、中国の人たちが「もう日本に謝罪をもとめない」と言い出す日のことです。もちろんそれが、日本の政府がとうとう公式文書で謝罪した後で、というのならば、喜ばしいことです。しかし、そうでなくて、中国の人たちが、とくに若い人たちがこう言いはじめたとすれば、将来、かれらとあなたたちは本当に良い関係を結ぶことができるでしょうか?
(大江健三郎著「「自分の木」の下で」朝日新聞社 p130-132)
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三 日本の社会を変えていくために
「思うこと」というのは問題意識だと述べました。これはあなた方自身が「思うこと」なのですが、ここで、私の「思うこと」をちょっと述べたいと思います。それは現在の状況のなかで私が感じている問題意識です。
歴史に対する責任
まず第一に、戦争責任の問題です。あなた方が生まれたときにはもちろん、あなた方の親が生まれたときでさえ、第二次世界大戦はもう終わっていたでしょう。だから自分たちには戦争の責任はない、と考える人がいるかもしれませんね。しかし、それはちょっと甘いと思うのです。
なぜ甘いか。歴史的な観点から見てみましょう。過去に起こった出来事の結果が現在です。現在の状況は、あるとき突然天から降って湧いてきたものではありません。さきほど述べたように、有事法制案の前には、「なし崩し」の積み重ねがあったわけですね。そういう積み重ねの結果として、現在、有事法制案が議論になっているのです。
だから、有事法制案を十分に理解するためには、過去に関する知識が必要なことはいうまでもないですね。過去と現在は結びついている、現在は過去の結果以外のなにものでもないからです。これが最初に言いたいことです。
次に、こんどは未来に目を向けてみましょう。これからあなた方がどうしていこうかというときに、すべての行動には目的があります。どこへ行きたいという目的があるはずです。その目的を達成するための手段は限られています。だから、与えられた手段のなかから、そのとき使える手段を選んで、目的を達成しようと努力するわけです。
もっと細かい理屈が好きな方には、行動原理、行動理論の本がありますから読んでみてください。戦後、アメリカの社会学者のパーソンズが詳しく書いていますが、要するに、目標があって手段があり、その二つがあらゆる行動の条件であるということです。
「思うこと」から、自分でこうしたいという目的が出てきます。たとえば、週末にディズニーランドへ行きたいという目標があるとしましょう。次にそこへどうやって行くのか、ということで、いろいろな手段を考えますね。ここからディズニーランドへ行く手段はたくさんあるでしょう。遠すぎて歩いては行けません。
自動車では道が込む可能性があります。いちばん便利なのはおそらくヘリコブターでしょうが、それはお金がかかるから使うことができないとしましょう。たとえ道が込む可能性はあっても自動車を運転して行くか、時間がかかっても電車を乗り継いでいくかでしょう。普通、私たちは、そういうふうに手段を選んでいきます。
すべての行為が成立するための条件のうち、半分は目的の選択です。そしてもう半分の条件は手段の選択、ということになります。手段はいま与えられている手段のなかから選ぶわけですが、現在使えるすべての手段はつねに過去の歴史がつくりだしたものなんですね。そのなかから選択するほかないのです。
ですから、未来に目を向けたときにも、手段は過去の結果としての現在から選択される、つまり、現在において過去と未来は出会っているわけなのです。現在は過去の結果であると同時に、現在のすべての行動は未来へ向かっているのですから、過去は未来へ向かっての行動の条件であるということができます。
戦争などの大がかりな問題だけではなくて、週末にどこへ行くかというような話のときでも、私の言っていることは妥当します。すこし抽象的ですが、すべての行為を含んでいるのです。
だから、戦争が終わったときに生まれていたか生まれていなかったか、などということはあまり重要な問題ではありません。いまあるもののなかから未来へ向けての手段を選択することは、過去の結果の中から選ぶということであり、同時に、現在は未来へ向かってのあらゆる行動の条件であるわけですから、現在に生きていることは、過去とは切り離せないということなのです。
未来へ向かってどういう手段を選択するか、というときには、過去の歴史を振り返ったうえで、批判的に選択していくことが必要になります。あなた方が過去から譲られた結果のひとつである核兵器の可能性を、ひとつの手段として受け入れるのか受け入れないのか。
その選択の責任は、過去にあるのではなくて、現在にあるのです。核兵器を手段として使うのは、現在生きている人ですから、これは当然のことです。
もちろん、こんなに大変な兵器をつくってしまったことに対する責任は、あなた方にはありません。核兵器を開発したのは、米国政府の決定ですから、その責任は当時のアメリカ政府にあります。しかし、米国政府の決定は、ホワイトハウスや議会を含む米国社会のなかで行われました。そして、米国社会は現在もずっと続いているわけですから、核兵器を開発した米国の社会に対してどういう態度をとるかということは、あなた方の選択であり責任です。
この点については、あなた方が生まれる前に開発された兵器だから関係がない、というわけにいかないのです。
ナショナリズムについても同様のことが言えます。ナショナリズムによって第二次世界大戦が起こったとするならば、それに対してどういう態度をとるのか、ということは、あなた方の問題です。ナショナリズムはいまでもありますね。
だから、もし今あるナショナリズムに反対しないのだったら、現在と過去はつながっているのですから、過去のナショナリズムに対しても、反対していないということになります。反対していない、ということは、すなわち、賛成の意思表示なのです。
ジャン・ポール・サルトルは戦後に、あらゆる社会は政治的だ、政治的社会のなかでは沈黙もひとつの発言であると言いました。沈黙は必ず現状を承認する「発言」なのです。
だから、核兵器を使うこと、新しくつくることに対して反対しなければ、核兵器の開発をも容認していることになります。あるいはいまあるナショナリズムに対して反対しなければ、過去のナショナリズムをも容認しているのです。過去にナショナリズムによって戦争が起こったということは、知識の問題です。
けれども、ナショナリズムはいまでも生きています。核兵器はいま日本にないけれども、これからつくる可能性はあります。そうした可能性に対してどういう態度をとるのか、抽象的にいえはそういうことですが、これは大きな問題です。
(加藤周一著「学ぶこと 思うこと」岩波ブックレット p42-46)
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12月8日
太平洋戦争が始まった。1941(昭和16)年
「新高山(にいたかやま)ノボレ ー二〇八」──北太平洋をハワイに向けて南下中の連合艦隊は作戦開始の暗号を受信した。夜明けに航空母艦から飛び立った一八三機の日本の海軍機は、ハワイ時間で午前七時四九分、真珠湾を不意うちし、停泊中の八隻のアメリカ軍艦のうち四隻を沈没させ四隻に大きな損害を与えた。
野村駐米大使がワシントンでアメリカの国務長官ハルに最後通牒を手渡したのはその一時間も後であった。この日本の先制攻撃は「リメンバー・パールハーバー」 の合い言葉となってアメリカ国民を戦争にむけて一致団結させた。
(永原慶二編著「カレンダー日本史」岩波ジュニア新書 p193)
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◎イラクで日本の外交官が殺された。自衛隊がイラクへ派兵されようとしています。遺書≠書いている隊員もいるといいます。
外交官の殺害はアメリカ軍の誤射の可能性も報道されています。
歴史に責任をもつということは、過去・現在、未来に責任をもつということです。黙っていてはいけない。今日に生まれた子どもの20年後はどのようになっているのでしょうか? 日本中の青年が問われているのです。